黒い帽子を深々とかぶった青年は静かにドアを開いた。
そこには体長1メートルをゆうに越えるドーベルマンが眠っていた。
首元に銀色の鈴をつけたドーベルマンは、その名を『ヒデキ』と言う。
あまりにも幸せそうに眠っていたので、青年は思わず蹴飛ばしてしまった。
バキッ!
青年の会心の蹴りが、ヒデキの尻を打つ。
その痛みに飛び起きたヒデキだが、なぜ尻が痛むのかまったく理解していない。
しかし、次の瞬間だった。
ヒデキはその視界に青年の姿を捕えると、血相を変え激しく吼え始める。
その声があまりにうるさいので、青年は有無を言わさずもう一度蹴り飛ばした。
そして…ヒデキはとうとう青年の方を睨んだまま今にも飛び掛りそうに身構える。
青年も負けじとまっすぐにらみ返す。
そのにらみ合いが五分ほど続いたとき、奥から誰かが現れた。
「ッ!?」
その新たに現れた姿を目にした瞬間、青年の表情は凍り付く。
そこには…、もう一匹のドーベルマンがいたのだ。
こちらの首には金の鈴。名前は『サトシ』というのだが、いまの青年には知る由もない。
サトシはためらいも無く、青年の首をめがけて飛び掛ってきた。
青年は困惑しながらも、間一髪でサトシの突進をかわす。
サトシはそのまま青年の横をすり抜ける様な形で地面に着地すると、ヒデキの横に並んで同じ様に青年の方を睨み出した。
「チッ。これだからここにくるのは嫌なんだよ」
小さく舌打ちをして、対応策を考える。
表面的には至って冷静を決め込むが、内心はそれなりに焦っている。
青年はしかめっ面のまま、じりじりと迫りくる二匹に圧倒され一歩一歩後ずさって行く。
一匹だけならなんとかなるが、二匹同時となるとかなり分が悪い。
まともに相手をしていては危険だ。
なら、まともじゃない方法で相手をすればいい。
そう考えた瞬間に青年の頭の中に最善策が浮かんだ。
「……フッ」
青年は不適な笑みを浮かべる。
コートの内ポケットから飲みかけの酒瓶を取り出し、二匹の足元に投げつけた。
中身の高純度の酒が飛び散り、あたりにアルコール臭がひろがった。
「まったく。俺を恨まないでくれよ」
気化し始めたアルコールに向けて、火のついたライターを放り投げた。
ゴオォォォォォ…。
ゆっくりと、その場を包み込む様にオレンジ色の炎が辺り一帯をほとばしる。
『ク…クウン…』
その熱気に囲まれた瞬間、二匹のドーベルマンの勇ましかった表情が怯えたそれに変わる。
二匹に火が迫ってきたその時、天井のスプリンクラーが作動した。
大量の水が降り注ぎ、あっという間に火は消える。
「やれやれ、物騒なやつだな」
「ったく、見てたんならさっさと出てこいよな!」
青年はびしょ濡れになった帽子をとり、現れた人物に不機嫌さを隠さずに怒鳴った。
「おいおい、とんだ言い草じゃないか?もとはと言えば智宏がヒデキを蹴飛ばしたのが原因じゃないか」
突如現れた人物は青年を『智宏』と呼ぶ。
そして、からかう様なふざけ笑いとともに歩み寄ってきた。
「どうせコレらはお前が造ったものだろ。悪趣味だな、隆」
目の前の男性、『隆』は少しだけ目を見開いた。
「驚いた。今度のは自信作だったんだけど、もうばれちゃったのか」
「そりゃそうだろ?あの犬っコロの尻を蹴った時、確実に金属の感触があったんだからな」
智弘は目の前の隆の余裕そうな表情に少しムッとする。
「表面は触った程度じゃ分からないくらいの質感にしてるのに、君はそんなに強く蹴ったのか」
君は酷いやつだなぁ、と隆は言う。
そして二匹の『自信作』達はクウンと頼りなく吼え、隆の後ろに隠れる様に擦り寄った。
「いや、蹴る前から薄々勘付いてはいたよ。正確に言うとお前が俺をこの研究室に呼び出した時点から、何となく嫌な予感はしてたからな」
智弘は表情を変えないままで言う。
この男に呼び出されて、良かったことがあった試しなど一度も無い。
「いや〜。この子たちの実践テストがしたくてね。君なら素通りなんてせずに必ずちょっかい出してくれると信じてたよ」
つまり、またこの男にはめられたようだ。
「……言いたい事はあるが、まあいい。人を使った以上、もらうものはもらうぞ」
智弘はそういうと、右手の平を隆に向けて差し出した。
「へいへい、そりゃあもう心得てますよ」
隆は相変わらずにやけた表情で言うと、懐に手を入れ何かを取り出した。
その手にはかなりの厚みのある封筒があった。
「次もよろしく頼むよ」
ぽん、っと智弘の手にのせる。
「……」
智弘は受け取った封筒をそのままコートの内ポケットに入れる。
しかし不思議な事に、その表情には妙な企みを秘めた含み笑いが浮かんでいる。
「ん?どうかしたん?」
隆はその智弘の表情に疑問を抱き、尋ねる。
すると…
「次が…あればな」
思わせぶりなセリフを残し、研究室を後にした。
そして、外に出てすぐに携帯電話を取り出し、目的の相手に電話をかける。
その相手には、2コールでつながった。
「もしもし…俺」
智弘は電話の相手に言う。
会話から察するに、どうやら電話の相手は智弘とは関係の深い人物に思える。
「ああ、今出たよ。じゃあ、頼んだ」
ピッ。
それだけ…たったそれだけの簡単な会話を済ませると、智弘は携帯電話の通話を切った。
「さ〜て、次は何を造ってみようかな」
隆は研究室内で一人、アイディアを練っていた。
ピーッ。ピーッ。ピーッ。
来客を知らせるチャイムが室内に鳴り響いた。
「おや、一体誰だろ」
モニターをつけると、そこには彼が良く知っている顔があった。
「ニュウニュウ!?」
『ニュウニュウ』と言う名の、この近所によく発生する猫だった。
ここのところニュウニュウはよくこの研究室にやって来ては、来客用ブザーにいたずらをする習慣が付いたらしい。
例によってこの日も研究室に遊びに来たのだろう。
「な〜んだ。今日も来たのか」
すぐにニュウニュウを招きいれ、ミルクを与えるために冷蔵庫をあさる。
「えっと、どこに入れたかな…」
ボンッ!
ゴソゴソと中を探っていると、背後からそんな音が聞こえた。
隆が振り向くと、そこにあったはずの隆のパソコンがバラバラになっていた。
「うわ!一体何が起こったんだ?」
あわてて駆けつけると、ガラクタになったパソコンの陰からニュウニュウが出てきた。
「ニュウニュウ。そこにいると危な……」
そこまでいって、隆はあることに気づいた。
ニュウニュウの胴体が裂けていて、中に機械が詰まっていることに。
「こ、これは…ニュウニュウじゃな…」
気付いて言いかけた時には既に遅かった。
突然、『ニュウニュウ』の胴体の裂け目から、ものすごい速度で何かが隆の方へ飛び出してきた。
ドゥン!
「……」
ゆっくりと目を開いてみると、そこには細長い紙があった。
そこには『次は本気で殺る、忘れるな。 智弘』とだけ書いてあった。
智弘は冗談でこんなことをしたりはしない。やるといったのなら間違いなくやるだろう。
しかし、隆はそれを見てニヤリと口の端に笑みを浮かべた。
「どうやら僕を本気にさせたようだね」
うれしそうにつぶやき、隆は次の作戦を練り始めた。
[終]