「ラベンダーのしおり」
著者:雨守



    −1−

 その場所から空を見上げると、まるで紫色のカーテンを広げたかの様な夜空に無数の光り輝く星が浮かんで見えた。
 時刻は午前〇時前…。
『飛鳥橋』という大きな橋の真ん中に、どこか寂しそうな表情を浮かべた一人の女性が立っている。
名前はナツ。歳は今年で二十六歳になる。
 橋の真下には『飛鳥川』という幅の広い、緩やかな川が月の光を浴びて静かに流れている。
すっかり夜の闇が深くなった辺りには一切の人間の気配は無く、耳を打つ様な静寂が続いていた。
 ふとナツは腕時計に目をやる。
「十一時五十五分か…」。
 約束の時間まではちょうど後五分程だった。
 約束の時間…。
いや、正確に言えばそれは決して果たされる事の無い約束なのかもしれない…。


一「七月七日の午前〇時に『飛鳥橋』の上に来てくれないかな?」
 「『飛鳥橋』に?どうして?」
 「ちょっとナツに話したい事があるんだよ」一


 ふいにナツの心の中に、あの時のリョウとの会話がよみがえってくる…。
 つい数日前、ナツがリョウの一人暮らしのアパートに遊びに行った時の事だ。
今でもナツの心に特に印象に残っているのはあの時のリョウの顔がやけに嬉しそうに見えた事…。
 そして…今になって思い返せば、それがナツが最後にリョウと会話を交わした時になってしまったのだった…。


一『リョウが病気で倒れた…!?』一 

 突然の悪夢の様な電話を取ったのはつい二日前の事…。
 リョウが会社で仕事の最中に、急病で倒れて運ばれたという連絡だった。
リョウの体を虫食んでいた病気の名前を、ナツは聞いたのだがハッキリとは覚えてはいない…。
 しかし唯一覚えているのはそれがウイルス性のかなりたちの悪い心臓の病気で、確実にその生命までも危機に追いやる危険性を持っているという事…。
 そして…、今日がリョウのその病気の手術の日だった…。
 もっと正確言えばたった今、リョウは手術室のベッドの上で病魔と闘っている最中だ。
 ナツは考える…。
 今この瞬間リョウは病気と闘っている…、それなのに、何故自分はこんな所に一人でいるのだろうか…?
 何故リョウの傍にいてやらないのだろうか…?
 ナツは自分でもよくわからなかった。
 気が付いたら…、この橋の上に一人で立っていたのだ…。
 意識を持たない感覚の中で理由もわからずにここへ来て、この川を見下ろしていた。
しかし、今こうしてこの場所に立ってみて、一人で大きな橋の上から見える川を眺めているうちに、ナツは次第にその答えに気付き始めてきた様な気がしていた…。
 
ナツとリョウが『婚約』してから、今日でちょうど半年が経つ…。
 思えば、二人が初めて出会ったのもこの『飛鳥橋』の上だった…。
 偶然からの出会い…。
 少し気が弱くて泣き虫だけど心の優しいナツ。いつも適当で「何とかなるさ」が口癖だったお調子者のリョウ。何故かすぐに気の合った二人は互いに想いを寄せ合う仲になった。
 それから二年間の交際期間を経て、二人の肩書きが『恋人』から『婚約者』に変わったのは半年前の事…。
 そして婚約を交わしてからちょうど半年目になる今日、リョウがナツをここに呼び出した。となると『話す事』と言えばもう一つしか考えられなかった…。
 リョウはわかりやすい性格だ…、それに、ナツもリョウと同じ事を望んでいたから…、ナツにはわかっていたのだ。
 リョウがやっとの思いでナツとの関係に一つの『くぎり』をつけようとしていた事を…。
『結婚』という名の形式的なくぎりを。
ナツは幸せだった…。
 リョウと二人なら、穏やかに…そして楽しく暮らしていけると思っていた…。

 それなのに…。

 あの一本の電話が、その全てを一瞬にして打ち砕いた。
 ナツには信じられなかったのだ…。あんなに元気だったリョウが、病気で死んでしまうかも知れないなんて…。
 何故、リョウがこんな目に合わなくてはならないのだろう…?
 ナツはこの冷酷な現実を受け止めたくなかったのかも知れない。
 だからこそ、今この瞬間をリョウの傍にいるのではなく、約束のこの場所で一人待つ事を選んだのだ。
 約束の午前〇時になれば、いつもの通り何食わぬ顔のリョウが自分の前に現れる。
 そして、今日自分に話すつもりだった『何か』を話してくれる。
 ナツは無理矢理にでもそう信じたかったのだ。
 勿論、叶わない事だと言うのは心のどこかで自覚している。
 ただ、ナツは辛かった…。
 今、こうやってリョウを待っていないと気が狂いそうだったのだ…。
 そして、ナツは再び腕時計に目をやる。
「十一時五十九分、五十秒…」
 約束の時間までは、もう残り十秒だった。
 ナツは心の中で必死にリョウに呼びかける…。そして、星空に向けて願った…。
『もう一度、リョウに会いたい…』。
 そして、午前〇時まで残り五秒となる。
 五…、四…、三…、二…、一……。
「…。」
 その瞬間、そこにあったのはやはり何の変化の無い夜の静けさだけだった…。
ナツの瞳に大粒の涙が溢れ出す…。
「こうなる事は…わかっていたはずなのに…」
 ナツは、押し寄せる感情を抑えきれなかった…。
 ふいに全身の力が抜けていくのを感じながら、その場にしゃがみ込む。
「何やってんだろう…」
 ナツの頬をつたう涙は止まろうとしなかった。
 深い悲しみがナツの心に重く圧し掛かる…。
 それから、数秒の間静寂と闇に包まれた橋の上に、ただひたすらナツの泣き叫ぶ声だけが響いていた…。
「リョウ…」
消えてしまいそうなほど弱々しいナツの声は、すぐに夜の闇の中へ溶けてゆくかの様だった。
しかし…、次の瞬間…。

『ナツ……』

 ふいに、ナツは誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた様な気がした。
 同時にナツはひどく驚きを露にする…。
 それは、確かに聞き覚えのある、どこか心地の良い声だった…。
 聞き間違いなどではない、『あの声』に他ならなかったのだ。
 ナツはまさかと思いながらも半信半疑のまま、そっと顔を上げる…。

 その瞬間…、『奇跡』は起きた。

「ナツ…?」
顔を上げたナツの目の前にあったのは、紛れも無いリョウの姿だった。
 会いたくて…、ただそれだけで…、ずっと心に思い浮かべていたリョウの姿だったのだ。 
ナツは信じられなかった…。
「リョウ…?」
 ナツは恐る恐る目の前に立っていた男に呼びかけてみる…。
 すると…。
「ナツ…、ごめん。遅れて…」
 リョウは舌を出して笑って見せる。
 いつもの通り、何も変わりのない笑顔がそこにあった。
その瞬間、ナツは無意識の中で一直線に走り出していた。
「リョウっ!」
 ナツはリョウにしがみつき、まるで子供の様に泣きじゃくる。
 これは夢なのか…、それともナツの願いが星空に届いたのか…。
 そんな事は、ナツにとってはどうでも良かった。
 自分の目の前にリョウがいる、それだけで十分だったのだ。
 ナツはしばらくの間何も考えられずに、ただリョウの胸で泣き続けていた…。

   −2−

 それからしばらくして、ナツとリョウは『飛鳥橋』の手すりに肘を付き、月の光を浴びながら二人並んでもたれ掛かっていた。
「リョウ、手術はどうなったの…?」
「……」
 ナツの問いに対し、リョウはただ黙り込んだまま答えようとしなかった。
「今ここにいるって事は、手術は成功したんだよね…?」
「……」
 やはり、リョウは何も答えない。
 うつむいたまま、ただ無表情な顔で橋から眺望できる夜の川を見下ろしていた。
 リョウの横顔を覗き込むと、ふいにナツの胸に不安がよぎる。
そして…。
「もう…、手遅れだったんだ」
「え?」
 リョウが静かに口にした言葉に、ナツは敏感な反応を示す。
「あと一日…、せめてあと一日発見が早かったら助かる見込みもあったかも知れなかったけど…、でもだめだった…。俺の体は、もう助からないんだって…」
 リョウが心底沈んだ表情で言う。
「そんな…」
 ナツは呆然とする…。
 リョウの最も重い一言がナツの心に突き刺さった…。
「残り一日…、もつかもたないか…だってさ」
 突然顔を上げたリョウは、暗い表情を覆い隠す様にナツに笑顔を見せた。
 瞬間、それは不器用なリョウが見せた『下手な強がり』だという事にナツはハッキリと気が付く。
 「死」というものに対する恐怖を覆い隠す為の、仮面だという事に…。
「……」
 ナツは言葉を失った…。
 最も考えたくなかった事態に遭遇してしまって…、本来ならこの場で大声を上げて泣き出してしまいそうだった…。
 しかし目の前にあるリョウの不器用な作り笑いを見て…、リョウの気持ちが痛いほどわかったナツにはそれすらも出来なくなっていたのだ。
 しばらく二人の間には言葉がみつからないままの時間が続き、暗く重い空間が広がっていた。
「あ、そうだ…」
 ふいにリョウの声が沈黙を切り裂く。
「ナツ、これ…」
 ふと、思い出した様にリョウは懐から何かを取り出す。
 そして、その取り出したものを大事そうにそっと右手の平に乗せると、ナツの前に差し出して見せた。
「『しおり』…?」
 ナツはリョウの手の中にあった物を見てハッとする。
 それは、一枚の画用紙で作られた手作りの『しおり』だった。
 その『しおり』の片面には、美しい紫色の花が浮かび上がっている。
紫色の花…それはラベンダーの花のだった。
ラベンダーの花を押花にしてそれを貼り付けて作ったしおりの様だ。
「これ、俺の病室のベッドの傍に置いてあった…。ナツが持ってきてくれたんだろ?」
 リョウが言う。
「うん…」
 ナツは静かにうなづきながら、ふと懐かしい思い出を呼び覚ましていた…。
「リョウ、ラベンダーの香りがすごく好きだったよね…?」
 ふいにナツの顔に弱々しい、小さな微笑が浮かんでくる。
「二人でよく行ったじゃない?群咲高原のラベンダー畑…、あそこに行ってラベンダーの花を摘んできて…それで作ったんだよ、その『ラベンダーのしおり』…」
 ナツはその笑顔をずっと続けようとするが、徐々に震え出す唇がそれを許さなかった。
「リョウが・・・喜ぶと思って…」
 ナツの声は震えていた。
「…つい今さっきだけどさ…枕元から大好きなラベンダーの香りがした気がしたんだ。ナツとよく行ったあのラベンダー畑の香りがさ…」
 リョウはつらそうなナツの顔をわざと見ない様にして話す。
「それで目を覚ましたんだ…。目が覚めた瞬間にナツの顔が目に浮かんで…、行かなきゃって…。気が付いたら、周りの目を盗んで病院を抜け出してた…」
 リョウは再び川を見下ろす。
 その表情はどこか穏やかだった…。
 同時に、また一瞬だけ二人の間に沈黙がよぎる
「ねぇ、リョウ…」
「ん?」
 次の瞬間、今度はナツがリョウに切り出す。
「今日この場所で、私に何を話すつもりだったの…?」
 ナツもいつの間にか、少しだけ心を落ち着けていた。
「…」
 リョウは黙る。
 それはリョウ自身も気持ちの中では必死に考えていた事だった…。
 何とかこの橋まで来れて、約束通りナツに会えて…、そしてこの瞬間、『あの言葉』を口にする資格が果たして今の自分にあるのだろうか、と…。
 もうナツの人生に責任を持つ事が出来なくなった自分にそんな資格があるのだろうか、とリョウはずっと考えていたのだ
そして…。
「ナツの…予想通りの事だと思う…」
 リョウは一言そう答えた…。
 それが精一杯の回答だったのだ。
「そっか…」
 ナツは小さくそう返す。
 ナツも言葉にはあえてそれ以上の表現を加えなかったが、心中では確かにリョウの気持ちを受け止めていた。
 最後の最後、リョウの本当の気持ちが確かめられて、ナツはとても安らかな心地を感じていたのだ。
 そして、その瞬間…。

 同時に、ナツは自分自身の心にある『一つの決意』をしたのだった。

「リョウ…」
 ナツは強い眼差しでリョウの顔を直視する…。
 その目には、さっきまであった悲しみに満ちた色はもう微塵もなかった。
「え…?」
 リョウはナツの表情が変わった事に気が付く。
「また…、一緒にラベンダー畑に行こうね…」
 ナツはリョウに向かって微笑む。
 その瞳は、一切の迷いが感じられない至って澄んだ瞳だった。
「え?いや、だって俺は…」
 リョウは少し困惑したような表情になる。
 これからこの世を去ってゆく事になる自分にナツは何を言っているのだろう?、と当然のごとくリョウは考えたのだ。
「また、あの綺麗な紫色の花を…、二人で見ようね」
 リョウの心境とは裏腹にナツは、満面の笑みでリョウの顔を見つめる。
 そして自分の小さな手を、そっとリョウの手に重ねた…。
「……」
 リョウは困惑しながらも、自分に向けられたナツの眼を見た。
 そして…。
 その瞬間に、やっとリョウはナツの言葉の『本当の意味』に気が付いたのだ。
「ナツ…」
 リョウはひどく驚き、表情を強張らせる。
 そんなリョウに対して、ナツは何も言わずにそっとうなづいた…。 
「静かな夜だね…」
 ふとナツは夜空を見上げる。
 そこには一切の物音はなく、ただ空高い場所にある星達が優しい光を放っているばかり。
 まるで、その空間にナツとリョウしかいない様なそんな感覚だった。
「うん…」
 リョウはナツの手をそっと握り、自分も同じ様に夜空を見上げる。
 その瞳には、何故か大粒の涙が溢れていた…。
 その後、二人の間に一切の言葉はなかった。 

 ただその空間には、ゆっくりと…、安らかな時間だけが流れていた…。

  −3−

 七月八日の朝の事だ。
『飛鳥川』という川のちょうど橋の掛けられた付近で、二十代の男女一組の水死体が発見された。
現場の状況や、橋の上に二人の物と思われる靴が並べて置いてあった事などから、二人は一緒に川に飛び込んだ…いわゆる「心中」と考えられる。
 発見された当時、二人はそれぞれの薬指に同じ型の指輪をはめていた。
 
その事から、二人は『結婚』を決めた仲だったと考えられる。
 
二人は固く手を結び合い、二人同時に水の中へと飛び込んで行ったらしく、結ばれた手は発見された当時も解けてはいなかった。
 『飛鳥川』から引き上げられた二人の遺体は、何故かとても安らかで、幸せそうな顔をしていたと言う…。

 なお現場付近の川の水面には、何故か画用紙で手作りされた一枚の『しおり』らしき物がゆらゆらと浮かんでいた。
 その『しおり』には、紫色のラベンダーの花が押し花にされてきれいに貼り付けられていた。

 その美しい紫色の『ラベンダーのしおり』はまるで、若い男女に捧げられた一輪の花の様だった…。




[終]