「ムカデ」
著者:雨守



 外はただ、ひたすら雨が降っている。

「…さん」
 ふと背中の後の方から声が聞こえた。
「お兄さん?」
 僕が正気に戻ると、背後に弟の友樹がいた。
「友樹…?」
 …ふぅ、僕はまた窓際でぼんやりとしていた様だ。

 6月の雨というのは不思議なもの。
 特に心惹かれる様な物は何も無いのに、窓辺に立つと、時間を忘れたかの様な錯覚
に引きずり込まれてしまう事がある。

「友樹…どうした?」
 僕はちょうど5歳になる弟の友樹に尋ねた。
「お兄さん、ムカデが死んでいるよ…」
 僕は友樹の指差す先、床に目をやった。
 大きなムカデがぺしゃんこになっていた。
「ああ…かわいそうだね」 
 僕は心無く答える。

「お兄さん、あの花なんだっけ?」
 友樹は僕に尋ねる。
「ああ…、あれはね、アジサイって言うんだよ」
 何故だろう、実物がここにあるわけではないのに、僕は友樹の話している花がアジ
サイだとわかった。

「お兄さん、赤と青とどっち?」
 友樹は僕に尋ねる。
「ああ、赤…かな」
 何故かとっさに浮かんできた方を僕は答えた。
 
「お兄さん、雨、雨、毎日雨、今日も雨だね」
 友樹は悲しそうに言う。
「ああ…そうだね。きっと明日は晴れるよ」
 僕は根拠のない励ましをかける。
 
「ねぇ、お兄さん…」
「ん?」
「何か忘れていない?」
「え…」
 ふいに、窓の外の景色が揺らいだ気がした。
 
 そして、

「あ…!」
 僕はとっさに振り向いた。
 そこには誰もいない。
 
 ようやく思い出した。
 三年前の今日。あの日も雨が強かった。
 あの角の花屋ではアジサイを売っていたのを憶えている。
 それを目にした後、その先の横断歩道で、僕は大事なものを失くした。
 5歳になったばかりの弟を…。
 
 あの日の朝も、弟は見つけていた。

 
 ふと、僕は足元を見下ろした。
 大きなムカデがぺしゃんこになっていた。




[終]