「メッセージ」
著者:雨守



−1− 
喫茶の一番窓際の席で三十代半ばの男が頬杖を付く。
 男にとって、七年ぶりに座った「いつもの席」はどうも落ち着かない…。

「久しぶりね」
 ふいに声を掛けられ男は店内、入口側の方を振り返る。
 そこには男と同じ年齢の女性が立つ。
 女性は三十を過ぎたと言うのにむしろ二十代に見えてしまう程見た目が若い。
 その為、男はすぐにその女性の顔に当時の面影を探す事が出来たのだ。
「七年ぶりだな、ユン」
 ユン、というのは七年前のその女性のニックネーム。
 女性の本名は鴨川優と言う。
「あなたも老けないわね〜、ギン」
 ギン、というのは男の当時のニックネーム。
 彼の本名は石浜銀太と言う。
「いや、君には負けるよ」
 挨拶代わりにそんな会話を済ませると、鴨川は石浜の向かいの席に座る。

「付き合っていた頃よく来たわね、ここ」
 窓の外をゆっくりと見渡しながら、鴨川はしみじみと言う。
 七年前まで、二人は恋人同士という関係を持っていた。
 そしてこの喫茶は待ち合わせに利用したり、コーヒー一杯で三時間も話し込んだり…、二人にとっては一番思い出の深い場所に他ならない。
「当時は二人とも二十代か…、早いもんだな」
 あまり表情を変えない顔で、石浜は同じ様に景色を眺める。
「あなたは相変わらずカフェオーレなのね」
 ふと、鴨川は石浜の手元のカップに目をやって言う。
「ああ、ここの味変わってなくてホッとしたよ」
 そういうと、石浜は初めて笑顔を見せる。
 口元に見落としてしまうほど小さい笑みを浮かべながら、カップをすする「ギン」。
 その姿があまりにも七年前と同じに見えたので、「ユン」も思わずクスッと微笑む。
「何?何かおかしい?」
 突然の鴨川の微笑に問う石浜。
「別に」
 そういいながら相変わらず笑った目で、鴨川は石浜をまじまじと見る。
 その笑顔の意味がわからず、石浜はますます疑問を募らせる。
「まったく…ホントに変わってないな…」
 石浜は苦笑いを浮かべて言う。
 その時。
 ほんの一瞬だけ…、鴨川の笑顔が歪んだ。
「そう…ね」
 「変わらない」…何気なく石浜が放った、時間の流れを強調するような台詞が今の鴨川にはこの上なく痛かった。

「ギン、これ…」 
 何の前触れも無く、鴨川はテーブルの上に一枚のカードを差し出す。
 石浜はそのカードを差し出された通りの向きのまま手にとって、眺める。
「これは…」
 石浜はすぐにその意味に気付き、重苦しい気分に捕らわれる。
 数分前から一転して、この時、既に二人の間に笑顔は見られなかった。

「会えて嬉しかったわ」
 突然、鴨川は席を立つ。
「行くのか?」
 座ったまま彼女を見上げる石浜の問いに対し、鴨川は小さく頷いた。
「これ、私の分…」
 そう言って、彼女がテーブルの上に500円玉を差し出すと
「いいよ、ここはおごるから」
 と、石浜はそれを返す。
「そ、ありがと…」
 小さく微笑み鴨川はその金を上着のポケットにしまうと、ゆっくりと席を離れた…。
「じゃあね、ギン」
 出入り口へと向かって行く鴨川。
「また会おうな、ユン」
 離れていく彼女に聞こえる様に、石浜は少し大きめの声で言う。
「会えるわ…すぐに」
それが最後。
 小さく寂しい背中で、そう言い残して彼女は喫茶を後にした。
 カラン、というドアの揺れる音が小さな店内にいつまでも響いていた…。

「…」
 やがて、彼女の姿が見えなくなったドアを、それでも石浜は見つめていた。
「いいんですか?行かせてしまって」
 ふと石浜の座っていた席の後ろ側から声が掛けられる。
 そこに座っていたのは石浜よりも随分若い二十五・六くらいの青年。
 名前は斉藤と言う。
彼は一人でブラックのコーヒーをすすっていた。
「いいんだ…」
 石浜は彼の方を振り返らないままそう答える。
 表情は寂しく、その視線はどこか遠くを見つめている様。
 大きく肩でため息をつくと、石浜は懐のポケットから一枚のカードを取り出す。
「それは?」
「彼女から預かった物だ」
 石浜はやはり斉藤の方を振り返らないままそれを肩越しに差し出す。
 斉藤は自分に背を向けたままの石浜からそれを受け取る。
「これは、トランプ…ですか?」
 斉藤は石浜から渡された「一枚のカード」に、思わず首をかしげる。
 それは紛れも無くトランプのカードの中の一枚だった。
 『ハートの7』。
それが差し出されたカードだった。
「石浜さん…これは?」
「彼女からのメッセージだよ…」
 石浜はそう答える。
「メッセージ…ですか?」
「昔これと同じ物を渡された事があってな」
 石浜は当時の姿をリアルに思い返す。
 まるですぐそこに若き日の自分とあの人がいる様な…。
 
…。

「これ、どういう意味なんです?」
背後から放たれた斉藤の声に、石浜は我に返りハッとなる。
「…」
 しかし何故だろう、その質問に石浜は答えはせずに口を閉ざす。
 答えたくなかったのだ。
 このカードの意味…。まだ若き日の自分と彼女…。
大切な思い出が詰まった箱は、もう目の前に置かれている。
 しかしそれを開く気にはなれなかったのだ。

「今から俺が言う場所を捜査してくれ」
 石浜はそう言うと、懐からいつも持ち歩いているペンと手帳を取り出して、適当に開いたページに何かを書き始める。
「え?は、はぁ…」
 斉藤は疑問を残したまま、ハッキリしない返事をする。
 理由も説明されないままのあまりに突然の事だったので、納得がいかないのは当然だ。
 そんな斉藤の意思は無視して、石浜は手帳に何かを書き終えるとそのページを破り、再び肩越しに斉藤に差し出す。
「すまん、今は何も聞かないでくれ。ここに地図を描いた」
「…わかりました」
 斉藤はあえてそのメモを黙って受け取る事にした。
 酷く情が映された石浜の後姿を見て何かを悟り取ったのだ。
 人は誰しも触れられたくない何かを抱えて生きているもの。
 それがその人にとってどのような意味合いを持つのかはまた別の話だが…。

「じゃあ頼む」
 そういって石浜は席を立つ。
 ズボンのポケットに手を突っ込んだまま斉藤の前を去り、喫茶を後にした。

 斉藤は自分にとって大きなその背中が、その影に隠し持つ何かを垣間見た気がして、複雑な心境に襲われていた。


−2−
 翌朝。

 港沿いに美しい緑に囲まれた公園がある。
 そしてその傍らには今はもう使われていない赤レンガ色の倉庫が並んでいる。
 その倉庫群は実質的な利用価値は無いが、電灯の明かりがつく頃にはとても洒落た雰囲気を醸し出す事から、カップル達の待ち合わせの場によく使われていた。

公園側から数えて丁度7番目、『7』の数字の付く倉庫の積荷の中から、大量の宝石と中年男性の遺体が発見された。
 それは数日前、近くの宝石店支店に入った強盗が盗んだ宝石と、逃走する犯人を追いかけて行ったまま行方不明になっていた宝石店の支店長の変わり果てた姿だった。
 そして近くの警察署にその知らせが入ったと同時に、一人の女性が自首してきた。
 歳は三十代半ば。
 警察署に自首してきた時の女性の表情はとても穏やかであり、何かを成し遂げた様なすがすがしさが見られたと言う。 

 そして…

縦浜市、縦浜警察署。
「よう斉藤、お手柄だったな」
 清水は突然姿を現すと、休憩ホールのベンチで缶コーヒーを飲んでいた斉藤の隣に座り込む。
 この時斉藤が飲んでいたコーヒーはやはり「ブラック」だった。 
「いや、俺は石浜さんの指示通りに動いただけだよ」
 手柄をあげたと言うのに、斉藤はさほど浮かない表情で答える。
「石浜警部補の?」
 清水は予想外の名前に少し驚く。
「犯人の女性、石浜さんの若い頃の恋人だった人らしいんだ」
 と斉藤。
「ふーん…」
 それを聞いた清水は、ようやく斉藤の浮かない表情に納得した。 
 この斉藤と言う男はこの署に配属が決まり石浜警部補と出会って以来、ずっと彼を慕っているのだ。
「なんで強盗と殺しなんてやっちゃったんだろうな、あの女の人…」
 ふとそんな事をつぶやきながら、斉藤は昨日の光景を思い出す。
石浜を席に残し、喫茶店を出て行った女性の寂しげな後姿…。
斉藤は手に持っていた缶コーヒーの残りを一気に飲み干す。
「さあ…な」
 清水は答える。
「でもさ、人の心って変わるものだろ?」
 清水は立ち上がり、ベンチの横にある自動販売機に小銭を入れる。
 買ったのは「カフェオーレ」だ。
 温かいそれを自販機の出口から取り出すとすぐに蓋を開け、清水は口をつける。
「カフェオーレか…」
「え?」
 斉藤の無意識の呟きが耳に届いたらしく、清水は温かい缶を持っている手を止めた。
「あ、いや。そんなもんかなって」
 とっさに誤魔化す斉藤。
「そ、そんなもん」
 おおざっぱな清水は特に気に止めていなかったらしい。
 そしてふと、斉藤は自分の腕時計に目をやる。
「お、じゃあ俺そろそろ」
「ああ、またな」
 斉藤は立ち上がると空缶をゴミ箱に放り、清水に別れを告げる。
 そして真っ直ぐな警察署の廊下を歩き出した。


 人の心は変わるもの…、しかし斉藤は考える。
 本当にそうなのだろうか?
 
変わらない喫茶店、いつもの席、相変わらずのカフェオーレ、あの頃のままの微笑み。
 流れゆく時間の中あの二人にとっての大切なものは変わらないままの姿でそこにあった。 
 では人の心は…?

そしてあのカード…。
 『ハートの7』。
 7番目の倉庫を示した7。
 彼は言っていた、「昔これと同じものを渡された事がある」と。
 それは恐らく若き日の二人が、恋人達の待ち合わせに使われる夕暮れ時の倉庫の前で出会う為。
 彼女からのラブレターだったのではないだろうか…?

 斉藤は思う。
「7」。二人にとって特別な意味のある数字。
 その周りにあるものは二人にとって、ずっと変わらないままの姿でいるのだろう。
 何年経っても、何十年経っても…。

 赤いハート…。
 たくさんのハート…。
 心…。
−終−   




[終]