「黒い鞄」
著者:雨守




「ねぇ、あなた」
リビングで新聞を読んでいると、妻が声をかけてきた。
その顔が、気のせいか少し嬉しそうに見えた。

「ん?」
私が何気なく返事をすると、妻が私の目の前に大きなピンク色の包みを差し出した。
「はい、これ」
「え?何これ?」
私が差し出されたそれをとりあえず受け取ると、ずっしりとした重みが手にのしかかる。
「何言ってるの?今日はあなたの42歳の誕生日じゃない」
「あ…」
忘れていた。
確かに、今日は私の誕生日だ。
この歳になると記憶力が低下するのと、誕生日というものに執着がなくなるのでどうも忘れがちになってしまう。

「じゃあこれは…」
「私からの誕生日プレゼント。あなたが欲しがってた新しい鞄よ」
「え!?もしかしてこの前、横浜で見たやつ!?」
「そう、あのデパートに電話して注文しておいたの」
そうか…。あの鞄か。
正直に言って、これは嬉しい。
かなり嬉しい。
嬉しすぎる。


最近、新しい通勤用の鞄が欲しくてたまらなかった。
今使っている茶色い革の鞄とはもう5年の付き合いになる。
いかに本革とは言え表面はしわしわになり、穴が開き、すっかりみすぼらしくなってしまった。
ちょっとこの年齢のサラリーマンが会社に持って行くには相応しくないと考えていた。
そこで、私は通勤用に会社に持っていくのに調度良い鞄を探していたのだった。

そんな時だ。

先月妻と横浜のデパートに行った時、それと出会った。

美しく輝く、黒い革の鞄。

表面の光沢は美しく、高級感がある。
形は今のものと同じく、シンプルな長方形に持ち手が取り付けられた様な、いわゆる世のサラリーマンがよく持って歩いている形の鞄だ。
ただ、サイズは今の物よりやや大きく、書類も沢山入りそうだ。
色も形も私好みの物で、あれを持っているだけで仕事が出来そうに見えるだろう。
おまけに私の好きなブランドが売り出している物で、すぐにでも欲しいと思った。

しかし。

やはり値段がネックになった。
衝動買いするには少し高めの値段。
買おうかどうしようか、その日は1時間近くも悩んだが、結果的には諦めた。

それが、まさかこんな形で…。


「あの、革の鞄だよね…?」
「そうよ。あの黒い革の鞄」
「今のやつよりちょっと大き目の…」
「あなた、書類とかいっぱい詰め込むものね」
さすがは最愛の妻だ。
誰よりも私の事を理解してくれている。
ふと私の胸の中に妻への感謝の気持ちが満ち溢れた。


「あ…、開けてもいいかな?」
「もちろんよ」
私はおそるおそる包みを開いた。

ガサガサ。

「おお…」
包みの中からかすかに発せられた革の独特の香り。
ずっしりとした重さが手に伝わる。
あの日見たとおりの黒く輝く光沢が目に差し込む。


私が期待していた通り、黒い革の鞄。
今使っているものよりは一回り大きく、やはり書類は沢山入りそうだ。



しかし…。


「これ…」
「ん?どうしたの?」
恐らく何かの手違いだろうと思う。
妻が注文を間違えたのか、あるいはデパートの店員のミスで間違ったものが手配されてしまったか。
  
いずれにしても…。


これは…。


さすがに…


誰か気付いてくれ…。



「あら、あなた、それって…」
「うん、これは…」

ちょっと会社には持って行けそうもない。

黒い革の鞄には違いないが…



これは





紛れも無く




『ランドセル』だ。








 

[終]