「先ほどからだいぶ、お待ちですね」
突然、そんな風に声をかけられれば、誰しもちょっとだけびっくりする。相手が相手だっただけに、僕は自分の置かれた境遇と周りの状態を見て、それが自分にかけられた声だとようやく気付いた。
「そ、そうですね、はい」
確かに、僕はずっと待っていた。時刻は正午に近く、ここに陣取って正味2時間と行ったところだ。
こんなことになると思って推理小説を持っていたのだが、物語は見事に探偵役が犯人と言う最悪の結末を持って三十分ほど前に完結していた。自信たっぷりに犯人を告げて一件落着した物語が、最後の数ページで探偵の真相を告げる独白で終わる。裏切られた気持ちが抜けなかった。この作家、意地が悪いのでもう読むのをやめようと思っていた矢先に、少し目線の高いところから、声をかけられた。
彼は最初から私に向かってそっぽを向いたままだったが、それでも興味深げな姿勢を崩さなかった。
「失礼かと思いますが、携帯とかで連絡とかは取らないので?」
ははあ、なるほど。ここに居て二時間近く、全く携帯をいじらないので気になった、というのが彼の本音らしい。
「えっと、相方、携帯持っていないんです」
「おや、珍しい。今や誰しもが持っているというのに」
「僕もこのご時勢に持たないにもどうか、って言ったんですけど。私は縛られたくない、自由人にそんなモノは必要ないんだって」
「それはいい。ぜひ一度、お会いしたいものです」
彼はそういうと、くつくつと低い声で笑った。
「待ってれば多分、もうすぐ来ますよ」
「でも、不思議なものですね。携帯なんてものが普及したのに、こうして待ち合わせ場所は依然として残り続ける。携帯を持っている人は待ち合わせ場所でさえ携帯をいじって相手を見つけようとする。そして、そうまでして意中の人を待っている」
「ここは、目印なんですよ。どんな時でも最初の目印なんです。携帯とか手紙とか関係ない、待ち合わせ場所なんです」
「そんなものですか」
「はい」
彼の視線の先を見る。波打ち際のようにいくつもの波線を描いた雑踏が、雑然と並んでは動いてゆく。人の歩みなど、永遠になった彼にしてみればなんと短いことだろう。
「ま、そのお陰で、私はまだ景色に退屈せずに済んでいるんだがね」
一瞬、振り向いた彼がにこりと笑った気がした。が、それも気のせいか、彼は最初と同じ、雑踏の方を毅然とした態度で眺めていた。
「あの、これだけ待ったのですから、もういいや、とか考えたりしませんか?」
少々失礼な問いに、彼は一度沈んだイントネーションで唸った後、ぽつりと言った。
「どうでしょうね。私の場合は待っている相手がここに来ようと来るまいと、もうあんまり関係なかったりするんですよ」
「そうですか。でもやっぱり、ずっと待っているのも飽きますよね?」
「たまに君みたいに私の声が届く相手がいてくれるから、平気。心配してくれて、ありがとう」
優しく暖かい声に、心の底辺をなぞられた感じがして、むずがゆい気持ちになる。
照れ笑いを浮かべてしまった自分がやたらに恥ずかしくて、思わずにやにやしながら頭を掻いた。
「おや、なんだかあっちからこっちに向かって来る人影がありますよ」
人だかりの向こう側に、見慣れた顔があった。かなり遠いが、僕が彼女を見つけられるくらいだから、彼女も僕を見つけられるのだろう。何せ僕は、目印の下にいるのだから。
「ああ、アレです。来ましたね」
「アレとは可哀想に。自由人だ、と叫ぶくらいの方とは思えない普通の娘さんじゃないか」
「確かに、ああして見ると意外と普通なんですけどね」
幼い頃から冒険家になるといってはばからず、去年、冬の八甲田山で冬季演習を行った話を聞かされたときは、映画の見すぎだと端から疑ってかかってケンカになったけど。
「先ほどは、ああ申しましたが、正直私はあなたがうらやましいのです」
不意に、しっかりとした声で彼が言った。
「え?」
「………大事にしてあげてくださいね。待ち合わせは、一人じゃ出来ませんから」
「ごめん、待った?」
「いや、ちょっと前に来たところ」
「携帯でずっと誰かと話してたように見えたけど」
「ああ、超有名人と」
「え、だれだれ?植村直己?」
「彼はアラスカのマッキンリーに行ったまま帰ってないだろ」
「お、意外と物知りだね」
「刷り込むように教えたくせに」
「へへー。教えの賜物だね」
「まあ、しいて言うなら………」
視線の少し上。凛々しい四肢で今日も往来を眺める彼を見上げる。
「待ち合わせの大先輩」
[終]