序 章:或る英雄の名前
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



 ―1―

 寒さで痛くなった耳を澄ますと、夜の闇を跳ねる音がした。
 冬の冷たい石畳の路地を駆け抜ける群の足音。その音は総じて靴底ではなく、裸足の音が大半だ。ペタリペタリと、遙かに小さい音が路地を駆けているのは、聞き取り辛い分リノリには厄介な相手だった。
 周囲の音と気配に気を配りながらも、リノリはずるずると、路地の壁に背を預けながら、しゃがみこんだ。逃げ回った疲れか、深い息が自然と漏れる。
 正直なことを言えばもう動きたくなかったが、そんなことも言っていられない。この足音はもうしばらくしたら、絶対にここを通りかかる。
 そうしたら、とるべき手段はそう多くない。取るだけの状況だし、取るのに今更躊躇いも固める決意もありはしなかった。
「………」
 それでも、手はまるで自分のもので無いかのように勝手に震えていた。右手に握りしめた小型のナイフがそれにあわせて微かに揺れる。路地の真上、微かに漏れる暖かな橙の光を受けて、その刃がぬらりと、先ほどの凶事の名残を赤々と照り返した。
 夜も半ばとなれば灯りの付いている理由は察せされるが、相対する行為がこんなに近い所にあるというのは、なんと皮肉な対比だろうと思う。
 外はコートを羽織らなければならないほど寒いのに、恐ろしいほど体が火照っていた。背を預けた壁が、まるで氷のように冷たく感じる。
 短い息を何度も吐く。ぼんやりとした暗闇に自分の息が溶けてゆく。似ている。自分が奪った命はこんな風に、簡単に、ふわっと解けていったのだ。
 自分だっていつか、こんな風に簡単に消えるのだ。
「………違う」
 心の内側から響く声を打ち消すように、右手の得物に力を入れる。今だけはこの事態を切り抜けることを考えなければダメだ。そうならない為に、この手とナイフは人の背を刺したのだ。まだやれなくてはいけない。
 何気なく左右に視線を配って、気付いた時には遅かった。
 先ほどから、裸足の音が止んでいる。
 リノリを偶然見つけて、驚き様に大声を上げたところを殺される、という状況にはならなかったらしい。
「こういう時だけ頭が回るのね」
 舌打ち交じりに立ち上がる。
 路地の向こう側が、少しざわめいたような気がした。
 気配からいるのは間違いない。だが、向かってこないとなれば、理由は一つだ。
 路地の向こう側に居るのは、自分より不利だ。裸足組の年少者複数か、同じ位の力を持った一人、それもこのナイフと遣り合える得物を持っていないかだ。追いかけてきているのだから後者はない。裸足の音が止んでいるのを見ても、前者が強い。
 そう決めつけたが最後、リノリは石畳を蹴って、路地を飛び出した。
「ッ!」
 居た。二人。べラルカの配下だ。誰もがこんな突拍子もない行動に出るとは思っていなかったのか、眼を丸く見開いてこちらに間抜けな面を晒していた。
 どちらも幼かった。十歳かそこらだ。両足は素足で、来ている服も垢と泥で薄汚い。
 予想外な行動に呆然と立ち尽くした子供。取るべき行動は一つだ。
 リノリは一人を壁際に蹴り倒すと、よろめいた体を引いて、懐に抱き寄せた。そして、素早く首筋にナイフを突きつける。体格的に小柄なリノリには、それがたとえ子供でも、しっかりと抱きとめる必要があった。
「待って。行ったらツレが死ぬ」
 位置を知らせるために逃げようとした一人を、静かに低く呼び止める。ちゃんと、殺気をぶつけることも忘れない。石畳の上で一度は駆け出した足が止まり、どうしたらよいのか分からない顔がリノリの方を向いた。傷ついた素足は石畳の冷たさからか、常に小刻みに震えていた。
「ノゥラッ、い、い、行けッ!」
 懐中の子供が叫んだ。喉元のナイフと目の前のノゥラという子を交互に見やりながら、甲高い声を上げる。
「どうせ助ける気なんかないんだ。お前までやられることない!」
 子供はさらに語気を荒げる。精一杯の勇気。間もなく殺されてしまうことへの恐怖。それらが、目の前のノゥラに向かって惜しげもなく吐き出される。そんなことをしても、相手が迷うのを助けるだけなのだと、知りもせずに。
「でも………だって、トゥロ!」
 ノゥラは泣きそうな顔をして、その場に立ったまま白い息を吐き続けた。答えを出せずにいる。トゥロと呼ばれた少年か、それとも増援か。そのどちらかを、早急に取らねばならない。
 時間切れで他の人間を待つという手もあったが、それはリノリがこれから封じる。
「見捨ててくれるとありがたいな。ノゥラ君」
 リノリはナイフを逆手に持ち、トゥロの首筋に切っ先を近づけた。ひぅ、と音を立ててトゥロの体が震えて強張る。このままならトゥロが万一にも抵抗することはないだろう。
「トゥロ!」
「ねぇ、逃げて。この調子で………頭数を減らせるのなら増援なんて安いもの」
 焦らす。焦らして心を潰す。『なぜ人質を取ったのか』なんてことは、考えもしないのだろう。
「う、う、うああああぁぁぁぁ!」
 ノゥラの答えが出た。
 狂人に近い声を上げながら、涙と鼻水塗れの顔がこちらに突進してくる。いくつかある予想の範疇だ。
「ノゥラ!」
 ノゥラの突進を諌めようとしたトゥロが叫んだのを契機に、リノリはトゥロの首からナイフを引き、代わりにトゥロを突き飛ばした。
 トゥロの背中で見えないが、ノゥラの眼は大きく見開かれたに違いなかった。
 二人はロクに受身も取れないまま激突し、それぞれが大きく石畳の上に転がった。
「邪魔」
 リノリはそう言うと、跳ね返って仰向けになったトゥロの腹を角度をつけて蹴りつけた。トゥロはくの字に折れ曲がり、地面を転がる。
「トゥロ!」
 彼の悲鳴を聞いてとっさに『起き上がってしまった』ノゥラが見たのは、リノリの靴だった。顔面蹴りが入った瞬間に、意識が飛んだのが分かった。
 どちらも、靴越しの肉の感触が気持ち悪かったが、気分はすっとした。理由はない。本能がそう言う。
 自分を捕まえに来たのだ。いくら幼くても、そこに同情なんてものは抱かなかった。
 横になぎ倒された形で再び倒れたノゥラを確認せず、リノリはなおも痛みに呻くトゥロに向き直った。
「アイツに伝えといて。お仕事やめます。お世話になりました。名前は返します、って」
 独り言のように呟いて、彼の上に乗るように押さえ込む。腹を押さえていた片手を無理矢理引き寄せて、地面に押し付ける。
「そうそう。これももう、要らないの」
 握り締めたナイフを、彼の目の前に突きつける。再び凍り付いた視線に、笑みがこぼれた。
「仲がよさそうなのに不公平だよね。相方は意識がないのに、君一人だけ、意識があるなんて。でも、私も鬼じゃないから………そうね、片手だけにしてあげる」
 トゥロは何をされるのかようやく得心がいったらしく、大きく震えながら何かを叫び始めた。ぴんと伸ばされた掌に文字通りの全精力が篭もっているようだが、リノリが抑えたそれは、びくともせずに路地に押し付けられていた。
 トゥロの言葉は許しを請うようにも聞こえたが、生憎と、そんな言葉はリノリの辞書にはなかった。使う必要のない言葉は、意味がわかっても理解する必要は、ない。
 リノリは静かに微笑んだ。

「さ、ちょっとチクッとするからね。怖かったら、眼を閉じてるんだよ」