「Busstop and Go」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)





『次は―――』
 頭上のアナウンスで、ぼんやりと、バスの中にいることを思い出した。
 アナウンスが告げた次の停留所が、なんと言ったのか分からないくらい、今日は、ひどく疲れていた。
 乗ったときは確か、普通のバスと違って文字が赤かった。多分いつもの最終バスだろう。ただ、アレはいつも人が混むから、まともに座れることなんかないはずだ。
 運が良かったのだろうか。おかしいな。
 おかしいけど、原因を探る気にもなれなかった。それほどの理由じゃない。
 窓の格子に頭をもたれたまま、左のポケットを探った。取り出した携帯で時間を確かめると、いつも降りている時間が近かった。
 多分、次だろう。
 手が勝手に動いて停車ブザーを押した。まぶたがまだ重い。
『次、停まります。手すりにつかまって、そのままお待ちください』
 深夜でも変わらない、落ち着いた女性のアナウンスを聞きながら、そのまま、また目を閉じる。
 何が疲れたのか、もう思い出すこともできない。
 静かな排気ガスの音と、ガタンガタンと道の継目を越える振動が、静かに眠りを誘う。
 いけない、ここで寝てはいけない。降りてから、家までしばらくは歩かなくてはいけない。コンビニに寄って、明日の朝食を買わないと。
 明日の朝も早いのに、夜は遅いままだ。最終バスがデフォルトになって、もう何ヶ月だろう。乗り過ごしてタクシーで帰ったことも一度や二度じゃない。
 独身だからって言い訳にもならないが、家でビールとご飯を食べる時間くらいは欲しい。何が悲しくて寝る時間を削ってまで、部下の失態を怒られなければならないのだろう。
 心のうちでブツクサ呟いていると、また胸がムカムカしてきた。
 あぁ、コーヒー飲みたい。けど、寝られなくなるな。
 嫌な気分で一杯になると、あの黒い液体を流し込んで、胃の中身をすべてコーヒー色に染め上げてみたくなる。
 そんなことを考えているうちにエンジン音が緩くなって、乗降口のドアが開いた。
 カバンを忘れないようにつかんで、反対側の手は手すりを伝いながら、よろよろと乗降口を降りる。
「じゃあな、元気でな」
 乗降口を降り掛かるところで、そっけない誰かの声がした。
 この声は同僚の、昭野………?
『発車します』
 乗降口を降りきって振り返ると、ドアの閉まる前に昭野の顔が一瞬見えた気がした。
 いや、違う。
 走り去るバスの中に座っていたのは、見知った顔だらけだった。昭野、大川、扇先輩、白石主任に、浅野係長までいる。こんなメンバーが揃うことなんて、ありえない。
 おかしい。
 おかしさの理由はなんだろう。
 全部がおかしい気がする。ただ、理由が分からない。
 答えが出る前に、再びかかったエンジン音に紛れて、バスが走り出す。徐々にに遠ざかる行き先案内の表示を見送って、俺はおかしさの原因に気付いた。
 確認するためにバス停を一目見て、酔いが醒めた。

「ああ………………」

 ぼんやりと街灯が照らす停留所の表示は、普段聞かない系統の、見知らぬバス停だった。
 俺は酔って、乗るべき最終バスを間違えたんだ。
 そして、酔いつぶれるまで飲んだ原因は、乗ったバスに居た。こんな路線に、皆が乗るわけない。夢を、見たんだ。
「明日から、会社に行かなくていいんだもんな」
 退職したんだっけ、俺。最後だから、こんなに飲んだんだった。

「………ああ、そっか………」

 頭をかきながら、バス停の前に座り込む。きっと朝まで、バスは来ないだろう。
 目の前に見知らぬ景色が広がっていた。
 辺りは住宅街から離れた野山の入り口のようで、深夜でもあるためか、バス停を照らす明かり以外には光源はほとんどなかった。そもそも、こんな暗いところ、走る車さえない。
 ここがどこだかも、分からない。
 単純に今バスが来た道を戻ればいいが、どれだけ進めば分かる道に戻れるのかも、分からないのだ。
 そんな中を、このふらついた体で、歩かなくてはならないのだろう。
 一度考えて、立ち上がる。ただ、このままいた所でしょうがないことだけは分かる。

「……………はぁ」

 このまま朝が来なかったら、どうしようか。冗談交じりにそう思う。
 いや、まだ冗談が言えるだけ、マシかもしれない。
 俺はそう思うことにして、溜息を路肩に吐き捨て、深夜の闇の中を静かに歩き出した。





[終]