「Dust to Trash」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



 しじまを破るようにして、自分の足跡が沈黙の中に吸い込まれてゆく。
 廊下を頼りなさげに浮かぶ細々とした灯りはことさら暗闇を際立たせ、質感のまったく均等な白い壁と模様のように取り付けられたドアが延々と、視界の届く限り廊下の先まで続いている。

 人間味をまったく必要としない、一種無機質を極めたような部屋。

 事実、『牢獄』などという名はふさわしくない。
 また、『牢獄』という名のつく場所にしては贅沢すぎる場所だった。

 少年はただひたすらに目的地へと歩を進め続ける。幾度も通った道は、もはや少年には地図を必要とさせない。入り組んだ迷路のような階層を、迷うことなく突き抜けてゆく。
 音も、匂いも、五感を狂わされそうな空間は、それでもなお、ぴんと張り詰めたような静寂と息の詰まるような圧迫感を持って少年を迎える。

「…………」
 少年の足が、目的地の前でぴたりと止まる。
 ネームプレートもない、壁の模様と同じような白い部屋。
 少年は、ドアノブの辺りに掌を充てる。

『認証、完了いたしました』

 わざとらしいキカイの声がして、ドアがスライドする。
 目の前に広がる、「いつもどおり」の空間。
 吐き気のするような、クスリの匂い。
 白い壁はまるで狂ったようなような純白をほこり、そこには同じ色の回転する丸い椅子が一つと、後はベッドとトイレだけ。チガウ色は、空気穴と思しき白い格子をはめられた間からのぞく空気ダストの「黒」だけだ。
 大きさは、ひと一人にあてがわれる部屋にしては少し大きめだ。

 独房として使われているにしては、それこそ十分すぎる大きさだ。

「…………」
 少年は、部屋の隅に白い影がいるのを見た。

 …………人間。

 正確には、白い服を着た人間。
 白い手袋をつけたまま頭を抱えて顔を伏せていたので、訝しげなでっぱりくらいにしか思えなかった。

「………生きているか」
 そのでっぱりに向かって投げかける。
 大げさすぎるほどのリアクションで影は一度大きく体を震わせたかと思うと、顔を上げた。
「…………ひと?」
 少年と同じくらいか、多少年上くらい。
 たどたどしい口調で、少年を見上げる。
「……だれ?」
「リカリオ第三研究所所属・レムル=シカード」
 表情すら崩さず、真顔のまま少年は答えた。
「………だれ?」
 少女は空ろな目のまま、同じ言葉を繰り返した。
「あ、わたしをむかえにきてくれた、ひと?…………いままで、ねこさんがいたんだよ。それで、おはなししたの………だいじょうぶだよ、こわくないよ」
「………」
 少年は会話の焦点があわない少女から目を逸らして、当たり前のように懐から注射器を取り出した。
「………だれ?………だれだろう、しってるひと?………ちがうなぁ、だれ?ねえ、あなたはだぁれ?」
 少女は口を動かしながら、こちらへふらつきながら歩いてくる。
 その足は、普通の人間というには明らかに細く、華奢すぎた。
「俺は、あんたを楽にしにきただけだ」
「これって、なぁに?たのしいもの?………ええっと、たのしいものって、なに?」
 少女が、少年の白衣の裾をつかんだ。
 見上げる瞳は、無垢というよりは虚ろを極めていた。さまよう視線は、突如白い視界に入ってきた妙な物体にそそがれる。
「これ、なあに?ねえ、これは?」
「これは、注射器」
「ちゅうしゃき?」
 少女が反芻する。
「こうするんだ」
 少年は注射器を持っていたのと反対の拳で、彼女の頬をとらえた。

 一瞬後。

 頬骨が砕ける感触を通して、少女が入り口の壁にたたきつけられた。
 もろい。
 もろすぎる感触に、少年は軋みもしない自分の拳を見つめる。

「………」
 左頬を砕かれたせいで頬の変形した顔の少女を目を合わせる。
 みるみるうちに彼女に生気が宿る。
 ………否。
 むしろ本能とも呼べるべきものだろう。
「あ………いた、いたい……いた……の……いたいの。いたいのや、いたいのやあぁ……!」
 少女は先ほどと同じように、少年を背にしてうずくまる。
 防衛本能、とやらだろうか。
「はやく意識を失え、そっちのほうが、楽だぞ」
 言っていても通じないことなど、百も承知だ。
 少年は彼女の腕を取った。
「やだ、いやだ、やめてやめてやめぇ……!」
 声ともつかぬ絶叫を響かせながらじたばたとあがく少女に、さしたる抵抗ができるわけでもない。
「慣れてないんだ、動かれると困る」
 持ち上げた腕の、肘の辺りに注射器を突き立てる。
 針は白い肌を突き抜けて、血管へと滑り込む。
「ああッ、あう、あああ…………いたい、いたいよ、イタイようぅっ!」
 流れ落ちる少女の涙など、この場では意味を成さない。
 少年はゆっくりと注射器の中の液体を血管に入れてゆく。
「………せめて来世に望みを」
 少年は注射器の中身が全て彼女の中に入ったのを確認すると、静かにそれを抜いて、彼女の腕を放して突き飛ばした。
「うう………うう……ふぅ」
 少年は突き飛ばされたまま、起き上がろうとしない、否、起き上がる力すらない少女をにらみつけた。

 その脆弱な四肢。
 幾重にも刻み込まれた心のキズ。
 そのどれもが、人間として致命的なほど、深い。

 しばらく見つめるまもなく、少女の息が荒くなる。
 内出血を起こした頬をさすりながらやっと起き上がった少女が座ったまま、こちらを見上げた。
「おにいさん、はぁ、だ、だれ?」
「……………」
「だぁれ?」
「ゴミだ」
「ごみ………?」
「お前は、チリだ」
「ち、り?」
「そうだ。どっちも、大差ない」
「………なぁ、に?」
 まぶたが、段々とうつろな瞳を閉ざしにかかる。
「眠いか?寝てしまえ」
「よく………わか……ね」
 口を半開きのまま、少女は壁にもたれかかるようにして目を閉じた。

 吐き出された短い息が、少女の終わりを告げる。

「さすがに、新しいのはよく効く」
 少年は白衣の内ポケット辺りを表から一度たたくと、開いたドアから現れたタンカの二人組に目を合わせた。双子のように顔の似た、猫のように鋭い瞳を持っている。
「ご苦労様でした」
「後はお任せください」
「これ以上こちらに任されてもたまらないよ」
 少年は、一度ありったけの渇いた表情で笑ってみせる。
「また、ご冗談を」
「レムルさんは、さすがに上手ですねぇ。注射の痕すら残さないんですから」
 しゃべりながらも、二人の動きは手馴れた様子で少女をてきぱきとタンカに運んでゆく。
「あ〜毎度のことながらひどい顔」
「でも、頭は別に移植されないからヘイキだよ」
「あ、そうか」
「でもなんで窒息させないの?そうしたほうが早いよ、きっと」
「肺循環器系諸々に異常が生じ、移植後、患者の方に後遺症が残る」
「あ、そうか」
「クローン技術など、部分的に臓器が作り出せなければただの人増やしにすぎない。ただでさえ人口増加が叫ばれている昨今、コイツラの使い道は人体実験の後の臓器移植しかない」
 少年はタンカでもちあげられた、少女の顔をにらみつける。
「………俺たちとて、同じ穴のムジナだ」

 ………ゴミは、ゴミだ。

 要らない所で、『要らないという役割』を演じていればいい。
 ……世界はそうやってまわっている。

 レムルは部屋から出ると、タンカとは反対側の無機質な廊下を歩き出した。

「救いなど、ここにはない」

 そこには、さめたひとりごとと靴の音だけが、薄暗い廊下に響き渡るだけだった。




[終]