「ON THE LINE」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



「ハカマダッ!」
 俺の声と開けたドアの音が、静まり返っていた室内を切り裂いた。
「ああ………来たみたえだな」
 対照的に、ソファに座っていた短髪の一見優しそうな男は静かに事の次第を告げ、舌打ちをする。

 外は漆黒のはずだった。
 しかし、遠くに見える川の向こう側に、何か光のようなものがぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
 誘拐犯の俺達を追っている警察である可能性が非常に高い。

「ど、どうすんだよ!ここももう時間の問題だぜ」
「落ち着けよハスヤ。この距離ならまだ奴らは対岸だ、順当に橋を渡ってきても一時間以上はある。お前がサボらずにずっと見てたなら先頭はアレだから、まだ逃げる時間は十分にある」
 こんな時でも、ハカマダは冷静だ。
 俺じゃあ何を考えているのか、まったく分からない。
「だ、だけどよ」
「捕まったところで、この先何かある人生じゃないんだろ?落ち着けよ」
「何があるかわかんねぇからつかまりたかねえんだろーが!このボケ!」
「ったく、てめぇの口癖はいつまでたっても直らねえな」
 ハカマダが頭を掻きながら立ち上がる。
 一瞬何かされるのかと思ったが、彼はそのまま「アレ」の方へ歩いていった。

 ハスヤの視線の先に、少女が一人。
 壁際のピアノの前に座っていた少女が、憔悴しきった視線で近づいてきたハカマダを見上げた。
 二日といってもいつ殺されるか分からない軟禁生活で体はともかく幼い精神の方がまいってしまっているのだろう。食事はいやでもちゃんと取らせていたから、体力的な問題はないはずだ。

 ハカマダはわざわざ丁寧に視線の高さを合わせると、話しかけ始めた。
 俺はため息混じりに、その余興から視線を逸らして、さっきハカマダが座っていたソファーに腰掛ける。

 誘拐など、やろうと思えばワケはない。
 大人二人ならあんな子供一人、白昼堂々でも強引に車に押し込んで連れ去ってしまうのはたやすかった。
 一応お決まりのフレーズで電話を何回か入れてみたが、警察を十中八九介入させると思って逆に警戒に警戒を重ねて交渉を進め、今現金の入ったカバンは手元にある。

 アタッシュケースの中には、総額にして二千万が詰め込まれている。

 一人頭一千万では一年暮すのも問題だが、当面生きていくのに問題のない額だ。今が生きられればそれでいいから、ハスヤも計画を打ち明けられた時に何にも言わなかった。

 急にハカマダが、こちらを振り向いた。
「おい、ハスヤ」
「なんだよ」
 目がなんか本気なのでさすがにびびッた。
「ちょっと、来てみ」
 ハカマダが俺に手招いた。おそらく、なんか厄介ごとでも発生したんだろう。
「やだよ。メンドイ」
 即答したら、頭で鈍い音がして足元に置時計が転がった。
 痛みが一瞬遅れてしみこむように広がっていく。
「いってーな!なにすんだボケ!」
「いいからこっち来いってんだよ。次はこれ行くぞ?」
 そういって、ハカマダの手が猫の置物をつかんだ。瀬戸物だけに、割れるくらいのスピードで投げられたら、気絶してこの場においていかれる。間違いない。
「わ、分かったよ、ったくよ」
 舌打ち交じりに立ち上がって、二人のほうに向かう。
 ハカマダが、誘拐対象のほそっこい腕をつかんでいるのが見えた。なんか嫌がっているのが見えたが、ハカマダの馬鹿力相手では全然相手になっていない。
 そういえば暴れるのはこの家に入ってから初めてのような気がする。こっちに来てからもずっとしゃべらないままで、静かにしてたから、昨日から縛るのをやめた。
「なにやってんだよ」
「これ」
 そういって、ハカマダは彼女が嫌がっているにも関わらず、長袖をまくった。

 その華奢で白い肌に、無造作に幾筋も刻み付けられた、傷跡。刃物もあれば、まだ痣が痕に残ったような傷まである。

「これ………」
「やっ!」
 気合一閃、絶句した俺を合図に彼女の振り払った手がハカマダの手から離れた。
「………」
 誰にともなく気まずい雰囲気の中、俺はこっちを向いたハカマダと顔をあわせた。
「…………」
「………」
 俺は一度目を逸らすようにして、溜息をついた。
 なんでこういう時に、こう見なくていいものをみちまうんだろうか。
 かといって、俺にどうしろということもない。
「で、俺にどうしろっての?」
 一応ハカマダに突っかかってみる。
「どうしようか、この子」
 真剣な顔で俺を見上げるな。
「っていうかそれよりも前にやることがあるだろう俺達」
 話を逸らす。
 っていうか、こっちが本題だ。
「やられたのは友達、じゃないよね………?」
 彼女は、ハカマダに覗き込まれて下を向いた。
 誘拐犯はもちろん、他人に触れられたくない問題らしい。
 言えば、俺だってそんな胸くそ悪い話にできれば触れたかない。
 他人なんて興味はないし。
「家族………か?」
「おい、嫌がってんだろコイツ。もうやめてやれよ」
「………お父さん」
 一度名前を呼んだのかと思ってはっとしたが、それが犯人の名であると分かる。
「父親か………」
 溜息混じりに、ハカマダが遠い眼をする。
 相変わらず何を考えているか良く分からないが、すごく遠い眼だった。
「………おい、そろそろやべえだろ。ハカマダ」
「ああ、分かってる。でも、彼女このまま帰したら、まだ同じ目にあうだろ」
 一瞬だけ、少女の顔が引きつった。
 心なしか震えているようにも見える。
「っと、ちょっと待てよ、おい。ハカマダ」
 誘拐しておいて同情するなんて前代未聞のような気がする。
 このまま黙ってたら「連れて行く」とか言い出しかねない。
「ああ、なに?」
「ああじぇねえよ。これはコイツの家族の問題であって、俺達の問題じゃねえだろう」
「でもよ」
 やけにハカマダがごねる。
「金を出したってことは、改心したのかも知れねえだろ?」
「世間体がばれるとマズいから、そうしているだけかもしれない。この傷だって、俺達がつけたものと偽るかもしれないぞ」
 ハカマダは、相当彼女に入れ込んだらしい。
「ハカマダ、一つ聞いていいか?」
「あ?」
「お前その気は」
 猫の置物が頭にクラッシュヒットした。


 裏口から逃げる頃には、もう先発隊が見えて四十五分が経過していた。
 夜の山、不確定だがぼんやりとした月明かりの元を落ち葉を踏み分けて疾走していく。二キロ先の林道に車を乗り捨ててある。あれを押さえられていない限りは逃げるのはまたたやすい。
 今日が満月であることも計算済みだ。森の中の満月は異様なほど明るい。逆に懐中電灯などを使いながらでは、ばれる可能性があるからだ。
「でも、お前がああいうことするとはねぇ」
 どちらかと夜目の利くほうなので先頭を走っていた俺が、後ろのハカマダに言った。
「意外だったか?」
 ハカマダはさも平然としている。
「いや、だってよ………」
「誘拐までしているんだ、この際大きくなろうが小さくなろうが、警察に捕まったところでこの先何かある人生じゃないんだろ?」
 なんとなくさっきから馬鹿にされているのだけは分かる。
 むかついたが今足を止めるわけには行かない。
「まぁ、俺は最初からああするのがベターだとは思っていたけどな」
「本当かよ?………偽善者め」
「お前に言われたかねえよ」
 そう言い放って、俺は立ち止まった。
 獣道がくっきり二つに分かれている。
「道、どっち?」
「地図だと左だ」
「よく見えるな」
「ああ、夜目は昔から利くほうなんだ」
「お前、こっから前走れよバカ。ナビ兼任して一人でやれ」
「こっち行ったら、もう戻れないぜ?」
「つかまって、残りの人生無為に過ごすより、よっぽどマシさ」
 嬉しそうな低い舌打ちの後、ハカマダが走り出す。

 ハカマダは、元々自分達にとって不利になる人物を助けるつもりはなかったらしい。

 俺はその後を追いながら、手の甲に微かに残っていた「彼女の痕」を舐めとった。




[終]