「あ………」
廊下の先、遠目に見える少女は私と視線がかち合った瞬間、その足を止めた。
突然だったからか、ひどく驚いた表情で私を見つめた後、ぎり、と音が鳴りそうなほど強く、顔をこわばらせる。
気丈な性格が見て取れる凛とした表情は相変わらずで、私は慌てて、彼女に習うように無表情を返す。
どこからか流れてくる、暖かな風の匂い。
午後に入り始めても相変わらずか細い日差しは薄暗い廊下へと静かに差し込み、この状況をより一層強く感じさせる。
春休みの学校は外に広がる喧騒をものともしない。
圧倒的な静寂に満ちた校舎に一人、私は彼女を見据えて立っていた。
「………」
ただ、睨まれているといっても、彼女から伝わるものは憎悪や恐怖の類ではない。
彼女がこちらに届けているのは、ただ純粋な威圧そのものだった。
「………あれほど来るなといったのに」
やっと放たれたのは、吐き捨てたような言葉だった。
険しい顔の端に暗い陰がさっと映ったのを見て、私は頬を緩めた。
私は、資格を得たのだ。
彼女の『赦し』を。
「佳奈美」
「………」
一歩踏み出したその先には、揺らいだ影が一つ。
威圧をなくした彼女へ、近付くのはたやすい。
「ねぇ、灯子」
彼女に手が届く距離の一歩手前、私よりも背の低い佳奈美が私を見上げた。
「なに?」
「まだ、間に合う………灯子はまだ、戻れるんだよ?」
「まだ、そんなことをいうの?」
彼女の切なる願いを振り切るように。
私は最期の一歩を、踏み出した。
いつもなら、二人で喋るにはちょうどいい距離。
だけど、今日はそれが特別な意味を持っていた。
「………灯子」
ぐっと、奥歯をかみ締めていることさえ、手に取るように分かる。
荒くなった呼吸で震える佳奈美の両手に、私が手を伸ばす。
「お願い、もう私のいる場所は、ここしかないの」
歪んだ愛情と分かっていて。
それでも必要とされたことが嬉しくて。
それが、残酷な事実と知っていても。
「もう………あなたしか、いないの」
刹那、掴もうとした手はするりと空を切った。
固く握られた彼女の両腕は、掻き消えた靄のように揺らめいた。
「本当に、いいの?」
聞き返すのは、互いにとって既に確認のためでしかなかった。
無言を返すと、彼女はゆっくりと、私の前にその透けかけた手を差し伸べた。
――――スガタのある、カタチなきもの。
いつしか、彼女は自分のことをそう言っていた。
この学舎に籍を置くものだけが見られる、『伝説』。
そして、その誰からも見ることは出来るのに、触れることの出来ないもの。
数時間前の卒業式でこの学舎から籍を失った今、私が彼女ととるべき道は、一つしかなかった。
「…………これで、寂しくなくなるよ」
決まった進路のことや、親のことが頭に浮かぶけど、どれもこれも、目の前の佳奈美にはかなわなかった。
そう、構わない。
たとえ、自分が伝説になってしまうことさえも―――。
「よろしくね」
「……うん」
佳奈美が差し出した掌に、静かに手を沈める瞬間。
風が私の時間を止めるように、ゆっくり、ゆっくりとその流れを止めていった。
[終]