目の前にある喧騒が、ひどく遠い世界のモノに聞こえる。
好奇で集まる視線。
非日常に遠ざかる視線。
その全てがざわめいているのは分かった。
時計台の時刻が十二時の鐘を告げる。
私の意識はいつもそこで途切れる。
………全てが夢であったように。
「…………」
気がつくと、高い空を見上げていた。ひどく濃い青だ。
首を揺り動かすと案の定、見飽きた空の端が赤く染まっていた。
高い秋の空は、暮れるのもまた早い。
「………はぁ」
ため息一つで、寝ていたベンチから半身を起こすと、隣のベンチに座っていた男がこちらを眼鏡越しに見つめているのが見えた。
「隆史…………」
「………目、覚めた?」
あまり抑揚のない声。
別に心配をしている風には聞こえずに、私はちょっと心の中で拗ねる。
「うん、いつもと同じ………いやーな夢見たような気がする」
「そ」
隆史は私から目を逸らすと、手に持っていた缶コーヒーを私に投げてよこした。キャッチした瞬間、痛みのようなものが手を焼いて、
「あ、あちっ!」
あわてて取り落とす。
「あーあー」
缶コーヒーはごろごろ転がって隆史のベンチの足にぶつかったところで止まった。
「あーあじゃないでしょ。熱いなら熱いって言いなさいよ!」
「言うべきだったのか」
隆史は落ちたコーヒーを拾うと、懐から布のようなものを取り出して拭いた後改めてこちらに手渡した。
「ん」
「今度こそはありがとう」
私は注意深く受け取ると、プルタブをあげて中を少しずつ飲み始める。
寝起きの冷え切った体に染み渡る。
「ん〜」
座ったまま伸びをすると、固くなった体から余計な力が抜けていく。
「また、戻ってきてしまったらしいな」
まるで他人事のように隆史が辺りを見回しながら言う。
「慣れっこよ、私なんて」
少し先輩っぽく威張ってみたが、隆史は「そう」とだけしか返してくれなかった。
『まったく同じ』一日を、人は日常などとは呼ばない。
私たちが、なぜこんな風に「一日を繰り返す」ようになったのか、原因は分からない。
…………ただ分かるのは一つ。
ここから出る方法が、一つだけあるということ。
冷たい秋風が私たちを吹きぬけた後。
私と隆史の携帯が、ほぼ同時に鳴った。
「………」
通話ボタンを押すと、携帯を耳にあてがう。
『もしもし』
いつものように、声が同時にハミングを起こす。
はたから見たら絶対に喜劇みたいなヒトコマだ。
『やあ、相変わらず気持ちのいいことしてくれるねぇ。元気だったかい?』
「おかげさまでね」
『いやー、昨日は惜しいところまで行ったよね。やっぱり、隆史君は慣れてないからまだ足手まといになるのかなぁ?』
「いつもどおりアンタはうっさいの。どうせ[いつもどおり]なんでしょ?手順も」
『そういわれると、一日一度のメッセンジャーの仕事がなくなるじゃないか。もうちょっと楽しんでくれよ………』
「あんたの声を聞いてるとそうもいかないの。もう切るよ」
『ああ、つれない。やっぱり先輩ともなると、調子にの』
私は強制的に通話を切った。
電源を落として、そのままそばにあったくずかごに放り投げる。
隆史は念のため携帯を真ん中からへし折ると同じようにくずかごに投げ入れた。
「さ、行こ」
私の差し出した手を、隆史がしっかりと握り締めた。
途中でコンビニに寄った後、私たちは駅へ向かって歩き続けた。
やはり同じ時間帯と言っても、丘の上の公園と駅前じゃ話にならない。
帰宅する客でごった返す駅前に差し掛かると、心なしか隆史の足が遅くなる。都合で二、三歩前に出てしまった私は、後ろを振り向いた。
「……やっぱり、怖い?」
隆史の足は立ち止まったまま、立ち尽くしていた。
「ああ」
少し俯き加減で、彼は短く答えた。
相変わらず特徴のつかみづらい声だったが、表情は少し曇っていた。
「やめることも、できるよ?あきらめさえすれば」
あきらめる。
それは、「あり」だ。
無理をしてこの世界から抜け出すことをしなくても、私たちは生きていける。
この非日常に耐えうることさえできれば、退屈しきった同じ日々をすごすことができる。
何度もやり直しがきくゲームのようなこの世界なら。
どうせ朝になれば全てが元通りなのだ。
たとえ自分が死のうとも、おそらく元に戻ってしまうのではないだろうか。
そんな気さえする場所から、あえて逃げないという選択肢も残っていた。
なにしろ、今は一人じゃないのが一番安心できる。
そばに、同じ境遇の人間がいる。
「それに、これが成功して明日に行けたとしても…………」
「分かってる」
短い声が、私を慰めるように放たれた。
一度、大きく疲れた息を吐いて、隆史が顔を上げた。
「やろう。それでもアンタは、この世界から出たいんだろ?」
「…………」
「俺より先に来て、まだあきらめていないのが何よりの証拠だ。アンタはどんなことがあっても、これを繰り返す。だったらそれに付き合うだけだ」
何気なく責任転嫁されたような気がするが、彼の言葉や顔には迷いがなかった。
「足手まといにはならない」
「……ありがとう」
隆史は、今までは私のポケットに入れられていたコインロッカーの鍵を私に投げてよこした。
いつもの場所。
いつもの数字のコインロッカーを開く、
『まったく同じ』一日を、人は日常などとは呼ばない。
私たちが、なぜこんな風に「一日を繰り返す」ようになったのか、原因は分からない。
…………ただ分かるのは一つ。
ここから出る方法が、一つだけあるということ。
私と、隆史が現れた初日にあの電話の主に言われた言葉。
「駅前のコインロッカーにある道具で、書類にある五人を日付が変わるまでに殺せれば」私たちは、ここから出られる。
真実であるかどうかも、私には分からない。
そしてたとえそれが、明日からの罪に耐えかねるものであったとしても。
書類に記されている見慣れた名前を一応確かめてから、隆史に紙にくるまれた道具と共にそれを回す。
私ももう一つの方をぶらさげていたコンビニの袋の中に叩き込んだ。
「…………」
「二人一緒じゃどうしても間に合わないだろうから、下の二人をお願い」
「……わかった」
隆史もそれをコンビニのビニール袋に入れると、私を見下ろした。
視線がかち合って、自然と笑い合う。
「次に合う時は、また、あのベンチじゃないことを祈るよ、隆史」
「ああ」
改札前の大時計が、午後六時の鐘を鳴らす。
私たちは、ほぼ同時に逆方向へ向けて走り出した。
…………私たちの向かう先が、絶望的な明日だとしても。
[終]