「SUMMER PRISM」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



『次は、天神前、天神前です』

 バスのアナウンスに、僕は膝上に置いていた参考書から目を離して、窓の外に目をやった。
 バスは止まっていた。
 停留所はまだ先なので、赤信号につかまったのか、景色は一枚の絵のようになっていた。通っている中学校が近くにあって、いつも歩いている通学路の、見慣れた景色が夏の空の下、のんびりと広がっている。
 運転手がエンジンを切っていたので、車内の冷房は止まっていた。止まっている、と思うとなんだか暑くなってくるような気もするけど、外はもっと暑いんだろうなと考えたところで止めた。これから僕もこの夏空の下を歩くのだから。
 どるるるる、とまたエンジンがかかって、僕の座る最後尾の長い座席が揺れる。また冷房がゴウゴウと冷たい風を肩先と、窓枠に突いている肘の辺りを撫でてゆく。
 僕は参考書を閉じた。
 少しいい感じで集中できていたので、ちょっとだけ残念だったが、いつまでも乗っているわけにいかないし。
 僕の住んでいる東筒川団地の停留所まであと七つ。少しくらい手を抜いたって受験は逃げない。というかむしろ、僕が逃げたい。
 なんで高校受験なんてものがあるんだろうか。いっそ、全員行きたい学校に行かせてくれたらいいのになと思うのだが、その辺は良く分からない。
 塾の夏期講習も佳境で、あと数日で終わる。
 夏休み前となんら頭の中が変わった気はしない。学力って奴も伸びているなんて時間もできず、最近つまらないケンカばっかりしている親になんて言ったらいいのかわかんなくて、また胸がムカムカする。

『天神前、天神前です』

 アナウンスの声がして、バスがまた止まる。
 僕はまた参考書に一度目を落として、鞄にしまった。代わりに目に付いた紙切れを取り出して、ため息混じりに広げた。
 今日返却された、塾を通じて受けた全国模試の結果だ。
 結果はまあ、最近やっと見られるくらいにはなって来たかなくらいだ。
 志望校は先生の進められるまま、若干高めに設定してみたが、やはりどれも合格圏内に届いていないのは結構がくりと来た。
 判定欄には「D」や「E」の文字がずらりと並んでいる。
 こんなものを見せた日には、親に何を言われるか分かったものではなかった。帰るのも気が重いが、どこかに寄って帰る気力も無かった。
「はぁ………」
「うわ、確かにこれは溜息ものだねぇ」
「いっ」
 急に横に気配を感じて、僕は飛びのいて窓ガラスに頭をぶつけた。
 後頭部の辺りがぼわーっとして、思わず頭を抑える。
「ってー………」
「うお、痛そう………大丈夫?」
 彼女はくつくつと笑いをかみ殺しながら、こちらを見ていた。
 さっきまで誰も居なかった隣の席はいつの間にか、見覚えのあるクラスメートが陣取っていた。
「久しぶり。夏を謳歌してるかね」
 照川奈々子。
 彼女は今年、三年生の間ではちょっとした有名人だ。
 今春、彼女は水泳の背泳ぎで全国に行った。ホントに行っただけですぐ帰ってきたんだと言いふらしていたが、実際のところ表彰台まであと一歩だったらしい。
 元々才能のある選手でその筋では有名だったそうだが、同じクラスに居ながら僕はまったく知らなかった。まあ会えば話せるくらいの間柄だ。
「やっぱりバスは涼しいね。バス待ってる間に溶けるかと思ったよー」
 中学校にでも居たのか、服装は夏休みでも制服だった。
 どこからか取り出したウチワとYシャツをぱたぱたやりながら、ダルそうな声を上げる。少し開いたYシャツの胸元に自然に目が行ったが、慌てて逸らした。
「なんでお前がここに居るんだよ」
「なんで、って、天神前からバスに乗ってきたからに決まってるでしょうが」
「天神前からって言うことは、学校に用事?」
「あれ、分かんない?」
 そういって、彼女は荷物を持ち上げた。なぜか持っている荷物は通学用のカバンではなくプールバッグで、濡れた髪と、彼女から漂ってくるいい匂いの他の塩素臭はある事実を物語っていた。
「………プール?」
「正解」
 照川は満足そうに微笑んだ。
「あぁ、まだ部活やってんだ?」
「んーん、引退はしたんだけど、隅っこで後輩の邪魔してる」
「いいのかそれ………」
 でも、彼女は全国でイイ線まで行ったのだから高校なんてのは引く手数多だろうし、後輩も教えてもらえるなら願ったり叶ったりなんだろう。
 そうしたら、夏期講習なんてもんは照川には必要なくなるのは必然だ。
「芹沢くんは走らないの?」
「え?」
「だって、陸上部でしょ?」
「引退したからな」
 照川と違って、地区大会の百メートル一次予選で八人中六番じゃ上にはあがれない。
 前に長距離向きと言われて転向を薦められたりもしたが、あんな長時間辛いだけの種目は見るのもやるのも御免だった。
「好きなら別に部活じゃなくても走ればいいのに」
「そういうのは出来る奴が余裕を持ってやるんだろ」
 今の時期は誰も彼もが、そんなことも出来ずに、それなりに焦ってる………と思ってたんだけど、目の前の奴は例外だったみたいだ。そうだ、こんな奴も居るんだ。
「百メートル、もう走らない?」
「少なくとも今年はな」
「………ふーん」
 つまらなさそうに、照川が口を尖らせた。
「いいよな、推薦決まってる奴は」
「………なにそれ」
 思わず言ってしまってから、照川にじろりと睨まれて、しまったと思う。水で削れてんじゃないかと思うくらい細い顎の、すっとした顔立ちに睨まれたら、ちょっとドキッとする。
「いや………ごめん」
「残念でした。私推薦で高校行く気ないし」
「え、じゃ、受験すんの?」
「そ」
「んじゃ、後輩の邪魔してる場合じゃ」
「………分かってるよ」
 そこまで言われるのが分かってたんだろう。怒った次はまた口を尖らせて、ふてくされる。
「現実逃避なのは分かってんだけど、なんか水に浸かってないと、怖くてさ。なんか、分かるでしょ、そういうの」
 確かに逃げ出したい気持ちで言えば、僕も照川には負けていない。ゲーム、マンガ、その他色々ある誘惑には、負けたい気持ちでいっぱいだ。
 でもそれより意外だったのは、水の中ではほぼ無敵の照川でも怖いことがあるのかということだった。
「まあ、そりゃ少しは分かるけどさ………」
「ということで、今日も現実逃避してたの」
 ちょっとふてくされたように言って、照川は前を見た。
「今日も、って、お前、あと十日で」
「芹沢くんがそんなに意地悪だったとは知らなかったな」
 言いかけて、すさまじく怨念の篭もった視線で睨まれた。
 こんな時は、笑ってごまかそう。
「………ははは」
「中学生最後の夏休みだってのに、世間も受験だなんていらんもん設定するよね」
「確かに」
「なのにみーんな、受験一色。目の色変えて勉強し始めて、乗り遅れた私は気づいたら一人水の上だもんね」
「まあ、みんないい高校行きたいし、仕方ないんじゃねえの」
「いい高校ってのは、なんなんだろうね」
 僕とは反対側のほうの窓の外を見ながら、照川が言った。その細く引き締まった肩とうなじに、僕はどきりとさせられる。
「ふわ………ねむ」
 なんだよ、あくびかよ。
「それは俺に聞かれても困るけど………人それぞれあるんじゃないか?」
「校舎がキレイとか、制服が可愛いとか、水着が可愛いとか………」
「えっと、水着で学校選ぶ奴は居ないと思うぞ」
 学校の水着なんてどれも一緒だろと言ったら怒られそうなので止めた。
「キレイなプールがある学校………」
「………水の上から離れようぜ、照川」
「でも、私ってそれ位しか高校の選考理由ないんだよね。だったらどこでもいいじゃんって思うんだけど。むしろ、高校行かないで海女さんとかやったほうが楽しいかな」
「それはそれで海女さんに失礼だと思うけどな」
「そう?」
「でも、実際推薦の話もあったんじゃないのか?」
「一応あったんだけどねー………さっき芹沢くんが考えてること周りから言われてたら嫌になっちゃってさ。まあ、来てくれって言われた高校は東京だし、強豪は練習キツイだろうし、引退したのになんだかなぁって気分になっちゃって」
「なるほど………」
 推薦組にもそれなりの葛藤というものがあるらしい。
「そうするとモチベーションていうか、なんで勉強せなあかんねん、みたいな。自分でもどうしたいんだか良くわかんないんだな、これが」
 ぷしゅう、と音がして、バスの後部扉が開いた。《藤棚前》と書かれたバス停が歩道ににょっきり立っている。勝手に頭の中が計算する。降りる駅まで残り四つ。
「芹沢くんはさ」
「おう」
「どの高校に行くの?」
「………」
「………」
「んーと、一応、西高が第一志望」
 やや間があったのは、あまり触れて欲しくなかった問題だったからだ。
 自分でもちょっと躊躇ったからだ。今の自分のレベルでは、八割無理だ。模試結果でも残念ながらD判定が返ってきたばかりなのだ。
「西高って………あの、駅からちょっと行ったところにある、丘をくりぬいて作った学校だよね」
「え?」
「違ったっけ、正門入ってすぐに変な銅像立ってんの」
「いや、知らない………」
 てっきり茶化されるものだとばかり思っていた僕は、面食らった。
「あ、そっか、学校見学ってまだだっけ」
「いや、行ってないんだ。あまりに見当違いだったから」
「見当違い………私はそうは思わないけど」
「え?」
「だってこのバスに乗れば一本じゃん、他の高校より近いよ?」
「そういう問題じゃない」
 我慢しきれず、思わず突っ込んでいた。
「あ、もしかして成績のこと?」
 どうしてこう、コイツは会話のテンポが一つずれるのか。そしてひどい方向に僕の心をえぐって行くのか。わざとやってるとしたら相当なものだ。
「だったら平気だよ。芹沢くんは根は真面目だから」
 笑顔のフォローに、無邪気なトゲが混じってるのは気のせいだろうか。
「ありがとうよ…………」
「最初に頑張っても、後から頑張っても、頑張りが足りてるかどうか分かるのは受験した時だけなんだから、今からちゃんとやれば少なくとも後悔はしないよ」
「どんなやっても人間は、どの道選んでも後悔するんだよ」
「そんなら暇なときにまとめてやればいいじゃん、いつでもできそうだし。夏休みの宿題と一緒。多分大切なのは後悔を引きずらないことだよ」
「…………」
 僕は片方の眉をひそめて、彼女を見た。
「ん、どしたの? あまりに立派過ぎて感動した?」
「………なんか言うことがまともすぎて気持ち悪いぞ、お前」
 即座にわき腹に手刀が飛んできた。痛いのとくすぐったいので身をよじる。
「ごめんなさい、俺が悪かったです」
 浮気がばれた夫みたいなセリフで即座に許しを請うと、照川が満足そうに「よし」と言った。
「せっかく真面目なことを言ったのに、その反応はあんまりじゃないかな」
「くそう………覚えてろよ」
「あっそう、まだ懲りないの、芹沢くん」
「いや、ごめん、もうやめ」
 冗談で伸びかけた照川の手首をとっさに掴んで、その細さに思わずぎょっとする。照川もまさかつかまれるとは思ってなかったのか、目がそっちに行っていた。
 やってしまったことの意味に気づいて、一瞬、彼女のひんやりした冷たさが伝わった後、僕は手を離した。
 気まずさと恥ずかしさがぐるぐる、胸の辺りから顔の辺りを火照らせて、僕は何もいえなくなってうつむいた。
「………わりい」
「うん………ちょっとびっくりしたけど、平気」
 うつむいたままなので照川の顔は見えなかったけど、声は普通だった。そのうち、目の前から押さえるような笑い声が聞こえて、それで僕はようやく顔を上げた。
「芹沢くんは………あんまり、女の子と一緒に居たこと無いんだ」
「え」
「手をつかんだくらいで謝るんだもん、なんかおかしくて」
「う、うるせえ」
 なんかバカにされたような気がして、腹が立って、それ以上に何か分からないけど恥ずかしくなって、思わず、怒鳴っていた。
「じゃ、これでさっきのと、あいこね」
 照川はさっさの手首と僕の恥ずかしさを同じにして、片付けてしまった。これもなんだか良く分からないうちに納得してしまって、うなずいた。
「………おう」
 それきり、言うことも無くなって、僕と照川は少しの間、自然と黙った。はじめから他人だったみたいに、目もあわせることも無かった。
 ごうごう、と冷房の音だけがして、乗客の居ない午後のバスは流れるように進んでゆく。小さいころから何度も乗っているバスの外は相変わらず特に変わった様子も無い。
 家があって、お店があって、小さい路地や階段、細かいところは少しずつ変わっているけど、僕はもうその前に何があったのかなんてのを覚えていない。
 ふと、照川はこの景色を見ながら、何を考えているんだろうと思った。
 けど、照川はさっきあくびをした時と同じ、僕にちょうど背を向けるようにして、反対側の窓を向いていた。



 照川の異変に気づいたのは、最寄の東筒川団地前が近くなった、十字路だった。
 十字路とはいっても、ヘアピンカーブに近い感じなので、バスは大きく余裕を持って外側へ弧を描く。
 小さなころはこの十字路のヘアピンがここだけ遊園地の乗り物から抜け出してきたようで楽しかったのだが、座っているならともかく、立っている時はつり革を握っていないと窓ガラスに衝突しそうな曲がり方をする。
 遠心力が働いて、僕は窓の方へ押し付けられる。
 と、同時に、反対側から何か硬いものが肩の辺りにぶつかった。
「いてっ」
 照川の頭だ。
 骨がじんと痺れて、痛みが肩全体に染み渡ってゆく。照川の手前、かろうじて取り乱すのはこらえた。
 照川は僕の肩に頬を押し付けたまま、だらしなく少し口を開けていた。
 そこからかすかに寝息が聞こえる。
「………そういや眠いとか言ってたな」
「私、六つ先ね」
「………おい」
 寝たフリかよ。
 俺は停留所次だ、と言う前に、生乾きの髪が二の腕をくすぐった。
 ぞわっ、と背筋に鳥肌が立って、塩素の匂いとは別に、照川からいい匂いがする。

『次は東筒川団地前、東筒川団地前』

 ボタンを押そうとして、肩にしっかりと寄りかかる重みに気づく。
 薄目を開けて事の成り行きを見守る胡散臭い芝居を横目にしながら、僕はようやく、素直ではない彼女が仕掛けた『偶然』の理由に行き着いた。
「…………仕方ねぇな」
 僕はひとつ溜息を吐き、提示された問題の答えを先延ばしにするため、伸ばした手を引っ込めた。
 隣で、さっき笑われた時のようなかすかな笑い声が聞こえたような気がした。




[終]