「タイブレイクアワー」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



  −2−


 思えば、児島はとても不思議な奴だった。
 天才ってほど才能やセンスがあったかと言えばそうでもないし、目に見える形の努力をしていたわけでもない。
 でも、児島は強かった。身内で多少の贔屓目はあったかもしれないけど、実績は後から付いてきた。
 一年の冬辺りから部長を初め三年のレギュラーメンバーを次々なぎ倒し始め、気がついたら二年の春には既に部内でもレギュラー固定されていた。そしてとんとん拍子にコトは運び、気が付いたら総体にまで行ってしまい、その年の地獄の夏休み練習には一人だけ、半分くらい顔を出さなかった。とてもうらやましかったことだけはよく覚えている。
 そしてその頃辺りから、残りの俺たちと児島には、小さいが明確な亀裂が走り始めていたような気がする。

「っらぁ!」
 渾身のフォアショットをストレートで叩き込む。コントロールと角度はやや甘めに入ったが、勢い任せに打った分の威力はある。
 しかし、ボールの行く手にするりと影が立ちふさがった。追いついた、というよりは回りこんできた感じだ。あの程度の速度には、まだ余裕で対応してくるということか。
 炸裂音に近いような音がして、ボールが教科書のようなしなやかなバックハンドで打ち返された。体にブレはない。
 エグイ角度のクロスで戻ってくるボールに反応して、こちらも今度はバックハンドで応戦する。
 まだか。それとも、1セットくらいではダメなのか。
 今度は相手のフォアサイド、奥のベースライン際をめがけて撃つ。威力は無いが、なるべく相手の足を振り回す。
 児島はそれも読んでいたかのように回り込む。平然とした表情が、憎たらしい。
 ラケットから再び炸裂音がした瞬間、中央のセンターラインに戻りかけていた俺は、ボールを一瞬見失った。
 次の瞬間、児島の強烈なストレートショットは俺のバックサイド側、ライン際に突き刺さった後、後ろの金網に派手な音を立てて転がった。鋭い、というか、公式戦でもあんなショットを打つような化物はあまりいなかった。
「………なんだありゃあ」
 見えなかったワケではなかった。けど、体は動かなかった。
 気がつけば体が重い。もう既に一試合以上やったかのような疲れが体中に溜まっている。
 引退して半年、受験の合間に体は動かしてたとはいっても部活のようにしんどくなるまで自分を追い詰めていたわけではない。
 でもそれは、相手も同じはずだ。
 アレだけ右に左に振り回したのだ、一時的にでも疲れていないはずはない。と思う。

『3−1』

 分かってるよ審判。ああどうせ負けているのは俺の方だ。
 最初のダブルフォルトで流れをもらいかけたが、地力はやはりあっちの方が上だ。というか、タイブレイクに入ってから自力で一点も取れていない。
 純粋に、場数の差なんだろうな。
「ってか………早いとこくたばんねぇかなぁ、アイツ」
 俺はネット越しに見える児島に吐き捨てた。
 それだけが、俺が児島に対抗しうる唯一の可能性だった。持久戦に持ち込めば勝てると言う、ある根拠からくる自信を俺はかたくなに信じていた。
 ただ………。
 思いが通じたのか、汗だくの児島もちらりと俺の方を見………そして、全然こちらの意図を理解しない、出所不明の自信を浮かべてニヤリと笑った。
 ダメだ。アイツ、まだ笑う元気がありやがる。
「はぁ………」
 ため息とも疲れとも取れる息を吐いて、俺はテニスラケットを前に中腰に構え、ゆらゆらと左右に揺れる。自分がタイミング取りの為に揺れているのか、フラフラなので体が勝手に揺れているだけなのかが、もう分からない。
 冬だというのに、体は火照ったように熱い。特にふくらはぎ辺りと右肩が燃えるようだ。湯気でも出てるんじゃないだろうか。
 一応、陽射し除けでキャップはかぶっているが、頭が蒸れてぼうっとする。まだ一時間も動いていないのに既に口の中はカラカラで、汗はだくだくだ。
 悔し紛れに児島の顔を睨みつける。ボールが気になるのか、手に持ったそれをじぃっと見つめている。さっきと違って、こっちなんかもう見てやしない。
 そう思っていたら、児島が一度俺を見た。
 ばちりと一回確実に視線があったのを確認してから、やつは手に持っていたボールを、ゆっくりと頭上の中空へ放り投げた。
 緑色のテニスボールが重力に逆らって宙に浮いている間、児島の体は綺麗にしなった後、溜めていた力を一気に解放する。足、腰、肩、肘、手首と来て、ラケットの一番柔らかい部分で、ボールを一瞬だけ無残な楕円に変わるまで的確に、叩き潰した。
『外側!』
 頭の中で、勘なのか、動体視力が導き出した答えなのか、直感がそう告げる。
 ボールの動きを追って、体はライン際まで即座に動いたが、ボールの行方が分かった瞬間に追うのをやめた。
「フォルト!」
 直後に、審判の声と、金網にボールがノーバウンド直撃する音が重なったからだ。
 ボールがあらぬ方向に飛んでいった。問題は、コートのどこにも掠らず、下手をすれば金網の遥か上を通過する場外ホームランをかましかねなかったという、その一点だ。タイブレイク直後に2つあったギリギリのフォルトじゃない。
「………なんだありゃあ」
 さっきの強烈すぎるストロークショットといい、今のタイムリー2ベースヒットといい、もしかして俺、舐められてるのか。
 でも、確かにこっちの体力が落ちてるとはいっても、そういうことをする奴だったか?
 ただ単にラケットの握りがすっぽ抜けたとか、インパクトの角度がおかしかったとか、そういうただのミスなのか。
「………」
 児島は審判に照れ笑いを浮かべながら、ボールをポケットから出していた。表情だけでは分からない。もうちょっと分かりやすい顔してくれればいいのに。
 セオリーなら、次のセカンドサーブは弱めに入れてくるだろう。
 テニスは基本的にサーブ側に主導権がある。どちらにしても、これを取られたらスコアは4−1だ。巻き返すのはかなり苦しい。
 ここで勝負してみる価値は、きっとある。
 トントントントコトン。
 テニスボールが跳ねるイヤな音が聞こえる。さっさとはじめるぞ、と言わんばかりだ。アイツも俺がテニスボールで遊んでる時に何か聞こえるんだろうか。まあ、同意を求めたら変な奴認定は間違いないだろうけど。
 ふわり。
 テニスボールが宙に浮き、ラケットがそれを弾き飛ばす。
 向かってきた緑色の放物線は先ほどよりも角度がゆるい。明らかにさっきよりも弱い………のだが。
「ん、のっ!」
 それでも、万一ラケットの端なんかに当たり損ねれば手が痺れるほどの威力だ。余裕ではじき返すことなんか到底無理だ。
 かろうじてコントロールできるレベルで、相手のバックサイドにクロスショットを無理矢理ねじ込む。
 児島がバックハンドを打ちやすいように。
 全国区になる前、児島が唯一の苦手としていた、致命的な弱点を俺は知っている。
 疲れてくると、児島のバックハンドは角度がほんのわずか上に向いて、力なく跳ね上がるのだ。
 緩すぎるコードボール、言い換えればフラフラしながらこちらに飛び込んでくる、中途半端で打ち頃のドロップショットのように。
「っし!」
 前面に走り出して待ち構えていた俺は、力なく自陣に戻ってきたボールを右側の無人のコートに叩きつけて、吼えた。
 さっきまでつかめる気配すらなかった流れが、こちらに向かって押し寄せてくるのを感じる。
 さっきのフォルトがなんだったのかは、もう分かった。
 間違いなく、児島はさっきのサーブの際に、何らかのアクシデントを抱えた。

 あの三年になるかならないかの春の日、左の膝を押さえてコートに崩れ落ちた、あの時のような。



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