「八月の煮汁・後編」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



三章

 目の前に鬼がいた。
 黒いはずの瞳はコンロの炎を映し、赤い眼光となって絵里に注がれていた。
 ちょっとした思いつきと、虚しい夏を過ごしてしまった八つ当たりで始めたこの闇鍋であったが、どうやら冗談ではすまないシロモノが出来上がってしまったらしい。
 せっかくだから旬の食材をと思って、ゴーヤやウナギを入れたのがまずかったのだろうか。ひょっとしたら、蒲焼のタレは鍋とは相性が悪いのかもしれない。
 このメチャクチャさこそが闇鍋の醍醐味というものだろう。
「さあ、先輩の番ですよ」
「はいはーい。一葉ちゃん、菜箸取って」
 ここまでひどい出来上がりだと、逆に食べたくなるから不思議だ。それに、食べてみたら意外とおいしいかもしれない。
 そこそこの期待と少しの不安と多大な好奇心を抱きつつ菜箸を鍋に突っ込み、最初につかめたものを自分の取り皿に移す。
「これは……ナニ?」
 色はわからないが、なにやら一口大で柔らかいものだった。
 本当に食べ物なのかどうかすら疑いたくなる、怪しい物体。
「では、早速いただきます」
「早っ!」
 つい数分前に地獄を見てきた一葉が、絵里の即断に驚愕する。
 いつもは冷静な後輩が、こうして慌ててるところを見るのはなかなかに新鮮だった。
「あむっ」
 噛む、飲み込む。
「…………」
「どうですかぁ?」
 紀子の質問には答えずコップを手に取り、中のウーロン茶を一気飲みにした。さらに注ぎ直し、もう一杯あおる。
 最後の一滴まで飲み干したところで、絵里は大きく息をついた。
「あー! しょっぱかった。ひょっとして、これ食パンじゃない?」
 スポンジのように限界まで汁を吸ったそれは、海水と間違えそうなほどに塩辛いものになっていた。鍋の汁は昆布で出汁をとっただけなので、この塩味は具材から染み出たものだろう。
 間違いなく体に悪い食べ物だが、まだまだ勝負はこれから。一葉が食べたスイカに比べれば、決して食べれないことはない。
「私が持ってきたやつだね、食パンは」
「……お前、すごいもん入れたな」
「ウチは朝はパンだから」
 一葉よりダメージも少なく済み、これで絵里の番は終了。次の人へと菜箸を渡す。
「わたしの番ですね。なにがでるかなー」
 嬉々とした彼女が食すことになったものは、
「わー、おまんじゅうだぁ」
 ピンポン球くらいの大きさはある、アンコがしっかり詰まってそうなまんじゅうだった。
 それをためらうことなく口へと運ぶ後輩を、一葉は驚きつつも感心してみていた。
 絵里のほうも、自分が今しがた体験した強烈な味を思い出し、紀子がどんな反応をするのか興味深そうに眺めている。
「いただきまーす」
 特に不自然な仕草も見せず、紀子はあっさりと食べ終えてしまった。
「うん! あまくて美味しいですよ。アタリ引いたみたいです」
『…………』
 一年生の不可思議な言葉に、他の三人が静まり返った。
 絵里が立ち上がり、一葉と康介を部屋の隅へと促す。
「……この子って悪食?」
「……味覚はまともなはずなんだけどなぁ」
「……いつも入れてくれるお茶は美味しいしね」
「……じつは本当に美味しいとか?」
「……ありえません。私、意識が飛びかけましたよ?」
 絵里が振り向くと、紀子は小首を傾げながらその様子を眺めていた。暗くてはっきりとは見えないが、きっとどうして密談をしているのか分からずに、不思議に思っているのだろう。
「どうかしましたかー?」
「い、いや。なんでもない」
 こうしていても仕方がないので、とりあえず席に戻った。
 四人目の康介が菜箸を手にし、鍋へと手を伸ばす。
「感触が良くわからないな。……これでいいか」
 取り皿に移したそれは、ピンポン球くらいの大きさの、今さっきみたようなシルエットをしていた。
「あ、お兄ちゃんもおまんじゅうだ」
 暗闇の中でもそれに気づくあたり、紀子は夜目が利くようだ。羨ましそうに、兄の皿の饅頭を見ている。
 一方、康介の顔は諦観で満ち、自分の失敗を心底悔やんでいた。
 匂いには何の異常もない分、口に入れる瞬間までその本当の恐ろしさは分からない。
 妹はそれを美味しいと言っていたが、そもそも湯気が出ている饅頭というものが美味しそうには見えない。しかも、今回はそれに加えて色々なものの出汁が出てるであろう鍋で煮た代物だ。
 三人に見つめられる中、康介は真剣に悩んでいた。
 この饅頭。小さく分けて少しずつ食べるべきか、それとも一気に全部食べてしまうべきか。
 絵里のときのように、味が異常に濃いだけなら前者で乗り切れるはず。だが、一葉と同じ状況だとしたら、長期戦は愚策となる。
「どうかしたの? 早く食べないと冷めちゃうよ」
 正面から急かす声。本人にはそのつもりはないのだろうが、今はそれ以外の意味には取ることができなかった。
「…………っしゃ!」
 康介は吼えることで自分を鼓舞し、饅頭を口の中に放り込んだ。
 二人は固唾を飲んでそれを見守り、一人はのん気にお茶をすすっていた。
 饅頭をほお張ったまま、康介の動きが完全に停止する。
 十秒ほどそのまま固まっていたかと思えば、次の瞬間、はじかれるように立ち上がってそのまま外へと飛びだしていった。
 すぐに戻っては来たものの、その顔は気の毒なくらいに青白くなっている。
「えーっと……次、行こうか」
 絵里は精神衛生上、何も見なかったことにした。
 一巡し菜箸は再び一葉の手に渡る。
 地獄への切符を鍋から拾い上げ、取り皿へ。
「この感触……嫌な予感が」
 箸から伝わる感触は、スイカに良く似ていた。
 なまじ味を知ってしまっているだけに、身体が拒絶反応を示す。口へ運ぼうとしても、手が震えて動かなくなってしまうのだ。
「一葉ちゃん、ヤバイ?」
「いえ、いきます。いってみせます!」
 震える右手を左手で支え、二度目の悪夢を口に放り込んだ。
「…………」
 康介の時のように、一葉の動きが止まる。
 一回目の俊敏な反応と、今回の停止という反応。どちらが本当に危険なんだろうと、絵里はそんなことを考えていた。
 そして、次は自分の番なのだ。せめて、そのどちらでもない、まっとうなリアクションが出来るものをつかめることを祈るばかりである。
「……飲み物を下さい」
 搾り出すようなか細い声。一瞬、それが一葉の声だとは認識が出来なかった。
 紀子がコップを手渡すと、一葉はゆっくりとそれを飲み干し、体の奥底から息を吐き出した。
「梨でした……」
「……そう、がんばったね」
 もはやかける言葉もなくなってきた。なにせ自分も当事者、他人事ではないのだ。
 二度目の自分の番が回ってくる。
 一葉から受け取った菜箸を、絵里は鍋へと差し込んだ。


四章

 結局残ったのは、一葉と紀子の二人だけ。
 首謀者と自称保護者はすでにノックアウトになっている。最後の良識者、一葉もすでにギリギリのところで堪えているにすぎない状態だ。
 考えるまでもなく、この勝負は紀子の勝ちになるだろう。いつからこれは勝負になったのかという疑問が一葉の頭をよぎるが、今更それを考えても意味はない。
「次は私の番ですね。何が出るかなー」
 紀子は取ったものを皿に移し、それをまじまじと眺める。
 一口で食べるには大きいそれは、子どもの弁当でまれに見かける、鍋には絶対に入らないものだった。
「梨だー。残念、自分で買ってきたのに当たっちゃった」
 冗談じゃない、と一葉は思う。
 一巡目の恐怖を思い出し、顔から血の気が失せる。幸い見咎める者はいなかったが、手も少し震えていた。
 あのときのスイカの味を覚えている限り、自分はずっとスイカを食べることは出来ないだろう。果物と野菜という分類上の違いはあるが、その食感はかなり近いものだ。一葉が梨を恐れるのも無理はなかった。
 そうやってあれこれ考えている内に、紀子はすでに梨を食べ終えてしまっていた。
「お兄ちゃんは……ダメみたいなんで、センパイお次にどうぞ」
 渡された菜箸を、つい受け取ってしまった。
 すでに二回も食べており、そもそもの原因である絵里がギブアップしているのだ。十分義理は果たしたし、体のことを考えるとこれ以上ムリをするのは命に関わりそうな気もする。
「センパイ、食べないんですか?」
 菜箸を持ったまま、この悪行から抜け出す口実を考える一葉。
「もしもーし。大丈夫ですかー」
 誰かが呼んでいる声は聞こえるが、その意味までは理解されることなく、耳から耳へと抜けていく。
 いくら紀子が天然とはいえ、あまりあからさまな嘘をつくのはどうだろう。ここは一つ、それじゃあ仕方ないと思わせられるような言い訳を考えなくては。
 食べるのをやめる理由。それも味とは関係ないことがベスト。
「あっ!」
 うってつけのものがあった。お互い女の子同士だし、共感できるはずだ。
 問題がないこともないが、とりあえず試してみて損はない。
「センパイ?」
「あのね。実は今、ダイエット中なの」
 言うだけ言っては見たものの、自分でも白々しいとは思う。
 昨日は部室でお菓子を食べ、今日はこうして鍋を囲みにきてるのだ。どう考えても、体重を気にする人間の行動ではない。
 だが、目の前の少女はやはり川西紀子だった。
「わぁ、そうだったんですか。ごめんなさい、全然気づきませんでした」
 やってもいないダイエットだ。誰であれ気づくはずがない。
 あまりの素直さに罪悪感を覚えるが、それよりも我が身のほうが可愛い。
「ごめんね。だから私はもうやめとく」
 そう謝ると、紀子は首を横に振った。
「いえいえ。体重は女の子の天敵なんですから、全然気にすることないですよ」
「でも、コレはどうしようか」
 テーブルの中心には、いまだに具が満載の鍋が、いい匂いを漂わせつつ鎮座していた。
 いくら奇跡の味覚を持つ紀子とはいえ、食べることが出来る量はいたって普通。とてもではないが、鍋を一人で食べることなど不可能だ。
「んー。困りましたねぇ」
 さすがにこれだけの食べ物を捨てるのは心苦しいが、持って帰る気は毛頭ない。今でさえひどい味が、再度温められて濃縮されるなんてことになったら、もはやそれは兵器としか言いようがないものになってしまう。
「みんなで材料買ったものだし、持って帰っちゃうのも気が引けちゃいますね」
 紀子が持って行ってくれればまさに渡りに船なのだが、下手をすれば川西家が崩壊してしまう可能性がある。
 どうしたものかと二人で頭を悩ませていると、暗室内にノックの音が響いた。
「おう部員ども。鍋は美味くできたか?」
 ビール片手にやってきたのは、写真部が顧問、杉山静だった。
 学校で飲酒をしていいのかと問いたくなるが、こっちもこの有様。余計なことには触れない方が身のためだ。
 杉山はスイッチを切り替え、部屋を明るくしてから近づいてきた。
「あ、静ちゃん。ちょうどいい所にきたー」
「静ちゃんと呼ぶな。……と川西に言ったところで無駄だな。で、ちょうどいいとは?」
 聞き返す杉山に、紀子が鍋を指差して答える。
「ちょっと余っちゃったんで、静ちゃんもいっしょに食べよ」
 先輩には敬語を使う紀子だが、杉山が相手だと親しい友人に対するような言葉使いになる。どういう経緯かまでは知らないが、昔からの知り合いだと以前聞いたことを思い出した。
 だが今は、それよりもこの鍋の行く末のほうが気がかりだ。
 杉山は鍋をしばらく眺めたあと、空席になった二つの椅子に視線を向けた。
「一つ聞いておくが、他の二人はどうした?」
「絵里センパイは歯みがきしてくるってたよ。お兄ちゃんはその隅っこ」
 紀子が指差す先には、うなだれたままピクリとも動かない康介が、床に直接座っていた。
 それを見た杉山が、そっと一葉に耳打ちする。
「……これで、か?」
「……はい」
 事実を簡潔に告げると、杉山はビールの残りを飲み干し、そのまま一葉たちに背を向けた。
「鍋じゃ酒の肴にはならないな。私は遠慮しておく」
「うー、残念。おいしいのに」
 紀子の言葉の後半はともかく、前半には一葉も同意見だった。
「まあ余ったようなら、部室の冷蔵庫にでも入れて置いたらどうだ」
 振り向くことなくそれだけ言い残し、杉山は去っていった。
「そっか。一応ウチには冷蔵庫があったんだった」
 フィルムを保存するという名目で、去年小さな冷蔵庫を部費で購入していたのだ。今はチョコレートなどのお菓子や、ジュースを保存することでその役割を果たしている。
「ふぃー。やっと口の中がスッキリした」
 とりあえず解決策も見つかったところで、絵里が帰ってきた。歯を磨いたばかりだというのに、手には昨日のお菓子の残りがある。
 一葉も相伴にあずかることに決め、鍋の処理は紀子に任せることにした。

「ごちそうさまー」
 具が半分くらいになったところで、紀子が箸をおいた。
 明かりもついていて、紀子は何も気にすることなくどんどん食べていくので、すでに闇鍋である意味はなくなっていたが、そんなことはもうどうでも良くなっていた。
 食後には、昨日のお茶のときのように女三人でおしゃべりの時間が始まる。話はすぐに盛り上がり、部屋の中には笑い声が咲き乱れる。
 もうすぐ九時になるという頃、自然とお開きという流れになった。
 紀子は鍋を冷蔵庫に入れ、一葉は食器類を片付け、いつのまにか眠っていた康介は絵里が蹴り起こした。
「イテェ……」
「おかげで目が覚めたでしょ?」
 さも当然といわんばかりの笑顔を向けられては、康介も怒る気が萎えてしまった。
 後片付けが全て終わると、四人は杉山に挨拶をし、学校を後にした。
 夏の夜はまだまだ暑かったが、さきほどまで密室にいた者からすれば、十分に快適といえる気候だった。
「いやー、今日は楽しかったねぇ。まさかあんなものが出来上がるとは」
 先頭を歩いていた絵里が振り向いた。
「いい思い出になったよ。ありがと、紀子ちゃん」
「どういたしましてー」
 少し照れて顔を赤くした紀子が、絵里に答える。良し悪しを除けば、そう簡単には忘れられない思い出だと、一葉もそう思った。
「私の代のときは部員がやたらと少なくてねぇ、一度こういうのやってみたかったんだ。まあ、一度で満足したけどね。―――とにかく、一葉ちゃんとコウも、本当にありがとね」
 どうやら絵里は心から、今日のことを喜んでいるようだった。
 面と向かってお礼を言われると、さすがに照れてしまう。康介も照れ隠なのだろう、わざとらしく頬をポリポリと掻いている。
「そうだ。来年も皆でまたやりましょうか」
『それはやめて!』
 三人の声が、夜の闇に響き渡った。



 ―――後日、写真部の一年が謎の食中毒で倒れたという事件がおこるのだが、それはまた別のお話。




[終]



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