「酔った日のこと」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



「かんぱ〜い!」
「乾杯……」
 二つのグラスが勢いよくぶつかり、中身がこぼれそうになった。
「おわっ、あっぶねぇ」
「なにやってんだか。そのうち割れるよ」
 自分のじゃないから別に割れたって構わないけど、その拍子に服が濡れるのは勘弁して欲しい。
「んっ、んっ、ぷは〜! やっぱこの一杯が最高だ」
 人の話なんて聞いちゃいない。目の前の男はあっという間に最初の一杯を飲み干し、ビンから手酌で二杯目のビールを注ぎ始めた。
 グラスに細かい泡が増えていく様子をこの男、春日部は嬉しそうに眺めている。本人が言うには、この泡が一番旨いらしく、とにかく泡が多くなるように注ぐようにしているのだそうだ。
 八割以上が白い、ビール混じりの泡を春日部は食べてるんだか飲んでるんだか分からない勢いで口に流し込んでいく。別に他人の飲み方に口をはさむ気はさらさらないけど、ビール会社の人が見たらぶっ飛ばされても文句は言えないと思う。
「んあ? なにそれ、ワイン?」
 ずいぶんと洒落た白ヒゲをたくわえた春日部が、こちらのグラスの中身に注目した。
「乾杯したときになんで気づかないのさ」
「や、俺は泡しか見ないし」
 大学から始まり仕事先まで同じという長い付き合いだけれど、この正直さには感心すればいいのか呆れればいいのか、いまだに判断がつかない。
 そんな益体もないことを考え、グラスを軽く揺らすと真っ赤な液体がくるくると踊りだす。
 安っぽい普通のグラスに赤ワインという実にミスマッチな取り合わせが、このわけの分からない席によく似合っていた。
 
「さて、そろそろ本題に入りましょうか!」
 狭い部屋に不要なほどの大声で、春日部がなにやらわめきだした。
 時計は11時を指している。もちろん、夜のだ。いくらなんでも真昼間から酒を交わすほど堕落はしていない。と、自分では思っているが、最近はあまり自信がない。
 そんなわけで、あまり騒ぐと明日になったら隣の部屋の住人から苦情が来るかもしれない。あまり度が過ぎるようなら、始発でさっさと逃げることにしよう。
「今日はなぜこの宴会を開いたのか、わっかるかな〜?」
「宴会だったんだ、これ」
 前提条件から分からなかった。
 なにせ参加人数はたったの二人。会場は春日部の住んでるアパートの一室。おまけにこうしてだらだらと夜中に飲むのはさして珍しいことでもない。
 あえていつもと違う点を上げるのなら、やけにビールが大量に用意してあることくらい。いくら春日部でも、1ケースはさすがに飲みきれないはず。
「あれ? メールに書かなかったっけ。俺の誕生日だって」
 携帯を取り出し、件のメールを表示させた。
「ひょっとして、この『炭常備』ってメールのことかな」
 バーベキューでもする気だろうか。
「うわ、なんだこの変換間違い。履歴つかって変換すると変なの出てくるんだなぁ」
 白ヒゲのダンディも自分の携帯を眺め、得心したように何度も頷いた。
 普段どんなメール送ってたらこんな誤変換がでるんだろう。心の底から知りたくない。
「それはさておき、気を取り直して……」
 お互いに携帯をポケットにしまうと、改めて春日部はグラスを掲げた。一人しかいない観客相手に司会の続きをやるつもりらしい
「さて、そろそろ本題に入り――」
「そこから!?」
 しまった、思わず突っ込んでしまった。
 その反応を待っていたと言わんばかりの春日部の顔が、実にむかついたので近くにあったボクシンググローブを思い切り投げつけてやった。
 用途外の遠距離攻撃に使用されたこのグローブは、酔っ払った勢いで春日部が買ってきたものだ。枕の代わりになったり、熱燗を持つときに便利だったりと、非常に重宝している。
「さてさて、まずは一献」
 なぜか給仕をしたがる今日の主賓が、ビール瓶を向けていた。
 それに合わせてこちらもグラスを持ち上げ、
「ビール嫌いだからいらない」
 自分でワインをなみなみと、グラスに注いだ。

「めでたい時にはやっぱビールでしょうよ」
 同僚と悪友を兼任する男はいたくご不満らしく、さっきから文字通り泡を食いながら、しきりにビールを勧めてくる。すでに30回はグラスをからにしているため、さすがに酔いが回ってきているようで同じことを何度も繰り返している。
「おいしいのになぁ……」
 春日部は残念そうにつぶやくが、何度言われてもあんな苦い麦汁は飲む気になれない。あれを最初に作った人はきっと、魚の内臓とかが好物に違いない。
 甘いのも辛いのも酸っぱいのも好きだけど、苦いのだけは昔から苦手だった。味覚が変わって大抵の好き嫌いがなくなった今でも、ビールの苦さだけはどうしても好きになれずにいる。
 ――ああ、そうだ。一応言うのを忘れてた。
「そういえばまだ言ってなかった。誕生日おめでとう」
 いつもの飲みと変わらないけれど、本人が祝ってもらいたがってるのなら、祝辞くらいは述べるあげるが人の常で世の情け。……むぅ、少し酔ってきたかもしれない。
「これで僕らも30歳かぁ」
「僕らって言うな。誕生日は春日部のほうが早いんだから」
 なにせこっちはまだまだ若い。新入社員と会話に微妙なギャップを感じるけれど、それはきっとまだ打ち解けてないからだ。そうに違いない。
「お盆過ぎには30になるじゃん。大して変わらないでしょ」
「違う。まだ29歳と11ヶ月と3日。ぜんぜん30歳じゃない。わかる?」
 まだまだ20代の日々はたっぷり残ってる。筋肉痛が2日後にきたりするけれど、心はいつでも若いまま。
「つまみなくなっちゃった。なんか食べれるのあったかな」
 聞いてないし。

「プレゼントは何を貰おうかな〜」
 時刻はすでに3時過ぎ。無制限耐久飲み比べバトルでアルコール漬けになった脳みそも、一息ついて落ち着いてくる時間帯。
 酔いは覚めてきたというのに、春日部の無駄なハイテンションはまだまだとどまるところを知らない。なにせいきなりこんな風にわけの分からないことを言い出すくらいなのだ。
「というわけで、なにかおくれ」
 差し出される手のひら。わきわきとうごめくそれは、何か与えるまで引っ込みそうにはない。
 何かないかと辺りを見回すと、ちょうどいい具合にサインペンと何かのチラシを発見。
「はい、肩たたき券。うん、なかなか良いかもしれない」
「適当だなぁ。しかも求人広告のチラシだし……」
 予想外にとんちが効いたものが出来てしまった。
 プレゼントに飽きてしまったのか、春日部はチラシを放り投げて追加のビールを取りに行った。
 さすがに小学生の父の日じゃあるまいし、このプレゼントは雑かもしれない。こうしてしょっちゅうタダ酒が飲めるのも春日部の実家が酒屋なおかげだし、たまには恩を返しておくべきか。
「んー」
 さて、恩を返すといっても何が良いだろうか。正直なところ、妙案といえるものは何もない。
 まだ酔いが残っているのか、うまく考えがまとまりそうにはない。眠くなってきたわけじゃないけれど、なんだか頭がぼんやりとする。
 春日部が欲しがりそうなもの、ふむ、なんだろう。あいにく春日部になったことがないので、どんなものが喜ばれるのかさっぱり分からない。
「――あ、そうだ」
「ん、どうかした?」
 ビールを両脇に抱えて戻ってきた春日部に、さっそく今思いついた案を話すことにした。
「プレゼント、思いついた」
「おおっ! なになに?」
 春日部はテーブルに身を乗り出し、続く言葉を待つ。その拍子にちょっとビールがこぼれたけれど、この男は気にしたそぶりも見せず、こちらの言葉を待っていた。
「何か一つ、春日部の言うことを聞こう」
 さっき思いついたアイディア。シンプルだけど、自分の趣味を押し付けるより、やはり本人が望むものを与えるのが一番だと思う。
 本人も気に入ったらしく、さっそく泡にかじりつきながら要望を考え始めた。さすがにどんなことでもとはいかないけれど、多少のことなら受け入れてあげよう。
「ん〜、何がいいかな。いきなり言われると結構難しいなぁ……」
 春日部が頭を悩ませている間に、空になったグラスにワインを注いだ。さっきまでの赤ワインがなくなったので、今はちょっと高めの白ワインを飲んでいる。
 グラスに口をつける寸前、春日部はポンっと手のひらを合わせた。
「うん、決まった。これにしよう!」
「一応言っておくけど、あんまりムリなのはダメだからね」
「大丈夫。ムリじゃない……かどうかはわからないけど、簡単だから」
 よくわからないけど、とりあえずは不可能なことではないらしい。
「で、どんなこと?」
 グラスに残ったビールを飲み込んで、一呼吸。珍しくちょっと緊張した顔つきで、春日部は言った。
「僕の彼女になって」

 一分か五分か、体感的には一時間くらいありそうな時間が過ぎた。
「……えぇっと、え?」
 いかん、頭がさっぱり回ってない。飲酒はほどほどにしたほうがよさそうだ。
「だめ?」
 だめかと聞かれても、こちらとしては事態についていくのが精一杯でとても答えられる余裕はない。微妙に手が震えているあたり、本気で自分は狼狽しているらしい。
 返事をする前に、とりあえず湧いた疑問を口にしてみた。
「えー、その、えっと、いつから?」
「自分でもよくわからないけど、多分たった今だと思う」
 質問の意味を間違えず、春日部は答えた。
 それはそうだろう。なにせ、大学の飲み会で知り合ってからというもの、この男に異性として扱われた記憶なんて一度たりともありはしない。
 自分で言うのもなんだけれど、容姿はわりと良いほうだと思っている。スタイルもそれない、性格だって……難はないんじゃないかと。
 あまりにも普通に接してくるから、てっきり不能か同性愛者か、はたまた法に触れる類の性的嗜好だとばかり思っていたが、ものすごく失礼な勘違いだったらしい。
「お〜い、そろそろ正気に戻れ〜」
 目の前には春日部の手のひら。考え事をしていたせいで、フリーズ状態になっていたみたいだ。
「で、どっち?」
 春日部がグラスを二つ差し出す。
 片方は白ワイン、もう片方はビール入り泡。どちらかを選べということらしい。
 めでたい時にはビール、先ほどそんなことを口にした男がいた。
 変わり者で、同僚で、久しく続く飲み仲間。
「ふんっ」
 ひったくるように受け取ったグラスの中身を、ためらうことなく一息に飲み干した。
「…………にがっ」




―了―