「おはよーっす!」
「おはよ。今日も千佳は元気そうだね」
私に会うなり呆れたように笑う豊。一歳しか違わないのにその年上ぶった余裕の態度はなんかムカつく。
そもそも誕生日が離れてるだけであって、学年は同じなんだ。下に見られる筋合いはないぞ。
「わっ! 危ないなぁ」
右ストレートを目の前ギリギリのところで止める。次やったら本気でぶちかますぞ、という意思表示だ。
豊がムッとした顔でこっちを見てるけど、そんなのはもちろん無視する。
「あら、千佳ちゃん」
近所の高橋さんに今の現場をしっかりと見られてしまった。
高橋さんは今から出勤なんだろう。スーツがすごく似合ってて、いかにもデキる女って雰囲気を醸し出している。
「おはよう。今日も元気そうね」
「あはは……。おはようございます」
豊と言っていることは同じなのに、高橋さんが言うと全然違和感がない。それは上品な物腰のせいか、はたまたその整った顔立ちのせいだろうか。
多分、その両方だと思う。
女の私でもそう思っちゃうくらいに、高橋さんは魅力的なのだ。
「千佳、そろそろ行かないと遅刻するよ」
「おっと。そうだった」
今は学校に行く途中だったんだっけ。すっかり忘れてた。
高橋さんと別れ、豊と歩き出す。
私も将来はあんなカッコいい大人の女性になりたいと思う。才色兼備って感じのやつ。
とりあえず必要なのは成績かな? あとできれば身長も百六十は欲しい。あ、スタイルも良くならないと。なんとかCくらいに。
いや、その、最低でもせめてBくらいは……。
…………なんか生まれ変わらないと無理っぽいです。はい。
「おーい。本当に遅刻するよー」
校門を抜けると、見知った三つ編みを発見。
「沙希。おっはよー」
声をかけると、沙希はその場でくるりと振り返った。
「山野辺さん。おはよう」
お、豊が女の子の名前覚えてた。人当たりは柔らかいくせに、相手の名前をなかなか覚えられない豊かにしては上出来だ。
まあ、沙希は私と付き合い長いし、その分他の子に比べて覚えやすかったのかな。
「あ、おはよう……」
当の沙希はなんだか元気がないご様子。
普段から大人しい娘だけど、別に性格が暗いわけじゃないし。何かあったのかな?
そういえば夏休みが明けてからのこの一週間。微妙に落ち込んでるようだった気がする。
「沙希、元気ないみたいだけど大丈夫?」
「どうしたの急に、私は全然大丈夫だよ」
そんなに弱弱しく言われても、逆に心配なんだけどなぁ。
豊も心配そうに見てるけど、あえて口を開いたりはしない。
気になるけど本人が大丈夫って言っている以上、無理やり聞き出すのはやっぱりマズイか。
だったら私まで暗い顔してちゃダメだね。
「ほらほら、予鈴が鳴っちゃう前に教室入ろ」
「うん。ありがと、千佳ちゃん」
「それじゃあ、僕はこっちだから」
三人で廊下を歩いていると、途中で豊が立ち止まった。
豊の教室はこのA組。私と沙希はここの二つ隣のC組だ。
「はいはい。またね」
教室に入っていく豊を見送る。すでにかなりの人数が教室にはいるので、すぐにその姿は人の群れのなかに消えてしまった。
「って、あれ? 沙希がいない」
さっきまで隣にいたのに…………あ、すでに先に行っちゃってる。豊の声に気づかなかったのかな。
「あれ、千佳ちゃん?」
十数メートル向こうで、沙希も私と同じリアクションを取っていた。後ろに私がいることに気づくと、トコトコとこちらに戻ってくる。
私がA組の教室を見ていたことに気づいたのか、沙希も視線を教室内へと向ける。
そして唐突に、不可思議な発言をなされた。
「やっぱり皆川くんの事、気になる?」
「はい?」
この娘はいきなり何を言っているんだろう。っていうか皆川って誰だ? なんだか聞き覚えがあるような……。
「ああ、豊か。……って何故にそんな質問をするのさ」
気になるって、私は単に見送っただけだぞ。
沙希の真意がまったく分かりませんです。
「……ううん。なんでもない。ごめんね」
今度は謝られてしまった。全くもって、何がなんだかさっぱり分からない。
本当に最近の沙希は変だなぁ。
悩み事があるなら何とかしてあげたいけど、今は見守るとしますか。
夏のピークは過ぎ去ったとはいえ、昼間は教室内も結構暑い。
「はぁ……」
そんなわけで、授業に身が入らないのは仕方がないことなのだ。
あー、喉渇いたな。あとで自販機で何か買おう。
それにしても雲はいいよなぁ。雨が降るくらいだし、きっと喉が渇いたりしないんだろうな。
「……野、水野」
さっきから先生が誰か呼んでる。誰だか知らないけど早く返事すればいいのに。
「水野千佳! 聞いてるのか!」
ほら水野さん。先生がお呼びだよ。
水野千佳かぁ。私と同姓同名だ。すごい偶然だねぇ。
「……って私か!」
ポコン、と教科書で頭を叩かれた。
叩いたのはもちろん先生。いつのまにか私の席のすぐ前までいらっしゃっていた。
「えーっと、こんにちは」
「はぁ……」
とりあえずスマイルでごまかしてみたら、とても大きなため息を返されてしまいました。
周囲の視線も、なんか同情的な色に満ちてる感じ。さすがに今のはまずかったかな。
「村沢、お前この問題解いてみろ」
あれ、普段はぼんやりしてたら五分はお説教なのに。今日はずいぶんあっさりしてるな。
そして急に振られて大慌ての村沢くん。私のせいっぽい気がしなくもないので、とりあえずゴメンなさい。
「いやー、さっきは危なかった」
お昼はいつも沙希と二人。
沙希はちっちゃな女の子らしいお弁当。対する私は大きめの機能性だけを重視したお弁当箱を愛用している。
一人ではそうでもないのだが、沙希と一緒にいる分、余計にお弁当箱が大きく見えるらしい。
そのせいか、クラスの中では私は『男らしい』という評価を授けられてしまった。
まったく、こんなか弱くて純粋な乙女に向かってそんな見当違いなこというなんて、見る目のない連中だよ。
「千佳ちゃん。考え事してたの?」
「いや、あんまり暑いんで呆けてた」
なにげに今もすごく暑い。
こう暑いと食欲もなかなか湧いてこないので、今日は購買のパンを買わずにお弁当だけという小食さだ。
千佳も同じみたいで、さっきから少しずつしか口に入れていない。その食べ方が小動物みたいで、本人には悪いけどなんだか可愛らしい。
「私は物思いにふけるようなガラじゃないしね。そもそも考えるような事もないし」
いつだって即断即決、猪突猛進。口より先に手がでるタイプなのさ。
「そうなんだ…………あっ」
いきなり色っぽい声を出す沙希。
「急に震えるから、いつもびっくりしちゃうの」
そういって取り出したのは、折りたたみ式の携帯電話。薄いピンク色で、人気があるやつだ。
何かボタンを押して、携帯を操作している。どうやらメールが届いたようだ。
「いいなー。私も携帯欲しいな」
実は、高校生にもなって私は携帯というものを持っていない。
おまけに家の電話は古いタイプなので、コードレスなどという気の利いた機能はない。話がしたければ、わざわざ電話が置いてある玄関のところまで行かないといけないのだ。
最近になってその不便さにうんざりしてきたので、今度買いに行く予定。
「どの機種にするかは決めたの?」
「とりあえずメールができるやつがいいな」
「できないやつはほとんどないよ……」
授業も終わって、やっと放課後。
久しぶりの授業は休みボケしてた頭にはちょっとつらかった。
「さて、帰るとしますか」
沙希と一緒に帰ろうかと教室を見回してみたけど、すでにいなくなっていた。
部活には入ってないから、いないということはもう帰ってしまったようだ。
いつもならおしゃべりでもしながらのんびり帰るのに、沙希の不思議な行動はまだ続いてるみたいだ。
「今日は一人で帰ろ」
教室を出ると、人の姿はほとんど見えなかった。
ちょっとのんびりしすぎたかな。まだ頭を休みモードから切り替えないと。
「あ、千佳だ」
廊下の途中、豊に遭遇。
ごく自然に横に並び、二人そろって歩き出す。
特に話すことがないので、私は無言。
豊はもともとあまり自分から話しかけてくる方ではないので、私がしゃべらないと基本的に二人して黙ることになる。
もしこれが他の誰かだったら息苦しいと思うんだろうけど、豊とは昔からこんな感じだから別段気にならない。
校門を出て、数時間前に通った道を逆にたどる。
「あ、そうだ」
今日は買おうと思ってた本があったんだ。商店街に寄っていかないと。
「というわけで、行くよ」
「ずいぶんと話の内容はしょったね」
何か言ってる豊は置いといて、進行方向を若干修正。駅前の商店街へと移動開始。
豊も結局はちゃんとついて来るあたり、律儀な男だ。
今度は私の買う本という話題が出来たので、喋りながら二人で歩く。
格闘技の本だといったら露骨に嫌な顔をされた。今朝の事まだ気にしてるな、こいつ。
「あ……、あれって山野辺さんじゃない?」
豊が指差す方に視線を向けると、そこには確かに沙希の姿が。
手に何か持ってるけど、この距離じゃそれが何かまでは分からない。
「何やってんだろ……って、曲がって行っちゃったか」
沙希は商店街のちょっと手前の小道に入っていった。私は尾行の趣味なんて持ってないので、ついていく気は当然ない。
「…………」
行く気はないけど、なんとなくその小道に違和感を感じて立ち止まる。
この先に知り合いの家はないし、通ったことなんて数えるほどしかないはずなのに、つい最近何かがあったような気がする。
「豊、この奥って何かあったっけ?」
「公園くらいかな。あんまり広くないけど」
ふむ、そんなもんか。
なんか引っかかるけど、まあいいや。さっさと用事済ませて帰ろう。
「ただいまー」
「おじゃまします」
豊を連れ立って二階に上がる。
昨日のドラマを見逃したと豊がいうので、録画したやつを見せてあげることになったのだ。
深夜にやってるやつなので、夜更かしが苦手な私はいつもビデオに撮って見る事にしてる。
豊はその時間まで起きて見てるらしいけど、昨夜はつい寝てしまったのだそうだ。
「さっそく見るとしましょうか」
ビデオを巻き戻してスイッチオン。
このドラマは展開がすごく急で、毎週見ててもよくわからなくなることがある。
そのせいで人気はあまりないんだけど、慣れると結構はまるんだな、これが。
豊と並んで一時間テレビに釘づけになる。さすがに終わるころには肩が凝ってしまった。
「ふいー。面白かった」
「次で最終回なのに、いきなり新キャラが出てきたときはびっくりしたね」
「そうそう。しかも重要人物っぽいし。いいのかね、あれは」
見終わったあとは豊と感想の言い合い。っていうかツッコミの入れ合い。
ひょっとしたら、ドラマよりもこっちの方が面白いのかもしれない。なにせ一時間のドラマなのに、一時間半もツッコミが続くくらいなんだから。
豊はなんでも肯定的にみようとするし、私は反対に否定的なので議論が白熱するのだ。
「さて、と。そろそろ僕は帰ろうかな」
気がつけば外は太陽も沈み、暗くなっていた。
私も喋りすぎで疲れてきたし、今日はこのくらいにしておくか。
一緒に階段を下りて、玄関まで豊を見送る。
「それじゃあ、おじゃましました」
「はい、また明日……は土曜日だから、また来週」
扉が閉まったのを見届け、台所に向かった。
「牛乳もらうねー」
夕食の準備をしていたお母さんに声をかけ、冷蔵庫を開ける。
「ねぇ、千佳」
「んー?」
コップに注いで、一気に飲み干す。
やっぱ牛乳はいいねぇ。大地と牛の恵みに感謝だよ。
「アンタ、大丈夫なの?」
やけにマジな声に驚いて、お母さんの顔を見るとさらに驚いた。
いつになく真剣な顔してますよ、この人。
っていうか大丈夫ってなんだろう。何かあったかな?
「……ああ」
そういえば来週は休み明けのテストがあるんだっけ。一学期の期末は赤点あったからなぁ。真剣になるのも無理ないか。
「大丈夫だってば。心配ないよ」
嘘です。はったりです。でも正直に答える勇気はありません。
「本当に?」
「本当に」
内心の動揺を隠しながら、真摯な目でアピール。
「なら、いいわ」
納得したのかしてないのか、よくわからない表情で頷く我が母。
仕方ない。今回は少し真面目に勉強しようかな。
日曜日。
もちろん学校は休みだけど、私の起床時間はほぼいつも通り。
昼まで寝てる人もいるらしいけど、そういうのはどうも性格的に合わないみたい。
以前にそれを豊に話したら、「小学生みたいだね」とか言われた。もちろんそのあと蹴っ飛ばしたけど。
朝ごはんはもう食べたし、今は自分の部屋でのんびりしてるところ。
「ヒマだなぁ」
やることはないけど、もう眠気なんて完全になくなっちゃってるし、どうしようかな。
勉強は昨日がんばったので、今日はしたくない。
何かないかと部屋の中を見渡す。昨日買った本も、すでに読み終えて部屋の隅に放ってある。
ついでに言えば、衣類とかも部屋のあちこちに。冷静な目で見ると散らかってるな、この部屋。
「掃除しよう」
変な虫とか湧いてきたら嫌だし、たまには自分の環境改善に勤しみますか。
「できたー!」
疲れた。
掃除って一度始めると結構あちこち気になるものなんだなぁ。ベッドの下やタンスの裏までキレイにしちゃったよ。
あとやってないところは机くらい。
学校の教科書やら鞄やらが芸術的に積みあがっている様は、下手に手を出すと雪崩を起こす危険性を匂わせている。
「これは……今度にしよう」
体力を消耗してる今の私にはちょっと手ごわすぎる。
「千佳ー」
階下から響くマイマザーの声。
ウチは防音がまったくなってないので、普通に呼ぶだけで二階まで余裕で聞こえるのだ。
何事かと降りてみると、リビングにはお客さんの姿があった。
「こんにちは、千佳ちゃん」
「あ、こんにちは。おばさんが来るなんて珍しいね」
そこにいたのは豊のお母さん。少しぼんやりしたところがあって、豊と血がつながってるんだなと会うたびにそんな感想を抱いてしまうほど雰囲気がそっくりなのだ。
そういえば、こんにちはってことはもうお昼か。熱中しすぎて気がつかなかった。
「千佳。今日はね、皆川さんがあなたに渡すものがあるんだって」
いつになく真剣な顔の母親。そんな顔をされてはこっちも思わず身構えてしまう。
対するおばさんの方はあまり元気がないようだけど、いつもの優しい笑顔だった。
「千佳ちゃん。これ、あの子が持ってた物なの」
差し出されたのは細長い箱。だいたいテレビのリモコンくらいの大きさで、角がぼろぼろになっている。
あの子ってことは、豊だよね。あいつ一人っ子だし。
よくわからないけど、とりあえず受け取って箱を開く。
「うわぁ……」
中に入っていたのはネックレスだった。
価値のあるなしはよく分からないけど、なかなかセンスがいいし、デザインも私の好み。
これ貰っていいのかな。いいんだよね。いいってことで決定。
「あれ、何だこれ?」
箱の中にはネックレスの他にカードが一枚。
カードにはキレイな字が、やたらと小さく書かれてあった。
『誕生日おめでとう 千佳に指輪をあげると殴られたとき危ないからネックレスにしました 豊』
豊らしい、微妙に地味なカード。
きっと文面を考えるのに何時間も頭を抱えてたんだと思う。昔からこういうのが苦手だったから。
それを考えると、この無骨さもなんだか愛らしく見えてくるから不思議だ。
「本当はもっと早くに渡せればよかったんだけど……」
あ、そういえば私の誕生日って八月の終わりだ。
すっかり忘れてたけど、もう二週間くらい経っちゃってたのか。豊め。自分で渡さないばかりかこんなに遅れるとは。
誕生日って私何してたんだっけ。全然思い出せない。
「千佳。豊くんの形見なんだから、大切にしなさいよ」
―――――。
「え……?」
何を言ってるの?
形見って、それじゃあ豊が死んでるみたいじゃん。タチ悪いよ、その手のジョーク。
「今まで、あの子と仲良くしてくれて、本当に、ありがとうね」
おばさんまで、何言ってるのさ。そんな涙声出さないでよ。
そんな風にされたら、本当に豊に何かあったと思うでしょ。
そんなわけないよ。だって、一昨日だって一緒にドラマ見てたんだし。学校にも行ったし、帰りに寄り道したりもしたんだよ。
だから、豊はなんともないよ。明日になれば、いつものところでまた会うんだから……。
豊は大丈夫。事故になんて遭ってない。
……事故?
何それ? 事故って何?
おばさんも、お母さんもそんな事は言ってない。なら何で私は事故だなんて思った。
そんなの知らない。私は知ってちゃいけないんだ。
どうして?
だって思い出しちゃうから。余計なことを。今の生活を乱すものを。
今のままでいいんだ。何も変わらない、毎日を楽しく生きられるままが。
「でも……」
右手には、貰ったばかりのネックレス。
このネックレスが、それを許さない。絶対の現実から逃げるには、これは重すぎる。
認めろと訴えかけてくる。私の目の前で、豊が永遠にいなくなったあの日の事を。
だから、私は――――。
二週間も経つと、事故の痕跡はほとんど消えていた。
道端に置かれた花だけが、ここで起こった事実の証明として残っている。
「この花。つい最近置かれたやつだ。まだ新しい」
誰かが、豊のことを知ってる誰かが置いてくれたんだろう。
私はそんなこともせずに、思い出そうともせずに、安穏と新学期を迎えてたんだ。
「豊、ごめん」
その場所に手を合わせ、目を閉じる。
多分、私が望めばまたあの豊の姿は見えると思う。声も聞こえるだろうし、私の行動に苦笑したりもするはずだ。
でも、それは嘘だから。
今日が二度目のお別れの日。
「じゃあね。私は、先に進むよ」
……行こう。もう、用は済んだ。
「千佳ならそう言うと思った」
―――ひどい、幻聴。
空を見上げ、私は歩きだす。
「頑張ってね」
振り返ったりなんかしない。
それでも、私は一度だけ、もういない少年のために頷いた。
[終]