−1−
思い出は時間という流れの中で、二種類の変化を遂げる。
一つは研磨。その記憶の存在そのものが美しく、貴いものとされて心に刻まれる。
もう一つは希釈。激しかった感情ですら薄れてしまい、やがて限りなく無に近いものになっていく。
一般に前者は美化、後者は忘却と呼ばれている。
ならば、そのどちらでもないものは一体何なのだろう。
そんなものは存在しないのか、それとも、どんなものでもいずれどちらかに変貌を遂げるのか。
その答えは、いつか見つかるだろうか。
見つけることが、できるのだろうか。
−2−
鬱陶しかった梅雨も先週ようやく終わった。
それからはずっと雲ひとつない快晴が続いている。天気がいいのは好きだけど、これだと水不足になっちゃうんじゃないかとも思う。
日の当たるところにいたら、あっという間に干物になりそう。
夏休みにはいったので家族全員で実家に帰ってきてるものの、正直な話、この田舎では何もすることがない。
―――はぁ。今日も天気良すぎだな。
市内に行けば何かあるだろうけど、バスは一日に二本。どちらかを乗り損ねたら、その日は歩いて帰らないといけなくなる。
バスに限らず、このあたりを走る車なんて滅多に見かけないけどね。
多分道路の真ん中で寝てても轢かれないと思う。代わりに日光でやられるけど。
なんにせよ、どこに行くにも面倒なんで、わざわざ出掛ける気なんてまったく起こらない。
そんなわけで、こうして縁側でゴロゴロして惰眠をむさぼっている。
クーラーなんて高級品はないので、風が入ってこない室内よりここのほうが快適なのだ。
扇風機もちゃんと用意してあるしね。
「世の中に寝るほど楽はなかりけり、ってか」
町のあちらこちらからセミの声。今日も精が出るなぁとちょっと尊敬。
今や都会っ子になってしまった俺には真似できない芸当だ。
「ちょっと、何やってんの!」
絶好の昼寝日和。そよ風を感じながらまぶたをゆっくりと閉じる。
「聞こえてるんでしょ、返事しなさい!」
無視しようとしてるってのに、何でコイツは邪魔するのかな。
人の家の庭に勝手に入り込み、さらには至福の一時を邪魔する無粋者は仁王立ちで俺を睨みつけていた。
「優輝か。見てのとおり、何もしてないぞ」
素晴らしきかな、この正直な生き様。
優輝も感銘を受けたみたいだな、感動で体が震えて―――
「てりゃぁっ!」
「うえ!?」
不吉な掛け声に条件反射で頭を横にずらす。
一瞬の間をおいて、殺意に満ちた踵落とし降ってきた。
枕代わりにしてたクッションの中心にピンポイントで突き刺さる。助けてポリスマン、殺人未遂の現行犯です。
「お、お前は俺を……」
「うん。殺す気」
この女、笑顔で即答しやがった。
危険すぎるので、すぐさま起き上がって警戒態勢を取る。横になったままだと今度は腹を狙ってきそうだし。
「何もしていない人間に暴力を振るうとは。この野蛮人め」
そもそも一年ぶりにあった従兄弟に、あいさつくらいするだろう普通。
中身はあんまり変わってないみたいだ。
「…………」
訂正、見た目も変わってないな、うん。
「せやっ!」
今度は前蹴り。
胸元を手で隠してるってことは、視線の意味がバレたみたいだ。
蹴りはギリギリで回避成功。どうでもいいけど、スカートで足技を連発するのはどうかと思う。
「やっぱり、一度死なないとわからないのかな」
「とりあえず落ち着けって。それより、何もしてない俺の昼寝を邪魔した理由は何だ」
最後のはともかく、初めの一撃の理由がわからない。いくらなんでも、理由もなく蹴られるのは嫌だ。
もちろん、理由があっても嫌だけど。
はぁ、と優輝が盛大にため息をついた。
「……何もしてないからこそ問題なの」
こめかみに指を当てて、頭痛をこらえるようなポーズをしている。
「幸兄。ここに何しに来たか覚えてる?」
ここに来た理由?
頭の中を検索開始。一秒も経たずに答えがはじき出される。
そういえば、朝食のときに頼まれたことがあったような。
うん、確かに頼まれた。内容覚えてないけど。
「その顔じゃ忘れてるか……」
「人を顔で判断するんじゃない。面食いに育てた覚えはないぞ」
「……はぁ。相変わらずだね、幸兄は」
心底疲れたようなため息。
これ以上やると本気で蹴られそうだな。
「それで、何の用だっけ?」
「だから、お祭りの準備、今年は手伝ってくれるんでしょ」
話を戻すと、優輝もいつもの調子に戻った。切り替えの早さも相変わらずだ。
ああ、それに思い出した。
東京に引っ越してからは、いつも里帰りは祭りが終わってからになっちゃったけど、今年は早くに来れたから準備の手伝いをすることになってたんだった。
「いつまで経っても来ないから見に来てみれば、まさか寝てるとはね……」
まあ、このままダラけてるよりは有意義だな。
「手伝いって何やればいいんだ?」
「あ、やる気になってくれた?」
少しうれしそうな表情になる。
「俺はいつでも本気だぜ」
「余計タチ悪いね、それ」
そして途端に呆れ顔。おまけにものすごく失礼なこと言われた。
けどここは一つ、頼りになるところを見せてやるとするか。
俺のほうが一学年上だしな。誕生日は三ヵ月しか違わないけど。
「さて、と。あんまり遅れるとお父さん待ちくたびれちゃうし、早く行こう」
ちらりと腕時計をみる優輝。
その動作はすごく自然で、俺が初めてみるものだった。
去年は時計なんて持ってなかったのに、まったく変わってないわけじゃないんだな。
当たり前のことだけど、少しだけ感心した。
「どうしたの?」
「ん? いや、なんでもない」
一度部屋の中に戻って、帽子とタオルを持ってくる。
日射病には気をつけないとな。
今年はすでに三人倒れたらしい。
さすが山奥、日差しがキツイぜ。
「さて、それじゃ行きますか」
「あ、車に気をつけてよね。急に飛び出したりしたら危ないよ」
「……子どもか、俺は。っていうか車なんて通ってねぇ」
「幸兄だもん、信用できないよ。昨日も夜にどこか出かけちゃったって伯母さん言ってたよ」
わお。俺のプライベートだた漏れ。
「そういえば幸兄って、こっちに来るたびにいなく事あるよね。知らない人について行ったりしちゃダメだよ?」
こいつの中での俺の評価って……。
−2−
祭りの会場となる広場まで、歩いて二十分ほど。
小さな川がすぐそばを流れているのが、唯一の特徴と言えるくらいに何もない場所に、太陽に立ち向かいながら何とか到着。
すでにグロッキー寸前な俺。
「……暑い、帰りたい」
「幸兄、何か言った?」
こ、殺し屋の眼をしていらっしゃる。
実物を見たことないけど、きっとこんな眼に間違いない。
「これ通りに組み立ててくれれば良いから、よろしくね」
そういって手渡されたのは一冊のファイル。
そして目の前に置いてあるのはたくさんの鉄パイプっぽい資材とか。
とりあえずファイルをめくってみると、どうやら設計図のようだ。
櫓っていうのかな、こういうの。
祭りの当日にはこれに乗って太鼓叩いてる人がいるけど、組み立てる前を見たのは初めてだ。
「……って、これ俺一人でやるの!?」
さすがにこれはムリなのでは。
「大丈夫、幸兄ならできるよ」
そう言って意地の悪い笑みを浮かべる。
いや、完成図によると五メートルくらいの高さになるんですが、コレ。
「イジメ、カッコワルイ」
「冗談だってば。他がすんだら手伝いに来るから、それまではなんとか頑張って」
今度は少し優しげな笑顔。
普段からそういう顔してくれると、俺も安心なんだけどなぁ。
それはそうと、二人でもこれは難しいんじゃないか。
まあそれは優輝もわかってるだろうし、他に手伝いを引っ張ってきてくれるか。
「それじゃあ、また後でね」
「へーい」
広場の端っこにあるテントへと歩いていく優輝を見送る。
そのテントの下には優輝の両親、うちの両親、知らない人二人。
なにやら打ち合わせをしているような雰囲気だが、何を喋っているかは全く聞こえない。
「さて、こっちも仕事しますか」
太陽が肌を焦がそうと、躍起になって光を放出してる。
時刻は一時過ぎ、確かこの時間から二時までが一日で一番暑かったような気がする。
そんな猛暑のなか、ファイルをめくって手順を確認。
地面に置いてある資材と見比べると、きちんと設置しやすいように並べてあることがわかる。
この微妙な気づかいは優輝だな。小癪な真似を。
「んじゃ、まずはこれかな?」
最初は土台から。
頭脳派肉体系アイドルを目指す俺にかかれば、このくらい楽勝さ。
……意味わからん。いつからアイドル目指すようになったんだ、俺は。
暑さのせいだ。きっとそうに違いない。
二時間経過。
「どう? はかどってる?」
「……見てのとおりだよ」
全工程の半分が終了。
ちょっと張り切りすぎたので、今はテントの下で休憩中だ。
冷たい麦茶が泣きそうなほど美味い。
「あー、頑張ったみたいだね」
途中まで組みあがった櫓を、優輝が眺める。
「お前は今まで何やってたんだ?」
ついさっきまで姿を見かけなかった気がする。
「私? 私は掲示板にコレ張ってたよ」
そのチラシは、祭りの日程などが書かれたものだった。
「あちこちから人が来るからね。お父さんと車で隣町のほうまで回ってきて疲れたよ」
ああ、あのクーラーのぶっ壊れたオンボロトラックか。確かにあれで走り回るのは消耗しそうだな。
隣町っていっても、トンネル抜けて山の向こう側だし。
まぁ、他に車なんてないからかなりスピード出せるし、その分早く移動できるのが幸いだな。
「お父さんなんか、ほら」
あ、死んでる。
「さて、そろそろ作業の続きしよっか」
優輝が立ち上がった。
俺も麦茶を飲み干し、それに続く。
櫓はすでに2メートル近く、そばで見るとなかなか壮観だ。
「おー、すごいすごい」
改めて優輝が感嘆の声を上げる。
まだ途中だけど、頑張ったかいがあるな。
「次はどこだったかな」
ファイルをめくり、目的のページへ。
ふむ、ここからは脚立を使っての作業になるな。
「はい、脚立」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「作業の手順くらいわかるよ。毎年やってるんだから」
なるほど。
準備もきっちりやってあったし、そういうところは抜かりないな。
「というわけで、上はよろしくね」
「はいよ」
二人がかりなので、さっきまでよりは効率も良くなる。
実際に作業するのは俺一人だが、優輝の指示のおかげでいちいちファイルを確認する手間が省けるのだ。
「ネジ回し取ってくれ」
「はい、ドライバー」
「次、ナット締めるやつ」
「スパナね、どうぞ」
……微妙にバカにされてる気がするのは何でだろう?
そんな俺の思いもよそに、組立は続く。
日も少しずつ傾いてきて、始めたときの異常な暑さはだいぶ和らいできた。
「これでよし、と。次はこっちか」
ところで、他に手伝いはいないのか?
このペースだと、日が暮れるかどうかギリギリだ。
別に用事があるわけじゃないけどね。
「ん? どうかした?」
不思議そうに俺を見上げる優輝。
「いや、手伝ってくれる人は他にはいないかなー、と」
「ああ、帰っちゃった」
なんですと!?
あたりを見渡すと、たしかに人の気配は皆無。
十分くらい前まではまだ結構いたはずなのに。
「花火の準備も終わったし、することないからって」
だったら尚更手伝ってほしい。
田舎ならではの人情とか、そういうのはこの町にはないんか。
「ほらほら。ボヤいてないで、手を動かす」
下から優輝に急かされる。
うぅ、何でコイツはこんなに元気なんだ。
さらに2時間くらい経った。優輝に聞いたところ、もうすぐ5時らしい。
夕方と言えそうな時間だが、まだ太陽からの必殺光線は十分に強力。
暑ければ当然、汗をかく。
何もしてなくても暑いのに、肉体労働なんかしてたら全身汗まみれだ。
つまり、俺のTシャツはすでに服ではなく、拘束具へと変貌を遂げてしまっているという状況なのだ。
「いくらなんでも邪魔だな、こりゃ」
腕やら背中やらに張り付いて、作業がしづらいったらありゃしない。
「あれ? どうしたの」
脚立を降りた俺に、優輝が問いかけてくる。
「絞る」
訳がわからずこちらの様子を見ている優輝をよそに、シャツを一息に脱いだ。
「えっ?」
そのまま思い切り絞ると、ペットボトル一本分以上の汗が地面へと吸い込まれていった。
ここまで出ると逆に楽しくなってくる。
「こ……の……」
ある程度全体を絞ったら、今度は端っこから少しずつ絞り直す。
「よし、これで少しは違うだろ」
シワだらけになったシャツを着直すと、さっきよりはマシに動けるようになった。
「せっかくだし、こっちもやるか」
ベルトをはずし、チャックを下ろしたところで、
「このヘンタイがぁ!」
「ごふぁっ!?」
思い切り背中を蹴りつけられた。
素で2メートル近く吹っ飛ばされる俺。
なぜか目の前が急に真っ白に染まりだす。
……あ、5年前に死んだおばあちゃんだぁ。元気だった?
って、これはヤバイよ!?
「女の子の前で何考えてるの!」
危うく何も考えられなくなるところだった。
子供の頃、車に引かれたときのほうが、今のより痛くなかった気がする。
「ちょっ、……これ、は、死ぬって」
なんとか呼吸再開。
優輝は真っ赤な顔をして、息を荒げていた。
「そういうのってセクハラなんだからね! 次は容赦しないから!」
じゃあ次は死ぬな。間違いなく。
と言っても、別にわざとやったわけじゃないのに。
「まったく……でも、思ったより………」
何やらぶつくさ呟いている優輝。
どうやらショックが大きすぎたのか。耳の先まで真っ赤になっちゃってる。
俺が悪いわけじゃないけど、このままってのもよくないな。
「優輝、さっきは―――」
「は、はいっ!?」
見事に声が裏返ってた。
なんでか緊張してるみたいで、全身がガチガチになってる。
「……?」
結局しばらくの間、優輝はあたふたと慌ててたり、何かを呟いていたりと、気色悪いくらいに普段と違う状態が続いた。
−3−
日没寸前。
なんとか優輝も落ち着き、ギリギリのところで作業終了。
太陽はすでに半分山に隠れていて、空が赤から藍に移り変わっていく。
使った道具は倉庫に片付けた。なんでか知らないけど、資材が少し余っていたのがすごく気になる。
「毎年あれは余るから、気にしないでいいよ」
というのは優輝の言。使わないなら捨てればいいのに。
何はともあれ、仕事はなんとか片付いた。
改めて櫓を下から見てみると、自分のやったことの凄さに感心してしまう。
「やっと終わったね。疲れた?」
「フルマラソン完走したときくらいに疲れた」
「やったことないくせに」
くそう、昔は何でも信じる素直な娘っ子だったのに。
やっぱりアレか、俺=うそつきの方程式が出来上がってるのか。
嘘じゃないって、何度も言ったんだけどなぁ。
まあ、いまだに証明できてない俺にも原因はあるんだろうけど。
微妙に落ち込んだのもつかの間。ハラの虫が盛大に唸りをあげる。
「……まあいいか。さっさと帰ってメシにしよう」
過去のことより未来に生きよう。ポジティブシンキングだ。
腹時計は七時ちょっと前を示している。
こいつは誤差±二分という優れもの。弱点は食事前にしか機能しないというところだ。
「そだね。帰ろっか」
優輝が俺の横に並ぶ。
家同士が近所なので、帰る方向は当然同じ。
「明日、幸兄もお祭りに来るよね?」
「そりゃな。俺もボランティアしに帰ってきたわけじゃないし」
「それじゃ、今年は一緒に行けるね」
「あー……」
そういえば優輝と一緒に祭りなんて、何年ぶりだろう。
東京に行ってからは一度もないし、最後に行ったのは前年か?
―――違うか。もう一年、前だったな。
せっかくの機会だし、今年は付き合ってやるとするか。
俺が考え事をしてると、優輝は違う話題をふってきた。
「久しぶりだね、こういうの」
「何が?」
「こうして二人で家に帰るのがってこと」
「ああ、そういえばそうだな」
ふと昔を思い出す。
俺が東京に引越しになるまでは、夏休みは辺りが真っ暗になるまで遊んでた。
当然、遅くなりすぎたときはこっぴどく怒られたが、それでも毎日が楽しかった。
「子どもって、便利だよなぁ」
「何か言った?」
「ただの独り言だよ」
優輝から視線をはずし、辺りを見渡す。
近くには畑、遠くには山。その間には民家がちらほら。
いわゆる典型的な田舎町。何もない、何も変わらない場所。
それでも、つまらないだなんて思いもしなかった。
原因は……認めるのは癪だけど、やっぱこいつだよなぁ。
こっそりと隣を歩く少女を横目で見る。
昔はずっと近くにいたが、今では年に2,3度くらいしか会わなくなった俺の従妹。
なんとなく、もったいないような気がした。
−4−
「――――やばっ!」
飛び起きて壁のハト時計を確認する。
現在六時二十五分。外は日が傾いて、空が赤く染まりだしている。
優輝との待ち合わせまで、あと五分しかない。
すでに遅刻は確定。あとはどれだけ待たせずに済むかが重要な課題だ。
また蹴られるのはさすがに勘弁。
幸い寝ぐせはついてない。寝汗まみれのシャツだけ取り替えて、さっさと家を飛び出した。
昨日の櫓組み立てのせいで、全身が筋肉痛で動かしづらい。
けど約束に遅れると、余計痛い思いをすることは間違いない。
そんなわけで、できる範囲で全力疾走。
「うぅ、身体中が痛い……」
嘆いても痛みが引くわけじゃない。でも思わず口にしてしまうのは何でなんだろう。
町の中心を走る、比較的大きな道路まで来ると、かなりの人を見かけるようになった。
そのほとんどは浴衣姿。ついでに言えば若い人は大抵がカップルだったりする。
この町の夏祭りがここ周辺では一番大きいし、その後で花火の打ち上げもあるので、あちこちから人が集まってくるというのは叔父さんの言。
その言葉通り、普段では絶対に見られないくらいに通りは人と車でにぎわっていた。
道路を何台もの車が走ってるなんて、この町だと奇跡と呼んでもおかしくないくらいだな。
一般車両に混じって救急車まであるってことは、誰かがケンカでもしたのかな。
「ま、これも夏祭りの定番だな。混雑してりゃそういう輩もいるか」
それにしても、これだけ人が多いと、広場についても優輝を探すのに時間食いそうだ。
まあ、遅刻をごまかす良い口実が出来たな。
ペースを落とし、人の波に流されるように歩き出す。
そのままのんびりと、広場に向けて歩いていった。
「……いないし」
結局広場に着いたのは、約束した時間の十分後だった。
さっそく優輝の姿を探すけど、どこにも見当たらない。
こんなとき相手の背が低いと不便だな。全然見つからないわ。
「さて、どうしたもんか」
とりあえず待ち合わせ場所で待ってみる。といっても広場の入り口の近くなので、人通りが多くて人探しには向かないポジションだ。
優輝も現地人なんだから、もう少し便利な所を指定してくれればいいのに。
とりあえずその場で十分、近くをざっと見回ってもう十分。
結局七時になっても、優輝と合流できず。
大分暗くなってきたし、叔父さんたちのところにでも行ってみるか。たしか中央のテントにいるって言ってたし。
ひょっとしたら優輝もそこに居るかも。
建設的な意見に基づき、さっそく移動開始。
人間の群れの中に果敢にも突撃。そのまま目的地へと一直線に突き進む。
行く手をさえぎる人を掻き分け蹴散らし押しのけて、やっとの思いでテントに到着。
「ちわーっす」
「おや、幸彦くん。優輝とは一緒じゃないのかい?」
テントにいた叔父さんに声をかける。
「実は、なかなか見つからなくって……」
とりあえずここに来た事情をざっと説明する。
叔父さんが言うには、どうやら優輝はここには来てないらしい。
まったく、年頃の娘なら携帯電話くらい持ってて欲しいもんだ。
「そうだ。優輝ちゃん、呼び出してあげよっか」
叔父さんと一緒にテントにいた、大学生くらいの男の人がそう提案した。
確か名前は葉山さんだったかな。昨日もちらっと見かけた気がする。
葉山さんの手には、広場のスピーカーに繋がっているマイクが握られていた。
「そうっすね、お願いします」
「ラッキー。一度これやってみたかったんだ」
玩具を買ってもらった子どもみたいに楽しそうな顔で、マイクのスイッチを入れる葉山さん。
こうして見てると俺より年上には全然見えない。でっかい子どもみたいだ。
『え〜、迷子のお呼び出しを申し上げま〜す』
間延びした声がスピーカーから響く。
っていうか迷子って、ひょっとして俺のこと?
『二宮優輝さ〜ん。幸彦くんが本部テントにておまちしておりま〜す。早く迎えに着てあげてくださいね〜』
…………マジかよ。
「ふぃー。なかなか楽しかった」
「ソウデスカ」
「良い経験をさせてもらったよ。ありがとね」
葉山さんは見るからに満足そう。
こっちをチラチラ見ながら、笑いをこらえきれない顔をしているオバサンが数人、前を通り過ぎていった。
失敗した気分で心はブルーだけど、呼び出しをしてしまった以上、ここから離れるわけにも行かないな。
「仕方ない、待つしかないか」
近くにあったパイプ椅子にどっかりと腰を下ろす。
そして待つ。
じっと待つ。
ひたすら待つ。
「…………来ない」
いつまで経っても来る気配がない。
優輝の性格なら、あんな放送されたら呆れながらもすぐ来るはずなのに。
ここまでくると新手のイジメか疑わしくなってくる。
もう一人で行っちまおうかな。
「おっ?」
立ち上がった矢先に、ポケットの携帯電話が震えだした。
相手は――――親父か、何の用だろ。
通話ボタンを押して耳に当てると、親父はある場所の名を告げ、すぐ来いとだけ言った。
−5−
戻ってきた頃には、すでに人気は全くなくなっていた。
一応祭りは明日まで続くから、屋台はそのまま。
ただ、人がいない分余計に寂しい感じがする。
「俺が貸し切ったみたいだ。店の人もいないけど」
呟く声が、静まり返った広場に響く。
日付はもうすぐ変わる頃合、花火はその名残すら残していない。
「今年も見逃しちまったな」
ガイドブックにも紹介されたみたいだし、今回は堪能しようと思ったのに。
「まったく、お前のせいだぞ優輝」
ここにはいない従妹に文句を言いながら、空を見た。
いつ見ても、ここの星空はすごい。
視界をさえぎるものが一切ない夜空には、数え切れないほどの星が浮かんでる。
「天国ってのは、どこにあるもんかね」
目を凝らしてみても、そこにあるのは小さな輝きだけ。
星ならいくらでも見えるけど、それ以外のものは全く見えない。
「この町で、交通事故だなんてな。全然笑えないぞ」
昨日まで元気だった、今はいなくなった少女の顔を思い浮かべる。
俺の家と広場のちょうど中間の辺りで、優輝は車に轢かれたらしい。
犯人はそのまま逃げ出して、捕まったのはついさっきだと連絡が入った。
人通りがほとんどない道だというのが災いした。
車は必要以上にスピードを出していて、さらに倒れた優輝は発見が遅れた。
「……俺の、せいか」
俺が遅れたりしなければ、わざわざアイツが呼びに来ることはなかったはずだ。
そうすれば事故にも遭わなかったし、――――死ぬこともなかった。
優輝のためになるようなこと、何一つ出来ないまま、もう会うことができなくなった。
「優輝…………」
空に散らばった星粒が、ぼやけてよく見えなくなっていった。
「到着、と」
広場のすぐそばに流れる川。
それを少し上流に歩いたところで、足を止めた。
最後に見たのは引越しの一ヶ月くらい前だったかな。まだ夏休みに入ってなかったはずだから。
俺がたまたま見つけたのが一番初め。
でも、その後で二人できたときは、見つけられなかった。
こっちに戻ってくるたびに見にきたけど、毎年空振り続き。
「嘘じゃないんだけどな」
息を潜め、そのときをじっと待つ。
考えてみれば、今日は待ってばっかりだな。
静かな夜、時間が止まったかのように動くもののない世界。
その時、草むらのなかに光るものがあった。
「――――いた」
その光は次々と数を増やし、やがて数十もの明かりとなった。
正式な名前は知らないけど、種類の名前なら知っている。
「蛍がいるなんて、ガイドブックにも載ってなかったな」
小さな虫たちが、ぼんやりと光を放ちながら空を飛ぶ。
それは人を包み込み癒すような、優しい輝き。
一番見せたかった人に、一度も見せられなかった俺の宝物。
「…………」
また目の前がぼやけてきた。
俺は、今日の事をずっと忘れないだろう。
十年経っても、二十年経っても、たとえ死ぬ間際になったって、絶対に忘れない。
懐かしく思うことも、振り返り嘆くこともしないで、ただこの事実を、いつまでも変わらない姿のままで胸の内に留める。
それが、俺に出来る唯一のことだと思うから。
蛍の光も、星の光も、輪郭を失くしておぼろげに揺れている。
この瞬間だけの儚い灯りは、まるで闇に舞う雪のように、ただひたすらに美しく、悲しかった。
[終]