「夜十二月」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



−4−

 二階へ上がり、部屋の明かりを付ける。何度か蛍光灯がまたたき、すぐに部屋が明るくなる。
 カバンを机に置き、大きく息を吐きだした。真白い水蒸気がふわりと浮かび、部屋の空気に溶けていく。
「ああ、疲れた。まったく、とんでもない一日だった」
 はっきりと自覚できるほど、声は震えていた。心臓はいまだに早鐘を打ち、先ほどの緊張が続いていることを知らせてる。
 それもこれも、ほんの十分前の出来事のせいだった。いきなり変質者に襲われて、落ち着いていられるほうがどうかしている。
「こんな日は本当に、一人じゃなくって良かったと思うよ」
 奮発して買ったダブルサイズのベッドに腰を下ろした。適度にきいたスプリングが、高宮の体を押し返す。
 かたわらの最愛の女性に口付けをした。そのまま抱き締めてしまいたいが、彼には先にするべきことがあった。
 目を閉じて自分を襲った男の顔を思い浮かべた。最後に一瞬だけ覗いた男の顔。
 一度だけ、見たことがある顔だった。葉山には言わなかったが、それが誰かを高宮は知っていた。
 手の震えはまだ止まらない。自分の小心さの証明に、高宮は笑うしかなかった。
 何度か手を開閉し、そして強く握り締める。怖いからといって、逃げるわけにもいかないだろう。なにせ相手は間違いなく自分を狙っているのだから。
 一度決心してからの彼の行動は早かった。必要なものだけをコートのポケットに詰め込む。
「ちょっと出かけてくるね。すぐ帰るよ」

 目的地は車で二十分程度の距離にあった。
 通勤では使えないため休日にしか乗らない愛車を路上に止め、高宮はマンションを見上げた。
 ワンルームの部屋が中心の三階建て。さほど大きな建物ではない。
 その中の二階の二号室が高宮の目的の部屋だった。
 そこは藤沢千鶴の借りている部屋だった。つい先週まで彼女はこの部屋で生活をしていたため、まだ荷物も残っており解約もしていない。
 ポケットから合鍵を取り出し、鍵穴に差しこみ、まわす。
 当たり前に扉を開け、高宮は中へと入った。
 部屋の中は足の踏み場もないほどに散らかっていた。視線を下ろしてみると、自分が千鶴に送った手紙の封筒があった。なるほど、携帯の番号はここから漏れたのか。個人情報はきちんと管理しないといけないな。
 先ほど高宮を襲った男は部屋の中、ベッドの上で横になっていた。黒のジャンパーと帽子は壁にかけられており、手には一枚の紙片。おそらくは、千鶴の写真だろう。
「やっぱり君か」
 突然入ってきた高宮に心底おどろき、男ははじかれたように飛び上がる。
「て、てめぇ! なにしてやがる!」
 浴びせられかけた怒声に悲鳴を上げそうになる。なんとか堪えられたのは相手の正体を知っているという、かすかな余裕のおかげだった。
「確か……沢田くん、だっけ」
 あまりはっきりとは覚えていないが、おそらくはそんな名前だったはず。多少間違えていたとしても、高宮にとってはどうでもいい問題だが。
「てめぇ、千鶴をどこにやった。答えろ!」
 ポケットから折りたたみのナイフを取り出し、その切っ先を高宮に向けた。おそらく返答しだいではその道具を行使するつもりだろう。
 高宮は伝えたいことだけを口にした。
「彼女につきまとうのは、もうやめてくれないかな」
「千鶴は俺の女だ。てめぇが消えろ」
 まったく会話がかみ合わない。お互いに譲歩する気はなく、理解する気もない。
 よく見ればナイフを握る男の手が震えていた。自分以上に相手もこの異常事態に戸惑っているようだ。
 その小さな発見に、少しだけ平静を取り戻した。
 落ち着いたといっても、足が震えていることを自覚することができるという程度のものだった。気を抜けばすぐさま腰を抜かしそうなことには変わりない。
 寒さではない理由で震える男が二人。さきに張りつめた緊張感に耐えられなくなったのは男のほうだった。
「うぃああぁぁぁぁ!」
 まっすぐ心臓を狙って突き出されるナイフ。それに合わせて、高宮は男に飛びついた。
 恐怖によるとっさの行動。それが二人の命運を分けることになった。
 もしも高宮が引きさがっていたら、彼の胸にはナイフが突きたてられていただろう。あえて前にでたことで、ナイフはコートを切り裂いて軌道を変え、男は間抜けにも腕を突き出した状態で固まってしまった。
 男の目が一つの感情で満たされていた。
「ごめん。わるくおもうな」
 ポケットから取り出したのはスタンガン。それを男の首に押し当てた。


−5−

「あら、高宮さん。今お帰り?」
 会議のせいで遅くなった帰り道、駅前で広瀬夫人とはち合わせた。いつも朝に見かける格好とは違い、今日はずいぶんと着飾っている。
「こんばんは。珍しいですね、こんなところで」
「ええ。今日は主人と食事を……」
 夫人の後ろで、小柄な男性が頭を下げていた。同じように、高宮も会釈を返す。
「ああ、そうそう」
 嫌な予感がした。この話の切り出し方は、嫌でも慣れてしまった無駄話のものだ。
 広瀬主人と目が合って、思わず肩をすくめた。どうやら、このご主人も自分の妻の話好きには辟易してるらしい。
「この間の火事なんですけどねどうやら自殺だって噂があるんですよ」
 まるで早口言葉だ。なんてどうでもいい感想が浮かんだ。
「寝タバコだって説もあったけど、同棲中の恋人が行方不明でノイローゼ気味だとかで――」
「はあ……」
 一体誰がそんな妄想を広めたんだろう。本当は…………まあいいか。別に僕が困るわけじゃない。
 ぼんやりしてたのを違う意味に受け取ったのか、広瀬のご主人が妻を止めに入った。
「おい、お前。高宮さんが困っているだろう」
 話を切り上げるよう促すと、もう一度頭を下げて駅へと歩いていった。広瀬夫人も、あら、ごめんなさいねと話を終わらせて夫の後を追いかけていった。
 駅に消えた二人を見送り、ふと思い出した。今日は十二月二十五日。
「そっか、今日はクリスマスだっけ」
 どうりで愛妻家の先輩は大急ぎで帰宅したわけだ。
 そのことに気づいた途端、自分も早く家に帰りたくなった。忘れていたとは言えせっかくの日だ。彼女といる時間を少しでも増やしたい。
 家に付くころには、少し息があがっていた。運動不足もあるが、途中で買ったケーキとワインの重量も、疲労を溜める一因になっている。
 まっすぐに二階の彼女の部屋へ。小さなテーブルの上に買ってきた物を並べる。ケーキは少し形が崩れていたが、この際気にしないことにした。
 二人きりのクリスマス。その準備はあっという間に終わった。ワインの入ったグラスを掲げるように持ち上げる。
「メリークリスマス」
 白い息とともに、聖夜を祝う言葉を吐き出した。最大出力の冷房の音が、その声をかき消した。
「ああ、そうそう。いい話が一つあるんだ」
 テストで満点を取った子どものような顔で、高宮は言った。
「君のことを狙ってた、あの彼氏気取りの男。自殺ってことになりそうだよ。まったく、僕たちの間に割り込もうなんてしなければ、死なずに済んだのにね」
 彼女のつややかな髪に、そっと手を伸ばす。軽く触れただけなのに、数本まとめて抜けてしまった。高宮は悲しそうな目でそれを眺め、打ち消すように笑顔になった。
「頭皮が腐り始めちゃった。でも、大丈夫だよ。僕はそれでも君を愛しているから。絶対に、離さないからね」
 最愛の女性を前に、彼は笑った。




―了―


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