「或る在り方」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



 きっかけは、一人の女生徒の自殺未遂だった。
 手首を切ったというその女生徒は、幸い命に別状もなく翌日には学校に来れるほどだった。もっとも、幸いというのは本人以外にとっては、という意味なのだが。
 私の身近なところで言えば、校長と女生徒の担任の二人が最たるものだ。
 二人はそれぞれ違う意味で安堵していた。校長は自分の学校から自殺者を出さずに済みマスコミに騒がれずに済んだこと。担任は自身のクラス内の監督責任を問われずに済んだ。
 この件については職員でも一部のものしか知らないため、彼らが黙ってさえいればこの担任はこれからも変わらず職務を続けられるだろう。必死になって口止めをしていたのは、つまり保身のためでしかないのだ。
 そんな本音が見え見えなのに、「若い命が失われずに済んでよかった」などと言うものだから、もはや茶番だ。
 そして今日、女生徒の母親に会うことになった。四十代後半と聞いていたが、実際目にしてみると十歳は若く見えた。装飾品も過多と言えるほどに身につけて、良くも悪くもこの女性を目立たせている。
 こうして会うのは本来なら担任の仕事なのだろうが、残念ながら季節はずれの風邪とやらを引いてしまったらしく、生活指導を担当する私にその役目が回ってきたのだ。
 生活指導室の椅子に腰を下ろすなり、その母親は開口一番こんなことを言い出した。
「生徒たちには知られないように。この件については一切公開しないでください」
 誰だって自殺したことを人に知られたくはないだろう。それがまだ若い高校生であるならより一層その気持ちは強いはずだ。
 だから私は『もちろんです』と、快諾した。いや、しようとした。それができなかったのは、母親が続けて言った言葉のせいだ。
「そんなことで、夫の政治活動に傷でもついたらたまりませんから」
 返す言葉もなかった。
 聞けば、女生徒の父親は今度市長選挙に立候補するらしく、今は些細なスキャンダルも致命傷になりかねないという。だから自殺未遂が校外に漏れないようにと、何度も念を押された。
 私がそれを承諾すると、礼も手短に母親は帰って言った。
 生徒指導室の扉が閉められ一人になった瞬間、肺の奥にたまった空気をすべて吐き出した。
 ああいう手合いはどうにも苦手だ。人間社会の一員として、歯車の一部として完璧すぎる。なりたくて、なれなくて、なるのをやめた生き方を否が応でも思い出す。
 それに、あの母親は私に余計なことまで気づかせていった。
 彼女は、自分の娘が生きていたことに安心したわけでない。そのことが周囲に広まらなかったことを喜んだのだ。隠し通せるのならば、きっと娘が死んでいても構わなかったのかもしれない雰囲気があった。
 だれも、女生徒が助かったことを喜んでいない。
「まったく、不憫だな……」
 窓の外には、もう夕方の気配が漂いだしている。
スズメが一匹、四角い空を横切っていった。

 家に帰ってくると、いつもやりきれない気分になる。
 この小さな人間小屋ですることと言ったら、夕食を食べ、汗を流し、眠り、そして翌朝に再び学校へ行くことだけだ。そして学校で授業をし、また帰ってくる。
 私という人間は、そのリズムを刻み続けるメトロノームにすぎないのだ。その過程で見たくないものばかり見せ付けられているというのに、私は止まる事すらできずにいる。
 そんな人間はもはや生物ではない。ただの機械人形だ。
 ベッドに入ると、今日あったことが脳裏に浮かんでくる。
 朝から順に辿っていき、そして一つの結論が出た。
 人間は醜い。
 ヒトという本質も、その本質を覆い隠そうとする行為も、自分は関係ないと言わんばかりに傍観しようとする私自身も。
 それでも、私は明日も学校へ行く。
 せめて、夢の中だけでも幸福であることを祈ろう。

 翌日、今度はその女生徒と顔を合わせることになった。
 時刻は放課後、場所は進路指導室。昨日と同じ構図で向かい合って座っている。
 女生徒の名前は鈴原皐月といった。授業を受け持ったことはなかったので、今日まで顔は知らなかったが、なかなかに整った顔立ちをしている。
「それでは聞こうか。なぜ、あんなことをしたんだい?」
 実のところ、私はこの質問をすることに気乗りしていなかった。
 理由を知っておけば再発を防止できるというのが校長の考えであったが、私はただの生徒指導の仕事も兼ね備えた倫理の教師でしかない。出来ることなんてたかが知れているのだ。その範疇を越えた理由であったとしたら、そんなもの初めから聞かなかったほうが幾分楽だろうか。
 そんな思惑も、この学校で教師として働いている以上は意味を成さない。給料を貰っているのならばそれ相応の仕事はやらなければならない。
 残念ながら、私情を挟んで義務を捻じ曲げるほど、私は無責任でも豪放でもない。
 鈴原は私の質問に答えなかった。仕方ないのでもう一度繰り返そうとしたとき、初めて口を開いた。
「生きていたいからです」
 か細い声だったが、発したその内容は異質だった。
「生きていたいとは?」
「言葉通りの意味です。私は生きていたい。死ぬのも、生きていないのも嫌なんです」
 最初は冗談を言っているのだと思った。もし、この少女の目が少しでも笑いを帯びていたのなら、間違いなく私も噴き出していただろう。
 だが、鈴原という少女はどこまでも本気だった。
「先生は今、ちゃんと生きていますか?」
 鈴原の目が私を捕らえる。比喩ではなく、本当にその瞳の中に囚われてしまうのではないかと錯覚してしまいそうに、深い眼光だった。
 そして知った。この目の前の人間は私の知識の中に存在しない、私の持つ常識では縛れないのだと。
「私は、自分が生きているのかわからないんです」
 理解できないというのは、ここまで恐ろしいものだったのか。私がこの五年間教えてきた倫理観など、この少女相手には意味を成さない。
「でもそれを知る方法があったんです。近づけばいいんです。死に近づいている間は、間違いなく私が生きているという証明になる。0にならないかぎり、数字は減り続けることができるんです」
 鈴原は、一体何を考えているのか。
 誰もが当たり前に甘受している日々にすら疑問をもち、その存在を試そうとする者など他にはいない。
 それゆえだろうか。畏怖と共に、憧憬にも似た感情をこの少女に抱いてしまうのは。関わり合いになりたくないくせに、その思考を共感したいと思っている。
 ただ純粋に、知りたいと思っている。
「私は生きていたい。……先生は、生きていますか?」
 言葉を失った私に一礼すると、鈴原は生徒指導室を去っていった。
 残された私は、ただそれを見送るだけだった。

 夕日が半分沈む頃、私は帰宅準備を済ませ、自宅へと向かった。
 校門を抜ける直前、その脇に小さな木が立っていることに気づいた。小さいといっても、私の背よりは少し高く、二メートルくらいはある木だ。
 私がまだこの高校に生徒として通っていた頃、園芸部の活動の一環として植えた木だ。名前は忘れてしまったが、結構値が張ったらしいというのは覚えている。
 あれから十年近く、この木はここに立っていた。
 その間、この木は何を思っていたのだろうか。たくさんの生徒を迎え、送り出し、生活を見続けてきたこの木は。
 何も変わらず、誰とも関わらず。もし自分がそんな存在になれていたら、どんなだったろうか。
「……バカか、私は」
 木に感情はない。あったとしても、人間に理解できるはずがないではないか。
 中途半端な生き方をしていたとしても、私は人間なんだ。
 たとえ、期待されていた道を歩めず、望んだ道も歩めず、ただ漫然と生きているだけだったとしても。
 生きていることが、作業に成り下がったとしても。

 一週間後、鈴原が死んだ。
 原因は飛び降り自殺。どこかのビルの屋上から身を投げたらしい
 学校内は再びパニックになり、例の母親とも再会する羽目になった。
 そうだろうとは思っていたが、案の定、だれも鈴原の死を悲しんではいなかった。なにせ私ですら、その報せを聞いたときは彼女らしいと笑ってしまったくらいなのだから。
 たった一回、それも数分の会話でしかなかったというのに、彼女らしいという評価をするのも滑稽な話だが、その数分間で知った『鈴原皐月』という人間は、そうすることがふさわしいと思える人だった。
 遺書は見つからなかったという。当然のことだ。彼女は死にたかったわけじゃない。死のうと思っていない人間が、そんなものを書き遺すはずがないのだから。
 鈴原の死は、一週間も経つころには誰も触れなくなった。同じクラスの生徒たちも、噂話すらしないと、担任の教師から聞いた。
 誰からも理解されなかった少女は、死の間際に何を思ったのか。
 ふと生まれた疑問は、答えのないまま消えていった。
 私だって、彼女のことは何一つ理解していなかったのだ。

 大きなカラスが、頭上を飛んでいった。
 子供のころ、空を翔る鳥に憧れたことを思い出す。高く遠く、自由に気ままに飛べる鳥になれたら一体どんな気分なのか、何度も思いを馳せていた。
 やはり答えは出てこない。最近は答えを持っていないくせに、自問自答ばかり繰り返している。初めから理解なんてできないと分かっているくせに。
 私は屋上に来ている。
 冬が近いこの時期、昼休みとはいえここで昼食を取ろうとする生徒はいない。だから、ここはひどく静かで、独りだった。
 一人になるのは昔から好きだった。
 人と合わせることも、気を使うこともない。いいところを見せようとしなくてもいいし、嫌なところを見なくてもいい。
 唯一の欠点は、自分というものが希薄になってしまうことだ。他に誰もいないのであれば、私は『私』である理由すらなくなってしまう。この社会の中で、いてもいなくてもいい。生きているかどうかすら分からない存在になるのだ。
 屋上のフェンスを乗り越え、端に立ってみた。
「私は……生きているのか?」
 風に背中を押されたのか、それとも自分の意思か。
「あ――――」
 地面に衝突するまでのわずか数秒。私はやっと『それ』に気づいた。
 理解なんてする必要はなかったのだ。鳥も、木も、鈴原でさえも、同じことだった。
 どんなモノであったとしても答えは唯一。それだけで十分だし、それ以外は必要がない。

 ―――私は今、生きている。




[終]