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夜が白み初めて、静かに町が喧噪と共に動き出し始める。高架線を走る始発はついさっき見えたから、ここから通勤通学が徐々に増え始めるのだろう。
また新しい一日が始まるのかァ………。
ねぼけ眼のしょぼしょぼした目をしばたたかせながら、二十をいくらか越えたような少年はアパートの入り口の錆ついた階段に寄りかかりながら漠然とそう思う。
もうすぐ、朝飯を持って交代要員がやってくるはずだったが、到着を待つ前に寝てしまいそうな勢いだった。
ああ………空が青い。
………。
……。
…。
。
「っと、いけね」
慌てて意識を取り戻す。
こうなったのも、元はといえば人員が二手に分かれたことがそもそもの原因だ。
人員が二手に分かれたと言うことは、タイムスケジュールを占める一人の割合が二倍になったということで、しかもジャンケンの弱い人間は間違いなく厄介な所へと回される。
青年は自分の拳を見つめる。
………グーなんか、出さなきゃ良かった。
しみじみとそう思う。
でなければこんなところに真夜中から4時間勤務など有りえない。
いくら真冬ではないにしても、この季節の夜も人間が薄着でいるには危険だった。
ふと、かすむ視界の端が、影で揺れる。
「………」
コンビニの袋が、朝の風に揺れて耳障りな音を立てる。
青年はゆっくりと重くもたげる頭を持ち上げて立ち上がった。
「ご苦労サマ」
「ずいぶんと、長かった………」
青年の視線の先、また通学の時間にはいくらか早いのに制服に身を包んだ少女にそう返した。
「残念。私、交代要員じゃないから」
笑顔で告げられる残酷な事実に、今度こそ気が遠くなりそうな青年だった。
「うそ………」
「ホント」
少女は一度意地悪そうに彼に笑いかけると、袋を差し出した。
「はい。今日の差し入れ。どうせへばってるだろうから、って」
「……………」
青年は恨めしげな目を彼女に向けた。
少女は少年の目に対して、余裕そうに軽く眉根を寄せるだけだった。
「なぁに?」
「………ありがとさん」
少し声のトーンを荒げて、青年が袋を受け取った。
「どういたしまして」
ビニール袋と共に再び座り込んだ青年の隣に少女が腰かけた。
「…………でも、君がこうしてここにいるってことは、対象の男は今日は帰ってこなかったみたいだね」
「写真見た限りじゃそんなに夜遊びが得意そうな顔には見えなかったがな」
少女は男の顔を見やる。多少無愛想な顔に、さらに疲れが溜まっていてなんだか恐い。
………彼女さえいなければ、少しは気になったのかも知れないなぁ。
って、いけね。
彼女はぼんやりと心の底に浮かんだ思いを、打ち消した。
「そういう奴にかぎって意外とすごいんじゃない?」
「そーかぁ?んじゃお前、俺がすごいと思う?」
急にそう振られて、少女は目を丸くした。
「………すごいの?」
「…………」
「ねぇ、樋川秋子とはどうだったの?」
「………朝から妙な話に持っていくな」
男は視線をそらす。不機嫌そうだが、たぶん今のは照れだろうと勝手に推測する。
「えーっ、だって話振ったの千尋じゃーん」
「いい加減呼び捨てはやめろ、緒川」
「でも、しろっぴーとか呼んだら怒るくせに」
「当たり前だろ」
千尋と呼ばれた方の男が袋の中から中華まんを取り出す。
「あ、それ。中身なんでしょう?」
「あんまんだったらお前を殺してるところだな」
「えーっ、なんで?」
緒川の不満そうな声に、今度は千尋が眉根を寄せた。
「…………図星か?」
「違うけど。なんであんまんじゃ駄目なの?」
「飲みものがおしるこじゃなけりゃもう少し考慮はしたが」
「ああ。安かったの、おしるこ」
だが、飲みものにおしるこを選ぶ感性はどうか。
とりあえず、手にとってみる。
………違和感が脳に伝わる。
「おい、緒川」
「ん?」
つとめて明るく振舞うように、緒川が苦笑いをした。
「なんで、しるこが冷たいんだ」
「アイスだから」
返答が返ってくる前に、袋の中に叩き込んでいた。
「あ、ひでえ」
「お前の行為は徹夜明けの俺の体にひどくないのか」
もう空腹よりも眠気のほうが強かったが、とりあえず中華まんにかぶりつく。
豊潤な肉の味わいが冷えた体にしみ渡る。
「あ、答えより前に食った」
「いいじゃねえか、別に。んで、他には何を………」
その他、千尋がのぞき込んだコンビニ袋の中は、朝御飯とは言えないものばかりが詰め込まれていた。
プリン。
ゼリー。
………こしょう?
そしてビデオテープ。
「お前なぁ…………」
「へ?」
朝から脳天気な顔で、緒川は千尋を見上げる。
ピリリリリッ。
………聞き覚えの有る電子音。
普段千尋が持ち歩く携帯とは、違う音がした。
持っていたカバンの、奥のほうからもう一つの携帯を取り出す。
「誰から?」
「非通知」
短く緒川に言って、通話ボタンを押す。
「もし」
『あー、もしもし。そちら多分「利用された者」とかいう得体の知れない男の暗殺を依頼された団体の末端構成員の方だと思うんですが、間違いないですか?』
いきなり、早口でまくしたてられてナチュラルハイの千尋は頭の処理が混乱した。男だと思われるが、声が多少高いのがなんとなく普通の会話とは違和感を感じさせた。
少し間をおいて、ゆっくり返す。
「ああ、そうですが」
明らかに間抜けな返答だったが、今の千尋にとっては寝ること以外はどうでもいいことだった。
『間違いないですか?えーと、用件だけ手短に言っちゃいますね。その刺客の3人なんですが、これから指定する場所に「置いておきました」から、取りに来てください。こちらも忙しいんで、別にこんな雑魚さんドモをエサにしようとは思ってませんから』
「ッ!」
一気に、目が覚めた。
『ちなみに、遠藤耕二君を待ち伏せしているのなら無駄ですよ。僕が彼に連絡して家に行くのをやめさせますから』
「そばで聞いてりゃあ………なんなの、アンタっ!」
受話器の反対ごしに聞いていた緒川が、千尋の携帯を取り上げて叫んだ。
『僕ですか………僕は「利用する者」。津島産業さんに敵対する者です』
「………わざわざ宣戦布告、ってこと?」
『いいえ。この電話がつながる遙か前に、あなた達は負けています。おとなしくこの一件から、手を引いてください。さもないと、私の前に機密が漏洩しますよ』
「あいにくサマ、そんな脆くできちゃいないわよ」
『一応、忠告はしましたからね。とりあえず三人の居場所を言っておきますね』
しばらくやりとりが続いて、緒川は電話を切った。
「………お前俺の携帯を」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょ。とにかく、ここに遠藤が帰ってこないらしいわ。団長に聞いて、次の指示を仰いで。私はとりあえず罠でも三人の方を迎えに行かないと」
「随分殊勝な心がけだな」
「ただでさえ少数精鋭なんだから、仕事が三倍になったら、やってられないでしょ」
「………」
前言撤回。
携帯を渡された千尋は小さく頷いた。
「………分かった」
「それじゃ、頑張って」
「お前もな」
駆け出したまま、一度も振り返らずに緒川は消えた。
階段の手すりに頭をたてて、千尋は重い頭と同じ位の溜め息を吐いた。
「いったい、何がおこってんだか」
一介の組織末端構成員には知る由もないことであった。
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