クランベリープリンセス
著者:創作集団NoNames



        3

 ドアが閉まり、乗客が道路づたいにそれぞれの目的地へと消えて行く。エンジン音が少し足下で大きく震えたかと思うと、前時代的なローカルバスはゆっくりと動き出す。
 乗客は今の停留所で大半が降りてしまい、運転手以外で車内に残っているのは最後部にいる細身で長身の男と、それを慕うようについてくる少女だけとなった。
 バスがサガミ川の少し先にあるヒラツカであるだけに、男はもう少し客が乗っているかと思ったが、どうやらこの辺は鉄道がやたらめったら敷設されてしまったためにバスを利用する客があまりいないようだった。
 このバスのいい使い込まれ具合、もとい、ボロさが資金難のそれを物語っている。
 運転手はこのバスに乗る珍しい客に少し奇妙な違和感を覚えたが、最後部に陣取られてしまっては会話の内容なども聞くことができない。
「…………」
 それを見越して、改は恐怖心に打ち勝って、さっきから目を輝かせてそわそわしている少女の首を押さえた。
「あわっ」
 固定されて少女が奇声を上げる。
「少し静かにしてろ、ばれたらやばいんだろうが」
「でも、でもっ、やっぱりこれ………動いてますよっ」
 感動のあまり舌が回っていないミルに、改はどうしても魔女の威厳とやらをみることができない。なぜこんなのが弾圧対象として社会の敵に回ったのかが不明だ。
「当たり前だろう、バスなんだから」
 箱根までなら小田原まで幹線を使っていけば一時間掛からないが、切符などが前世代の遺物になった現在は改札に通るパスを使わないと通れない。しかしパスは自動的に通信を経てアクセスされ、履歴が残ってしまうためにまだ一日で警戒を解かれていなかった場合に八方塞がりになってしまう恐れがあった。バスならパスは使わないし、三十分や一時間も乗っていなければならない電車と違い、降りた瞬間どこへでも逃げられる。
 ただ、乗り換えが非常に不便でコスト面が痛いというデメリットも存在した。現にこの県中央のサガミ川付近へ来るまでに、既に四本から五本ものバスを乗り継いでいる。
 逆に言えば、そんだけ乗っているのに感動が薄れないミルに呆れたりもするのだが。
「あ、改さん、あれっ、あれなんですか?」
 窓の外から見えるポストを指さしてミルが叫ぶ。
「………ポスト。あそこに条件を満たした紙を入れると、望む相手の所にその紙が届くシステムだ。お前、人の話をちょっとは聞………」
「あ、あれは?なんか妙な半笑いのおじさんの人形みたいなの」
 古ぼけた民家の軒先に、どこか郷愁を感じさせる白髪おやじの等身大人形があった。
「っつーか、そのまんまだろ。あれはどっかの野球チームが優勝する度に川に投げ捨てられる伝統的なものだ。昔はもっと別の意味合いがあったらしいがな。最近調子が良いから、また投げるために天日干しでもしてんだろ」
「へぇ………」
 ミルはその人形が見えなくなるまで、物欲しそうに見つめていた。
「………欲しいのか、あれ?」
 意を決して、改はミルに尋ねた。
「えっ、あ、いや、そうじゃなくて………おじいちゃんに似てたな、って」
「おじいちゃん?」
「あの……えと……」
「ああ、仁か…でも、あれ似てるか?」
「違います。師匠、です」
 ミルはすこし苦笑いに近い笑みを浮かべた。
「なんだ、魔女って言うくらいだから婆さんだとおもった」
「男性は主に魔術師、とか魔道師と呼ばれることが多いそうなんですが、前の戦いの時に昔から統一されていた呼び名であった魔女、ということばで統一されたみたいです」
 自分の掌で文字を書いて、ミルは改の顔を見上げる。別に改の座高が高い、などというわけでもないのだが、ミルはついつい見上げる癖が出来てしまっていた。
「で、似てるのか、師匠に」
 改は渋面を作ってミルを見つめた。ミルは多少困惑気味に一度思考を巡らすと、頷いた。
「えっと………似てます」
「いやだな、それ」
「………そうですか?」
「いやだろ。あんな半笑いのジイさんなんて」
「いくらなんでも、いつも半笑いしてたわけじゃありませんよ」

『次は、街屋、街屋〜です』

 ローカル特有の放送案内が、がらんどうとした車内に響き渡る。別に降りる気などさらさらないので改は無視した。
「ミル」
「はい?」
 隣にいると言うのに少し大きめの瞳がこちらを見上げてくる。
「変なこと、聞いていいか?」
「…………内容によります」
 改の言う『変なこと』を頭に思い浮かべた後、ミルは眉根を寄せて言った。改は、それを聞いて少し改まると、一瞬だけ言うのをためらった後に口を開いた。
「魔女について、どこまで知っている?」
「……………」
 ミルは無言のまま、無表情のまま、改に視線を合わせないようにして瞳を伏せた。やはり触れられたくないし、いつかくるだろうと思っていた顔だった。
 しかし、この程度のことくらいなら改も承知はしていた。
「勝手に付いてきて聞くのはお門違いだとは思ってる。だが、いくら情報を集めていても、それよりももっと真実に近いのは、ミルだ。見習いとはいっても、現役の魔女が知らないはずがない。魔女の森に幽閉に近い格好で………」
「違います」
 ミルは多少強い口調で改を遮った。
 観念したように一度大きい息を吐いて、それこそ己がその事実から目を逸らさないように、瞳に強い光を宿す。
 バスが、止まり乗り口が開いた。
「幽閉、ではなく………己の力を見誤らぬよう、自らの意志で魔女は人気のないところへ姿を消しました。これ以上、人間が築き上げてきたものを壊さないように」
「…………」
「魔女とは、人間が住む内界と外界に存在する他の『意志がないようにみえる物』との意志を繋ぎ合わせる、いわゆる通訳です。動物や、植物、もっと小さい元素にも、それぞれの散発とした意志は存在します。その強大な意志との疎通を可能にし、一括りに自然は代弁者、魔女を介してその意志を人間に伝えるのです」
「いわゆる、魔女は自然が持つ意志を伝えてきた、ということか」
 ミルは頷いた。
「代々、それは自然側を代表する精霊達との契約によって成り立ちます。だから、普通の魔女にはそれぞれの精霊達と契約した、という紋章があるんです。通常、一人前が持ちうる契約の数は一つですから、体のどこか一つに模様のようなものがあるはずです」
「魔女の烙印って奴か」
 図書館の奥のほうにあったオカルト本に載っていた。
「………精霊と契約した者はその契約に準じた代価を一定期間支払い続けることによって、精霊を従えることができます。師匠の場合は大小四つの精霊との関係を持っていましたが、永遠に共有関係を維持する代わりに、左腕を一本無くしました」
「それなりの代価が必要になるわけだ」
 ミルの瞳が、途端に恐怖にひきつって大きくなった。
 視線の先、街屋からバスに乗り込んだ、黒い法衣の連中をみた瞬間。
 入ってきた二人は体つきが大小対照的だったが、どちらも黒の法衣に赤と銀の刺繍を袖と襟に織り込んでいる。
「ッ!」
 改は座席から立ち上がると、二人を牽制して足止めした。
 後ろを見やるが、ミルはどうみても普通じゃない怯え方を示している。
 となれば、考えうる事態は一つ。
 追手だ。
「いや、どうやらラウゼンハルツのあの眠たくなるような講義はちゃんと聞いていたらしいですねぇ。まったく、関心関心」
 身長が百三十あるかないかといった小さい方は、ミルを見て声もなく笑う。顔は端正だが、中性的で性別がどちらであるかは分からない。
「どちらさまかな………連れが怯えてるんだ。どっか前のほうに座ってくれねえか」
「ああ、それじゃ仕方ないですね。早く連れて帰ってあげないと」
 小さい方は、今度は静かに改のほうへ微笑みかけた。
 ………ぞくり。
 そら寒くなるような得体の知れない感覚が背筋を走る。
「家までの帰り道は俺がなんとかするから、帰ってくれ」
「そうはいきませんよ。ラウゼンの元へこれ以上の戦力が結集するのはごめんですからね。どんなに弱くても、素養のある者を見過ごすわけには参りません」
「いきなり交渉決裂か」
「交渉………?バカを言わないでください、これは命令です。死にたくなければ、彼女を置いてどこへでも行きなさい。クロザクラくん」
「…………」
 どこまでも余裕の小さい方に、改は舌打ちして構えを取った。
 相手がどれほどの力を持っているかは不明だが、ここまで得体が知れないと簡単に逃げることもできない。
 銃を突きつけられたほうが、まだ逃げる相手としてはマシだ。
 小さい方は、やれやれと溜め息を吐くと、後ろのほうへ視線をやった。
「………イルティンドルツ、ここは出番です」
「…………」
 大柄な方が、百九十はあるかという巨体を無言のまま小さい方の前へ動かした。少々狭そうに、首が心持ちぴんと立っていない。
 しかしその滑稽な格好とは対照的に、出番だと言われた瞬間からの目の輝きはまっすぐに対象の改を見据えていた。
 正直、改はこんなのと無差別級でやりあった経験はないし、ごめんだった。
 腕の太さにしてみれば軽く倍はあるし、体格で言えば二回り、いや下手をすれば……。
「ッ!」
 言うが早いが拳打が改の横を掠めた。
 いつも通り攻撃をかわしつつ、などという戦法は取れない。
 座席で通路が一人通れるか通れないか、後ろがほとんどない、という不利な条件も改は飲み込まなくてはならない。つまり、避けられないのだ。
 射程に飛び込んだ所を座席の両側にあった吊革を掴み、蹴りで押し返したがイルティンドルツと呼ばれた男はさほど応えていないかのように、二、三歩後ろへよろけた後、再び構えに入る。
 …………どうする。
 間違いなく、正攻法の打ち合いでは勝ち目が無い。かといって場所の狭さは圧倒的に不利だ。しかも、奴が最初に放った一打を見る限りでは力任せ一辺倒ではない。まともに入らなくても五割から上を喰らったらこの戦いでは間違いなく致命打だ。
 考えが、まとまりかけたその時。
 狭い通路全てを塞ぐかのような太い足が間合いを詰めた彼の足から放たれた。
 ………迅ッ!
「ッ!」
 とっさに両腕を前に持ってくることくらいしか、改には善策がなかった。瞬時に、その腕が軋むような音と衝撃を体に伝えた。
(足ッ)
 改がそう思った瞬間には、体が奇妙な浮遊感を伴って宙を舞っていた。
 次瞬には背中から伝わる衝撃で、胃液が逆流する。
「がァっ!」
 衝撃で後部座席に叩き付けられていたらしい。頭の中が混乱して、状況を把握するに至らない。
「か、改さんッ!」
 突如繰り広げられた刹那の攻防に、ようやく我に返ったミルが改の体をかばうようにしてイルティンドルツへ背を向けた。
「ッ!」
 我に返った改は、息をする前に彼女を再び横へ突き飛ばした。
 視界から消えた彼女の体の背後からヤツの顔が見えた。
 拳打が頬をかすり、後部座席を軋ませて減り込む。
「!」
 避けるとは、思っていなかったのだろう。意識の戻っていた改に驚いた顔を見せる。
 改は片方で減り込んだ腕を固定し、もう片方の手で自分の腰の辺りを探る。
「うおおっ!」
 イルティンドルツに残されたもう片方の手が、改の顔面に向かって打ち下ろされた。
 しかし、遅かった。
 改はめりこんだ彼の手の方の肩をつかむと、それを軸として自分の体をくるりと彼の肩で逆立ちするようにして持ち上げた。
「なっ!」
 小さい方が目を見開いた。
 改はそのままイルティンドルツの肩で反転すると飛びのきざま、ベルトと布地の間に突き刺してあった小さい鉄の棒を首筋に突き刺す。
「がああっ!」
 イルティンドルツはそこで初めてうめきごえを漏らし、かがもうとした瞬間に倒れた。
「………見事に、殺りましたね」
 さして感動もないように、小さい方が呟いた。まだ余裕は彼から退いていない。
「突き刺した瞬間にあの筒の中に入っている動力から電気が流れる仕掛けになってる。筋肉が硬直しただけだ。お前らを殺して殺人罪なんざ、俺の美学に反する」
 振り向いて、改はその小さい方をにらみつける。
「甘いですね。この程度で」
 小さい方は上方へ手を翳した。
「改さん避けてッ!」
 ミルの声と目の前に起こることに、改は全て対処することはできなかった。
 目の前が白くなった瞬間、再び、体が宙に舞う感覚。
 同じように、今度は後部のガラスへヒビを入れて激突する。
 胃液とは別の液体が改の口を染め、外へあふれた。
「か………」
 その鮮血に、ミルが叫ぼうとした声を呑み込む。
 背中に走る痛みが、今度は改の意識が飛ぶことを許さなかった。すぐに後部座席の前まで転がり落ちると、背に破片を突き刺したままゆらりと立ち上がる。
「森の伝承者・ラウゼン=ドルトリードが唯一の弟子、ミリアベル=エルドラウト」
 呟くように放たれた言葉に、ミルは肩を竦めて応じた。
「久しぶりだな」
「っ?」
「………え?」
 呆然としたまま、少女はその遙かに小さいその姿を見やる。
「記憶にないのも無理はない。まだお前達がドイツのシュバルツバルトにいた頃だ」
「シュバル………?」
「それではあなた………まさか役目を放棄した………」
 信じられないといった表情のまま頭を振るミルに、小さい方はにやりと笑う。
「ラウゼンがいち早く魔女の消滅したこの国へ渡ったと言う話を聞いたのもつい最近だよ。決着をつけたくてね、わざわざ赴いたわけさ。君を封印したのはそのついで」
「なぜ魔女が………」
「ああ、異端審問官の事かい?元々『社会側に恭順な異能』で『社会側に不利になる異能』を潰してきただけだからね。恭順さえしてしまえば、こうなることは難くない」
 改への一撃で乱れた襟を直しながら、小さい方は続ける。
「私の名はシフォリネイテ、かつてドイツにて『蒼気の騎士』と呼ばれた、魔女だ」
「!」
「そんな…………」
「ミリアベル。貴様もこちら側に来るというのであれば、この場でその短い生を閉じることだけは考えてやらんでもない」
 シフォリネイテは再びにやりと笑ったまま、改を指さした。
「この男、これ以上刃向かうもりなら容赦はせんぞ?」
「ッ!」
「このクロウサギが殺されるのを見たくはあるまい?」
 改は指さされた手を、しっかりと握り締めた。
「クロウサギは奄美諸島の天然記念物………俺の仇名は、コクオウだ」
「漢字なぞ知らん。カンミだかアマミだか知らないが、このまま吹っ飛ばしてやろうか」
「どうせならヒガシまで帰してくれよ」
 互いに微笑を浮かべながら、切り出す一瞬を造り出すための牽制を繰り返す。
「ちなみにバスは止まらないよ。運転手には軽く術がかけてあるからね」
「やな………野郎だな、オイ」
 途中から何も言わないのはおかしいとは思っていたが、やはりそういうことか。
 改は納得しかけた頭と、霞み始めた視界をもう一度奮い立たせた。
 勝つ可能性はかなり低い。逃げ出すにしても、この状況からではチャンスはほとんどない。あったとしても、一度か二度。
「やめなさい、シフォリネイテ」
 鋭い瞳がミルの方を向いた。
 ミルはシフォリネイテへ向けて手を翳していた。
「………なんのつもりだい、森の伝承者の末よ」
「改さんを離して」
 その気迫には、凛としたものがあった。
「君は何か勘違いしているね」
 シフォリネイテは無言のまま、開いていた反対の掌をミルへ向かって開いた。
「私の手は、二本だ」
「………同時に放つことはできないはずです」
「それは、見習いの話だろう?一緒にしないでくれよ」
 はったりか、本気なのか、シフォリネイテは相変わらず笑ったままだ。
 改もミルもその笑みを受けて硬直を続ける。
 三者が三様のまま、互いの沈黙を受けてさらに黙り込む。
 速度を若干上げたバスのエンジン音だけがその狭い空間に振動と共に響く。
 合図は、それから少ししてからだった。

 がたんっ。

 サガミ川へ入った最初の橋桁の段差だと考える前に、改が動いた。
 つかんでいた腕を引き寄せ、反動でこちらへ向かってくるシフォリネイテに強引に拳打をたたき込む。
「うおおォッ!」
 改の拳とシフォリネイテの顔が交錯する刹那、それよりも一瞬だけ早かったものがあった。
 ごっ!
 骨と骨がぶつかりあうような鈍い音を立てて、ミルの方へ向けていたシフォリネイテの『左手』が改の『左手』の軌道をずらしていた。
「ふっ」
 シフォリネイテは自らの短い息を弾き飛ばすかのように改の懐へ入り込むと、掌底を当てた。
「ッ!」
「翔べェッ!」
 ………三度も喰らうかッ!
 声に出していたのかどうかは、分からない。
 改は咄嗟に身をよじり、直撃を避けた。かすった反動だけで脇腹をえぐられた衝撃と共にミルのほうまで弾き翔ぶ。
 だが、今度こそ意識すら飛ばさずに改は叫んだ。
 訪れた一度のチャンスを、未知数の力に賭けるしかなかった。
「ミルっ、喰らわせろォッ!」
 右手に左手を添え、少しかがみ気味のミルの掌と体制の整わないシフォリネイテの手が大きく光を称えると、バスの後部を光が弾き飛ばしていた。
 改も大きく膨張した空気に弾き飛ばされると、今度こそ亀裂の入ったバスのガラスを割って、体が外へ出た。
「クッ!」
 隣で同じ体制で弾き飛ばされていたミルがいた。
 途切れそうになる感覚を、最後にもう一度取り戻す。
 空中で彼女の肩を抱き、包み込むようにして丸くなった。
 橋のアスファルトへ叩き付けられた衝撃で、左腕が彼女から離れ、彼女が地面の上へ転がる。
「く…………」
 まだ、途切れさせるわけにはいかない。神経を逆なでするような各所からの痛みとシフォリネイテへの恐怖だけが改をなんとかそこへ奮い立たせていた。
 あえて見ようとしないが、左腕が赤黒く腫れている。間違いなく折れていた。
「おい、ミル………ミル!」
「……う……い、た、たぁ………」
 顔を歪ませて、ミルが返事をする。
「っ、生きてんな…………奴が来る前に逃げんぞ」
「かい………改さん………無事?」
「生きちゃいる。今の状態じゃ奴に叶わない、ひとまず逃げるぞ」
 改は腕輪を外すと、ミルの顔の前へ持ってきた。
「腕輪のちっちゃな宝石が見えるだろ。これに口を充ててればしばらくの間水中や、軽い毒ガスの中でも意識が保てる。これを使って、とりあえず河口まで逃げる」
「か、改さんは?」
「時間が無い、行くぞ」
 霞む視界を閉じないように、改はまだ痛みで動けない彼女を右腕できつく抱いたまま橋の欄干に立った。
 まだバスは止まるようすがなく、橋を渡っていった。とりあえず飛び降りるまでの時間はもらえるだろう。
「できたら鼻摘んで腕輪かじってろ。行くぞ!」
 律儀に鼻を摘んで腕輪をかじったミルを見て、改はいくらか安心した。
 あれも魔女なら、これも魔女だ。
 欄干から一つになった影がふわりと、夕闇を暗く映した水底へと水しぶきを受けて入り込んだ。大きく飛沫を上げた水面が、何事もなかったかのように静まり返ると、辺りは静かに夕焼けの光景を写し出していた。


 シフォリネイテが、サガミ川へ戻ってきたのはそれから数分してのことだった。
 欄干に残る血を見て全ての状況を悟る。
「………あの二人」
 シフォリネイテの黒い法衣は右肩が全て剥ぎとられ、赤く血の滲んだ皮膚が露出していた。一瞬遅れた瞬間に叩き付けられた一撃だったにせよ、この一撃は決して軽くない。
 そして、魔女でもない人間のあの精神力。
 ヤミウナギ………だったか。
 しかしヤミウナギの傷は致命打に近かったから、放っておけば間違いなく死ぬだろう。仮に現れたとしても、再戦してもイルティンドルツとはまた互角といったところか。
「………まあいい」
 目指す場所がシフォリネイテの知る場所ならば、いずれまた再戦する時があるだろう。そしてその時は、さして遠くない。
「とりあえず、バスでも待つか」
 捨て台詞を残し、はだけた黒い法衣を翻してシフォリネイテはバス停へ向けて歩き出した。




[第二章・第二節] | [第三章・第一節]