クランベリープリンセス
著者:創作集団NoNames



第三章  海の見える診療所

        1

 改が最初に感じたのは寒さだった。
 まるで真冬に裸でいるような、全身に感じるこの寒さは一体なんだろう?
―――分からない。
今、目の前にはただ暗闇が広がっている。
 どこか遠くから人の声が聞こえる。聞き覚えのある二つの声。声の高さから察するに、二人とも女だが、一人はまだ子供なのだろう。
しかし、何を喋っているのかまでは聞き取れない。
 次に感じたのは熱さだった。
 左腕の、肘と手首の間がまるで火に焼かれているように熱い。
 なぜ自分はこんな目に遭っているのだろうか?
 ―――やはり分からない。
頭の中は霧が出たかのようにぼやけて、落ち着いて考え事をする事も出来ない。
 ぼんやりとした意識の中、ただこの寒さと熱さが改の精神を蝕んでいく。
 なんだか疲れた。それに凄く眠い。
 左腕の不快感は、徐々に痛みへと変わっていった。
 そして、痛みは全身へと広がっていく。
 今の自分の状況が理解できないし、したいと思う気もしなくなってきた。
 ―――もう眠ろう。
 そうすればこんなに苦しむ事もないだろう。
 周りの暗闇はゆっくりと改を取り込んでいく。
 指先の感覚がなくなり、体の痛みも感じなくなってきた。
 これなら眠れそうだ。
 改がそんな事を考えた時、また先程の声が聞こえてきた。
 今度はさっきよりも大きく聞こえる。相変わらず意味はわからないが、相当に焦っているようだ。
 その声のせいで、痛みがまた戻ってきた。
 何だよ、俺は眠いんだ。
 とりあえず、声のする方に右腕を伸ばしてみたが、感覚がないのでちゃんと動いているかまではわからない。
 すると、悲鳴のようなものが聞こえた。おそらくは子供の方の声だろう。
 伸ばした手に反応したのかと思ったが、違うような気もする。
 考えるのが面倒になってきたので、今度こそ寝ようと思った改だが、また異変が起きた。
 急にあの寒さを感じなくなったのだ。
 全身の痛みも薄れていく。
 今までとは違い、感じなくなるのではなく、痛みそのものが消えていっているようだ。
 左腕も、はじめと比べれば大分よくなった。
 いつのまにか周りにあった闇が消えていた。あるのは薄く輝く紫の光。
 改は、その現象に歓喜した。
 原因なんて気にならない。気にする必要もないだろう
 とにかくこれで、今度こそ眠れる。
 その望みどおり、改はすぐに眠りに落ちていった。

 そして―――。
「うぐぁああああ!!」
 激しい頭の痛みによって、改の意識は無理やり覚醒させられた。
「おっ。起きたか」
 目の前には天井があった。
どうやら、今自分は横になっているらしい。
「久しぶり。大怪盗くん」
改の頭の上から再び声が聞こえた。
 上を見ると一人の長髪の女性が逆さまに立っている。
 女性にしては高い一七〇センチを軽く越える身長。肩まで伸びた黒髪。そして、洋服の上から無造作に羽織った白衣。
 改はこの女性に心当たりがあった。
「ああ。久しぶりだな」
 ゆっくりと体を起こしながら答えた。
「で、何でお前がここにいるんだ? 香澄」
「自分の家にいるのはそんなにいけないこと?」
 香澄と呼ばれた女性は驚いた、と言わんばかりに目を見開いてみせる。
 そんなわざとらしい態度は無視して、部屋の中を見回してみた。
 真っ白な壁と天井。かすかに鼻につく消毒液の匂い。薬品の並んだ棚。
 目の前の、火のついていないタバコをくわえている人物。
「そうか、ここはお前の…」
 やっと改にもここがどこか理解できた。
 改が今着ているの悪趣味なピンクの入院着からしても間違いない。
「そう、私の病院。感謝しなさいよ。昨日はわざわざ、瀕死のあんたを連れてきてあげたんだから」
 その言葉で、改は意識をなくす前の事を思い出した。
「そうだ!俺と一緒にいた女の子は?」
 今この病室には、どうみても改と香澄しかいない。
 もしかしたら川に流されて・・・。
 最悪の状況を思い浮かべてしまい、顔が一気に青ざめる。
 そんな改の慌てぶりを見て、香澄はニヤニヤとしながら言った。
「心配しなくても、今は別室で寝てるだけよ」
 それを聞いて、改は安堵の表情を浮かべた。
 そんな改に香澄は顔をぐぐっと近づけて耳打ちした。
「なにあの子?アンタのこれ?」
 細い小指をピンと立たせて改に向ける。
「俺をどこぞのロリコン情報屋と一緒にするな。ただの連れだよ」
「なーんだ。つまんないの」
 つまらなそうに香澄はベッドに腰掛けた。
 そのかすかな振動に反応し、ズキリと頭に痛みが走る。
「あ、やば。血ィ出ちゃった」
 ちょっと待ってて、といって香澄は部屋の隅にある棚をあさりだした。
 ―――血?
 ふと枕もとにあるものに改は気づき、納得した。
 そこへ香澄が改のもとへ戻ってきた。その手には救急箱がある。
 なれた手つきで消毒をし、ガーゼを当て固定する。
「よし、これでオッケー」
 満足そうな表情の香澄とは対照的に、改は香澄を睨みつけている。
「なにその顔は。お礼の一つもないわけ」
 しかし、改が口にしたのは謝礼の言葉ではなかった。
「楽しいかい。競馬は」
 その言葉に香澄の体はピクリと反応した。
「別に悪いとは言わない。ギャンブルは俺も好きだしな。だが―――」
 もはや香澄の眼は完全に泳いでいる。
 ここで追及の手を休めるわけにはいかない。枕もとにあったソレを香澄に突きつける。
「負けたからってラジオを投げるな。メチャクチャ痛いぞ」
 改の手には一センチほどの厚みを持つ、名刺ほどの大きさのラジオが握られていた。
 一般的なものよりも大きい、今時珍しいものなので重量もなかなかある。
 こんなものを投げつけられたら、とてもじゃないがたまらない。
 さらに、彼女が使っていたであろう机の周りには、大量の馬券が散らばっていた。
「だって一千万よ!一千万!八つ当たりでもしなきゃやってられないでしょう」
「その八つ当たりで強制的に目覚めさせられたんだぞ。俺は」
 はっきり言って、最悪な目覚めの原因だろう。
「いいでしょ、そんくらい。文句は診察費払ってからにしなさい」
 ここでやっと改は自分の左腕にギプスがついてる事に気づいた。
 痛みというのは気づいた途端、よみがえるものである。
 我慢できないほどでもないが、やはり痛いものは痛い。
「もう発熱もしてないし、ぱっと見骨もくっついてるから問題ないっしょ」
 この痛みは十分問題なのだが、と思ったが言ってもどうしようもない事だろう。
 それに、香澄が今言った事が改には気になった。
「骨がくっついてる?完璧に折れたはずだぞ」
 一晩でそこまで回復するなんてありえない事だ。
 その質問に香澄は後で説明する、とだけ答えた。
「それより夕べは大変だったよ。夜中に散歩をしてたら、ずぶ濡れの女の子に助けて欲しいとか言われて、行ってみたら水死体みたいなあんたが倒れてたんだから」
 ひどい言われようだが、あの状況では仕方のない事だろう。
「んで、念のためあの子には風邪薬飲ませといて、アンタの修理・・・もとい、治療をしてあげたってわけよ」
 微妙にひっかかる表現があったが、改は聞き流しておく事にした。
 その話し振りからすればミルは無事のようだが、自分の眼でも確認はしておきたい。
「あいつはどこにいるんだ?」
 この診療所には今改達のいる診察室と、二つほど病室があったはずだ。
「ここのすぐ隣の部屋。様子見に行く?」
 改はそれに頷き、立ち上がった。
 いや、正確には立ち上がろうとした。
 いきなり襲ってきた全身の痛みのせいで、腰を上げた途端にまたベッドに尻餅をついてしまったのだ。
「いってぇ…」
 両膝の関節や背中を中心に、全身がズキズキと痛む。おそらくバスから吹っ飛ばされたのや川に飛び込んだせいだろう。
 改が痛がる様子を見せても、香澄はあまり心配せずに救急箱から注射器を取り出す。
「あれ?まだ完全じゃないのか。それじゃあ、一本打っとく?」
 どうやら痛み止めらしい。
 全身が痛むのに注射一本で役に立つのだろうか、と思ったが香澄が言うには―――。
「直接動脈に打ちこめばちゃんと効くよ。感覚はすこしマヒするけどね」
 とのことらしい。
 なにはともあれ、このままではどうしようもないので痛み止めを打ってもらう事にした。
 針を刺す瞬間、香澄が「やべっ」と呟いたのだが精神衛生上、改は聞き流す事にした。
 そして、十分ほど経った頃。
「おお、痛くなくなった。一応、医者なだけのことはあるな」
 全身の痛みがきれいに消えていた。感覚は多少マヒしているが、あの痛みに比べればまだマシに感じられる。
「一応とは失礼ね。『自称』手品師さん」
 香澄がそう言うと、二人は顔を見合わせてニヤリと笑った。
「さて、今度こそ行くか」
 ベッドから立ち上がり、廊下へのドアに手を伸ばす。
「ああ、そういえばそんな話だったっけ」
 香澄も後ろからついてきた。足がふらついている改のために軽く肩に支える。
 ドアをあけると廊下が右方向にだけ伸びていた。
 もっとも、廊下といっても5、6メートルほどしかなく、その奥には階段があり、階段の両サイドにドアがある程度のものなのだが。
 ドアの向い側にある窓からは海が見える。
 改の記憶が正しければここはサガミ川と海の合流地点。
 ここまで自分らは流されてきたのかと思うと背中に冷たいものが走る。
「何ぼけっとしてんの?出入り口で止まらないでくれる」
 はっと我に帰り、今は先にする事が会ったのに気づく。
 改は階段に向かって右側、つまり、先程の部屋のすぐ隣の部屋のドアをノックした。
「は〜い。どうぞ〜」
 中からは返ってきたのはものすごく緊張感に欠けた返事だった。




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