第三章
−1−
「な、何?あれは………」
カシスは丘の向こうに見える赤い光を見つめた。
一体何が起こっているのか………ただはっきりわかるのはそれが炎だと言う事だけだった。
激しく炎上している通いなれた丘の彼方。
そして、カシスは思い出した。
今自分の目に映っている、火事が起こっている場所。あそこに有る物は確か………
「教会………?」
カシスにとっては馴染みのある場所なのではっきりとわかった。
今自分の目に映っている光景が幻でなかったとしたら、燃えているのは教会だとしか考えられない。
「一体何が………」
カシスは妙な胸騒ぎを感じた。
とりあえず何があったのか気になって仕方がない。
そして、ふと窓の外を見ると、家の前で数人の主婦が丘の向こうを指差して騒いでいるのが見えた。
『とりあえずあのおばさん達に話でも聞いてみようかな………何かわかるかも………』
そう決めると、カシスはどたばたと玄関口に走りそそくさと靴に履き替えた。
そして、ドアを開けると相変わらず降り続いている雨を気にもせず、話している主婦達の方へ近づいて行った。
そこにいた主婦は四人。どこにでもいる買い物帰りのおばさんと言った感じで、どうやらカシスと同様、偶然に火事を目撃してそれを見に出てきた野次馬の様だ。
「あの〜、すいません。あれって火事ですよね?何かあったんですか?」
カシスは四人で輪を作っていた主婦たちに話しかける。
すると
「…………」
カシスの問いに対し、何故か誰も答えようとしない。
四人の主婦は口を堅く閉ざしたままカシスの方を黙視しているだけだった。
「えっと……あれ?あの〜…………」
当然のごとくカシスは戸惑う。
その場には、何か異様な空気が漂っていた。
「……………のために」
「え?」
一人の主婦が何か妙な事を口走った。
「全ては我らが主の為に………」
「え………な、何ですか?」
カシスはその時になってやっと気が付いた。
この人達は何か様子がおかしい。
よく見ると目はあさっての方向を向いているし、何か全身から強い殺気の様なものを確かに放っている。
そして、何よりおかしいのが額の妙な模様だった。
四人の主婦達の額には赤い色の妙な模様が浮かび上がっていた。何かの紋章の様に見えるがカシスには見覚えが無い物だった。
そして………
「全ては我らが主の為に!」「全ては我らが主の為に!」「全ては我らが主の為に!」
四人は口々にそう叫びながらカシスを取り囲むように歩み寄ってきた。
「何、何、なんなのよ!?」
当然のごとくカシスはわけがわからないまま後ろに身を引いた。
『アンゴスチュラ様の為に!』
四人はそう叫ぶと同時にカシスに襲い掛かった。
「ッ!」
カシスはとっさに身を低くしてその場を切り抜け、四人の輪の中から外に逃れた。
しかし………
「全ては我らが主の為に!」「全ては我らが主の為に!」「全ては我らが主の為に!」
四人は逃れたカシスの方を睨みつけ再度カシスへ向かって歩み寄った。
「この人達………何か普通じゃないよ………」
そして、カシスは四人の動きに警戒しながら身構えた。
「しょーがない……」
カシスはもともと人並み外れて運動神経が良い上に、日頃シャルに拳法を習っていた。
拳法に関してはまだまだ勉強不足で、シャルには一度も組み手で勝った試しがないが、十分に実戦に役立てる事の出来る力を持っている。
今この場で、主婦四人を相手に戦う事くらいなら容易いだろう。
そして次の瞬間
『全ては我らが主の為に!』『アンゴスチュラ様の為に!』
四人はカシスに向かって飛び掛った。
先に前方の二人が両手を広げてカシスに掴みかかる。その動きはとても正常な人間の物とは思えなかった。
カシスは一度上体を後に反らし二人のリーチから身をかわす。
「えいっ!」
続いて素早くカウンターを仕掛け、二人の腹部に拳を叩き込んだ。
ドゴッ!ドゴッ!
二人はその一撃で地面に崩れ落ちる。
「全ては我らが………」
いつの間にか残りの二人がカシスの後に回り込み、拳を振り上げて構えていた。
「主の為に!」
「ッ!?」
カシスは間一髪のところで振り下ろされた二つの拳を自分の腕で受け止めた。
「このっ!」
ドガッ!
カシスはそのまま拳を払いのけ、一人にはこめかみに右フックを、そのまま反動でもう一人に中段回し蹴りを入れる。
二人は少し身体を浮き上がらせ、そのまま重力に従って落ちる。
瞬く間に四人の中年女性はその場に倒れ込み気を失った。
「はぁ……はぁ……。一体何なのよ……」
突然わけもわからないまま四人の主婦達の襲撃を受けてカシスの頭の中は完全に混乱していた。
「一体何が起きてるの………この国に………」
ふとカシスは火事が起こっていた丘の方へ再度視線を送った。
教会があるはずの辺りでは相変わらず、激しく赤い炎が上がっている。
「とりあえずあそこに行ってみるか………」
さっきの奇妙な主婦たちの襲撃も気になるが、まずはあの火事の原因を確かめようとカシスは心に決めた。
だがこの時のカシスは、つい数時間前にシャルに言われた言葉など完全に忘れてしまっていたのだ。
『外に出るな』という………。
いつの間にか雨も少し強くなっている。
焦る気持ちに背中を押されてか、カシスは少し急ぎ足で丘の方へ歩き出そうとした。
と、その時だった。
「な………!?」
カシスは驚くべき状況に直面したのだ。
周囲から大勢の足音と気配を感じた。
気が付くとカシスの周囲は大勢の人間に囲まれている。
しかし、異常な事はそれだけに留まらなかった。
カシスを囲むその人々の顔ぶれを見てみると………、スーツを着たサラリーマン、ランドセルを背負った子供達、制服を着た女子高生、おじいちゃん、おばあちゃん………。
その全てがカシスが日頃見慣れたこの街の住民達だったのだ。
『全ては我らが主の為に!』『アンゴスチュラ様の為に!』
誰もが口々にその言葉を叫ぶ。
さらにそこにいる人間の全てには、その額に先程の主婦達と同様の赤い妙な模様が浮かび上がっていた。
「どうなってるの!?お隣のおばあちゃん!?それにお向かいの家のヒデキ君まで………」
『全ては我らが主の為に!』『アンゴスチュラ様の為に!』
そしてカシスを囲む人々は、一歩一歩ゆっくりとカシスに歩み寄る。
人数にしてざっと四十人はいた。
カシスにははっきりと感じられた。
先程の主婦たちと同様、彼ら全員が自分に殺意を持っているのが。
「みんなどうしちゃったの!?何で私を……」
カシスは必死に人々に話しかけるが、彼らの耳には届いていない。と、言うよりも彼らには既に意識などはないのだ。目は焦点を失い、思考回路は何か違う物に支配されている。
ただ、ひたすらゾンビの様にカシスに歩み寄って行くのだった。
『異教徒を殺せ!』『神に従わぬ者を殺せ!』『悪魔の子を殺せ!』
「ッ!?」
人々はさらに口々に叫び出したが、カシスには何の事なのかさっぱりわからない。
ただ、これでハッキリした事は一つ。彼らは間違いなくカシスを殺そうとしている。
『全ては我らが主の為にぃぃぃぃっ!』
そして人々は一斉にカシスに襲い掛かった。
「いやあああああぁぁぁぁぁぁっ!!」
さすがに成すすべも見つからず、カシスはうずくまり声を上げた。
[第二章・第三節] |
[第三章・第二節]