「菜の花畑に」
著者:創作集団NoNames



   −2−

 風は相変わらず冷たく強く、肌を滑る様に通り過ぎていく朝の学校だった。
 啓は眠気混じりのぼんやりとした顔で、思考回路をうまく働かせることができないまま園芸部の敷地に姿を現した。
 そんな眠りから覚めないままの頭でも一つだけはっきりと分かる事がある。
 いや、分かると言うよりもそれは考える事ではなくて、それを見るのが習慣となり機械的に思い出されるあの男の事………。
 そして案の定、次の瞬間視界に飛び込んできたのは、いまわしいあの顔だった。
「あ、啓ー。おっはよー 」
 進平はこちらに気付くなり、力の限り手を振った。
 その姿を目の前にした瞬間、啓の中で何かが切れる音がした。
「てめぇ………いっぺん血を見なきゃわからねぇらしいな………」
 啓の目から発せられる殺気の強さがいつもより数倍強いのに気付き、さすがの進平もはね起きて一歩後退した。
「あ、あら?啓?もしかしてご機嫌ななめかな?寝不足とか?」
 図星だった。
 啓は昔から考え事を始めると眠れない体質で、昨夜も眠りについたのは日が変わってさらに数時間後の事だった。
 そしてその事実を見事に一発で当ててしまった進平の一言は、まさしく火に油を注いだ。
 啓の怒りはいよいよ最高点だったのだ。
「五秒以内に消え失せろ。ハチの巣になりたくなければな………」
 啓は本気だった。
「わ、分かったよ。お、怒るなってー。それじゃ、グットラック 」
 進平はごまかし笑いを見せながら少しずつ離れていき、ある程度の距離を行った所から全速力で逃げていった。
 遠ざかって行く後ろ姿にナイフの様な視線を送りながら啓は心の中でささやいていた。 『次は、コロス』。
 そしてその「次」と言うのはおそらく今日の午後で、あの男は少しも懲りずにまたやって来るだろうという事も予想できる事だ。
 そんなこんなで、すっかり目が覚めた啓は一息ついて作業にかかった。
 啓はここ数日毎朝この場所に来て、植物を見たり、手入れしたりするのが最近の習慣になっていたのだ。
 言うまでもなくそれをするためには、早起きと言う言葉が必然的に付いてくる。  啓自身が植物が好きだからこそ続けられることなのだ。
 一つ一つの花を楽しそうに見回り、あの花はこうだその花はこうだと、一人言が始まったのはそれからすぐだった。
 啓は他人から見れば決して面白い人間とは言えない。ましてや女性から見ると近付き難い存在ですらあるかも知れない。
 その原因の八十パーセントぐらいは、これなのだ。
 人間を見る様な目で植物を見る。その行動の一つ一つがある意味で正常ではなく見えるのかも知れない。
 しかしそのせいか、男にしては割りと優しい性格だったりするのだった。
 まあ最もあまり付き合いの広くない啓であるから、それを知る人が少ないのもまた事実であるが………。
 その時啓はふと機能の部活帰りのワンシーンを思い出した。
「そういえば確かあそこに………」
 そう一人事をもらすと同時に、突然あっちへこっちへと向かっていた足を部室へと向け始めた。
 昨日あの場所でみたスケッチブックが気になっていたのだ。
 いや、正確にはそう思い立ったのは「ふと」ではなかった。
 啓をそんな気にさせたのは昨日の睦葉の一言『あら?こんスケッチブック………』。
 彼女は知っていたらしい………。
 そんな小さな事実が理由も分からないまま啓の心を小さく揺らした。
 スケッチブックは昨日と同じ場所に、同じ状態のまま残っていた。
 啓がそのまま何のためらいもなくそれに手を付けようとしたその時、背後から声が聞こえた。
「やぁ、駒沢か。早いねえ」
 啓はかなり驚いた。
 スケッチブックばかりに気を向けて、他の事に意識がいってなかったためだ。
「部長」
 啓が振り向くとそこに立っていたのは、この園芸部の部長である赤星多恵子であった。彼女は肩まであるくらいの漆黒の髪を揺らし、いかにも清純そうで男子生徒に人気があるのも納得できると言った感じの女性だった。
「ん?何やってるの?こんなところで………」
「え?ああ………あの、このスケッチブック赤星部長のですか?」
 啓はほとんどそれはないだろうと心の中で思いつつもとりあえず聞く事にした。
「ああ、それね。何かね、あなたはしらないでしょうけどこの部の一代前の顧問をやっていた遠山宗一郎って人の物らしいわよ」
 聞きぼえののない名前に意外だと言うような表情を浮かべ、啓は再度聞き返した。
「遠山宗一郎………」
「うん、何かね、この学校に来たのを最後に最後やめちゃったらしいのよ。それでね、何かね、今は日本のあちこち行ったり来たりして絵描きをやってるんだって」
 ちなみに大したことではないが、この「何かね」と言うのは赤星の口癖であった。
「あ、それと部長。この花って…………」
 その時、啓の言葉を遮るかの様に校内にチャイムの音が鳴り響いた。
「あ、もう予鈴ね。教室へ行きましょ」
 赤星はチャイムの音にハッと気付き、自分の腕時計に目をやった。
 そしてそのまま啓に背を向けて部室を後にしたのだった。
「…………行くか」
 その後啓もゆっくりと動きだし、自分の鞄を肩にかけて部室の外へ出た。
 そしてあらかじめ預かっておいた部室の鍵を取り出して、鍵をかけた。
 スケッチブックは鍵をかけられた後の時が止まった様に静かな部室の中、ただ次に訪れる誰かを待っているかの様にそこにあった。




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