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嗅ぎなれている、でも何かイヤなものの匂いが初めに鼻を突いた。
白い空間が頭の中でイメージされる。
……知っている。
ここは自分の家だ。そして私はちゃんとベットの中で寝ている。
理沙はぼんやりと頭の中で考えると、ベットの中で一度寝返りを打った。滑らかなシーツの音が、細かく衣擦れの音を立てる。
朝なのはなんとなくわかったが、今日は休みだ。
もう少しまどろみながら寝ていたい気分だった。
でも、何か初めに感じた嫌な匂いが気になる。
ここには、この時間には絶対にあるはずのないもの。
理沙は葛藤の末に、ようやく薄く目を開いた。
「………」
ダイニングのほうに、人の気配がする。
断片的な情報を組み合わせて、理沙はようやくベットを出て、パジャマのままでダイニングへと向かった。少し素顔やだらしない格好を見られるのは気になったが、どちらにせよ洗面所へ向かうにはダイニングを通らなければならない。
ダイニングに入るなり、幸太郎と目が合った。
「あ、起こしちゃった?ごめん」
罰の悪そうな顔で幸太郎。理沙は一度髪をかきあげて、幸太郎を不審な目で見つめる。
「どうしたの?こんな早くに……いつもなら絶対に来ないのに」
「うん……ちょっとね」
何か含みのある言い方で、幸太郎は苦笑いを浮かべて見せた。
「………なにか、あったの?」
意外に幸太郎は政治家のタマゴという表向きな職業柄、反面私生活ではかなり甘えたところがあった。
結構悩みも打ち明けられたものだが中にはかなり子供っぽくてくだらない悩みもあった。
今度も、そんな感じでこっちへ逃げ込んできたものと理沙は踏んだ。
「どうしたのよ。何かあったから、私のところへ来たんでしょ?」
「…………」
幸太郎は黙ったまま、テーブルに置いた幸太郎用のティーカップを取った。
顔が、いつもより重い。
「………許婚が破棄された」
短く、端的に告げられた言葉は、理沙の頭の中で幾度も反芻された。
数瞬の後、理沙はようやく意味を理解した。
「え……?」
「………」
目の前の、幸太郎は動かない。
次第に、唇が震えてくる。喉が渇いた。
「どういう………こと?」
「だから、婚約が破棄されたって、こと………」
言い出しづらそうに、幸太郎は母親にしかられるような口ぶりでそれでもなお状況を綴る。
「今日の朝、父さんから珍しく電話があって、津島産業が潰れるという有力な噂が立っているって言う話で………だから一方的に父さんが」
「………………」
「だから」
幸太郎は、興奮して震えている理沙の両肩をそっと押さえつけた。
「本当のことを聞かせてほしいんだ。津島産業グループが潰れてしまうような噂が立っていたのかどうか。真実じゃないなら、俺が父さんに直談判してくる。津島は父さんにとっても古くからのパートナー的な存在だったんだ。だから………」
一瞬。
その一瞬、全ての空気が豹変した。
次に続くのは
理沙が口の端から漏らした笑いと。
その予想外の行動に何が起こったのかわからずに呆然とする幸太郎だった。
「あはっ………あははは」
幸太郎の顔を見ながら、理沙は渇いた喉で笑い続ける。
「理………沙?」
とうとう気が触れでもしたのかと幸太郎は思った。
あまりの豹変振りは、幸太郎も気付いていた。
いつもの理沙じゃない。
今の『彼女』は、もっと醜い。
「ふふっ……」
ひとしきり笑い終え、彼女はそれでも口の端を余裕そうに歪めたまま、幸太郎に近づいた。
「理沙。笑ってないで本当のことを……」
「本当よ」
「………は?」
「津島産業は他企業との多額の癒着があったらしいわ。かなり汚いやり方で、この業界をのしあがってきた津島産業はそのやり方を変えることができなくて。あなたのお父さんの周りにも、ウチのパパとのつながりがある人は大勢いるわ」
「…………」
「ねぇ」
「………理沙」
「やっと、別れられるのよね。私達」
幸太郎は、耳を疑わざるを得なかった。
あまりにも、笑顔の理沙は今までの理沙よりも素敵な分、残酷だった。
「うふふっ………本当はね、私、あなたのことなんて、好きでもなんでもないの」
「……理沙?」
「昔で言う、お姫様の輿入れみたいな物よね。議員でも有力なポストにいるアナタのお父さんの力が手に入れば、津島産業はますます力を増す………政略結婚なんて皆そんなもの」
理沙は冷めた目のまま、虚ろになりかけた幸太郎の頬を両手で包み込んだ。
「私は、本当はあなたのことなんて、だいっきらいなの」
「おい、理沙……どうしちまったんだよ」
「だって、私の恋愛の全てを奪ってくれた人だもん………」
口の端が不釣合いに歪む。
包み込まれた幸太郎の頬には、少しずつ爪が立てられる。
今にも泣きそうな顔だった。
幸太郎はただ呆然と彼女を見つめ返すことしか出来なかった。
しばらくして、彼の頬へしずくが一筋、流れ落ちる。
「………どうしても、好きになれないの」
「…………」
本当に愛してはいないと言っても。
彼女は一度、真剣に自分を愛そうとしてくれていたのだ。
胸が、痛かった。
「理沙」
「だから、頼んだの。私と、あなたの仲を引き裂いてくれる?……って」
「え?」
半べそのまま、理沙の顔を見る幸太郎の顔が強張った。
「彼女に頼んだのよ!」
懺悔に近い格好で二人ともが膝をついた。向き合う理沙の顔は今までにないくらいぐしゃぐしゃになっていた。
「幸太郎に近づいて、私と別れるように仕向けて、って」
「………」
突如告げられた真実が、あまりにも重かった。
本当なら、ただ自分は責められるだけの存在だったのに。
平手打ちでも、罵声でも何でも浴びて帰るつもりだった。
それなのに。
「………じゃあ、靖子は」
「私が頼んだ、『別れさせ屋』」
「そんな………それじゃあ……あの約束も……」
とうとう耐え切れず、幸太郎が理沙の手から離れて尻餅をついた。
視線が定まらない。
宙を泳いでいる。
なきたくても、涙が出なかった。
それほどまでに、何をしていいのかわからなかった。
「昨日、約束したのに………全員俺を騙していたんだな!」
取り留めのない怒りが、頭中を駆け巡る。
「……あなただって、何度も別れるように言ったじゃない!幸太郎、一度でも私に振り向いてくれた?笑ってくれた?いっつも避けるみたいにして、用事だ、仕事だ、って……」
渦巻く怒りの中、罪悪感の中心が言葉によって突き刺される。
胸が張り裂けそうに痛かった。
「…………良かったな、こんな男と別れられて!」
「………………」
理沙は何も言わず、ただ耐えるようにして下を向いた。
「もう俺たちは関係ないんだ。お前の会社が倒産しようとどうしようと、知った事か!」
捨て台詞のように幸太郎は上着をソファーから取ると、一目散に部屋を後にした。
荒々しくドアを閉める音がして、部屋の中にはうなだれたままの理沙が残される。
心の中にわだかまった思いが、膨らんでゆく。
「………これで、いいのね」
納得するように、理沙は誰にともなく呟いた。
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