「利用した者、させた者」
著者:創作集団NoNames



   −4−

 誰もいない部屋で、理沙はベージュのゆったりしたソファーに寝転んだまま、天井を仰いだ。
 力が入らず、たつ気力も失せていた。
 少し考えれば朝から何も口にしていないのだから当然だったが、それもまた今の理沙にとってはどうでもいいことだった。
 幸太郎と別れたことは、自分にとって靖子を使ってでも成し遂げたかった本懐だったはずだ。いまさら、旧時代の許婚などという古臭い慣習にしばられるほど、理沙は古い人間ではなかったし、今の時代親の七光で生きていけるとも思っていない。
 なのに………。
「………」
 鍵のかかっていないドアは、理沙がそのままにしておいたものだ。
 …………幸太郎が出ていった時のまま。
 ぽっかりと、体の一部が抜けたようなこの空虚感は何だろう。
 数年間縛られていた幸太郎から離れてしまったことへの安堵感なのだろうか。
 こんなものを、自分は望んでいたのだろうか。
 理沙は頭の中でぐるぐると自分の思考を巡らせる。
 答えが出るわけでもなく、仮に出たとしてもそれが満足できるものとは絶対にかけ離れていることもわかっている。
 自分が抱えているこの悩みの答えも、たぶん心の底では分かっているはずだった。
「…………」
 だけど、もう遅い。
 今こうしていることだけが事実だ。いくらお坊ちゃま育ちで世間を知らないとはいえ、あれほどの仕打ちを受けた幸太郎は帰ってきはしないだろう。
 それほどまでに、事実は残酷だったはずだ。
 理沙は目の上に置いた腕をどかすと、それでソファーから起き上がった。
「……っと」
 立ち上がった反動で足下がふらついて、柱にしがみついた。

『やっぱりダメだった』

 壊れかけた心のどこかがそういうと、理沙はそのままうずくまって、元の顔に戻る。
 柱におでこをくっつけて、一度気持ちを落ち着ける。
 仮にこの気持ちが『悲しい』だとしても、今の理沙には流せる涙がない。
 憎んだ男のために流す涙などは持ち合わせてはいないからだ。

 それ故に、彼女の心は辛い。

  ぴーんぽーん。

 理沙はゆっくりと伏せていた頭を持ち上げる。
 部屋の中に残響音が響いて、午後の来客を告げた。

 理沙は、ゆっくりと立ち上がる。
 どうせ今の時間なら宅配便か新聞の集金、何かの勧誘くらいだろう。
 居留守を使おうかとも思ったが、宅配便なら後々電話しなければならないのも面倒だ。
 そう思って、インターホンの受話器をとった。
「はい」
『あ、こちら津島理沙さんのお宅で間違いないですか?………私、遠藤耕二に津島産業の脱税資料の方をお渡しした者なんですが』
 理沙に突きつけられた事実は、もっと残酷だった。
 唐突な話に、理沙は少し絶句した。
『あなたにお話があって参りました。決して損はさせませんから、お話だけでも伺ってみませんか』
「………そんなこといって、信じられるわけないでしょう!」
 受話器の向こう側の相手に、心の中のもやもやを全てぶつけるつもりで怒鳴る。
 しかし、あくまで対照的に冷静な声で相手は続ける。
『いいえ、あなたはもう信じているじゃないですか』
「………?」
『一番最初の言葉に動揺したと言うことはあなたはこの事件の何かを知っているはずです。そして、あなたにも先手を打つ権利がある…………。どうです、話だけでも』
 受話器の向こう側の相手が、少しにやけているのが容易に想像が着いた。
 いきなり来られても、今の状況で自分に何ができるのだろう。
 でも。
 ……………今の状況が打開できるのなら。
 少し長い沈黙の後、理沙はぽつりと言った。
「今、開けるわ」
 受話器の向こうが、うれしそうに一度笑った。


「あ、すいません」
 恐縮したように、目の前の青年は自分の前に置かれたカモミールティーを見てそういった。
 見た目はいかにも普通の十代後半位の青年だ。どこにでもいそうな感じがする。ただそれだけに、今この場で放つ雰囲気の違いが異様だった。
 理沙も、その異様さに気付かない振りのまま普通を装いながら腕を組んだ。
「それで?お話ってなあに?」
「はい、簡単なお話です」
 一度カップの中の匂いをかいで、青年は息吹きついでに言った。
「鯉墨幸太郎を潰してみませんか、あなたの手で」
「……どういうこと?」
 青年は理沙を見上げて、きょとんとした顔をした。
「まんまの意味です。スキャンダルのネタがありますから、それを自分の手で出版社なり何なりに持っていってみませんかってことです。少しは憂さ晴らしになるでしょう」
「あなた、パパの会社の脱税書類を持っていたって言ってたわよね」
「ええ、まあ」
「それじゃあパパの会社を潰すことが目的だったんじゃないの?」
 それを聞くと、少年は困ったように頭を掻いた。
「そうそれ!………それなんですけどね。こういう職業上、ちょっとした弱みを握られることがたまにあるんですよ。実は、そこを遠藤耕二に突っつかれてしまいまして………ああ見えても彼、ハッキングの腕に関しては天才的なんですよ」
「………それで?」
「ある時、脅されたんですよ。今までのコトをバラされたくなかったら、俺に協力しろと、言うわけです。それで秘密裏に調べたんですけど、遠藤耕二は靖子っていう人と協力して、津島理沙を潰そうとしてるって。だから津島産業が邪魔だってことが分かりました」
「……………」
「津島さん、僕に協力してもらえませんか」
「………協力?」
「僕は政界や財界にコネがあります。いざとなれば、寸前で出版物の差し替えを無理矢理要求することもできます。つまり……………」
「会社をなんとかできる、って言いたいワケ?」
 半信半疑の理沙の顔に、青年は笑いかけた。
「………代わりに僕は遠藤耕二から逃げたいんです。いずれ敵に回せばそういうことが致命打になることだってありうる………早めに彼を潰しておきたいんですよ」
「…………」
「ね?………この際だからぶっちゃけちゃいますけど、津島産業の書類、実は鯉墨潤一郎さんの依頼なんですよ。調べたところ潤一郎とあなたのお父さん、忠雄さんは実は兄弟らしいんですが、折り合いが悪いらしくて数年来水面下で小競り合いを続けてきたらしいんです」
「ウチのパパと幸太郎のお父様が?」
「だから、これに決着を付けるために私を雇ったんですが、遠藤耕二が監視役としていつのまにか私の後ろに回っていたらしいんです。だから物的証拠が上がった段階で私はもう用ずみなわけです」
「そんな…………」
「ね、お願いしますよ。助けてください。このままだと最悪殺されちゃうんです」
 理沙の袖をつかんで、青年は彼女を見上げた。
 理沙は少し困った顔でつかまれた袖を振り払った。
「今、そういわれても…………」
「早くしないと、会社が潰れちゃいます」
「………でも、それならなんでこの話をパパじゃなくて私にするの?」
「よく考えてください。潤一郎さん、いえ潤一郎の味方に回っていたってことは津島産業の秘密を知っているってコトです。あなたのお父さんに言ったら、秘密を保持するためにひどいことされちゃいますよ」
 理沙も会社の暗部が良くないことをしているのは知っている。そういって成り上がってきて、その金で育ってきただけに理沙は何も言えない。
「……………」
「ね?どうでしょう、あなたにとっても悪い話じゃないはずです。それに会社を救ったとなれば、お父さんの助けにもなったってコトで」
「……………分かったわ」
 少し長く目を閉じた後、理沙は彼に向かって小さく頷いた。
「本当ですか?」
「嘘ついてどうするの。とりあえず、あなたの話に乗るわ。会社が潰されても困るしね………あたしはまだ社長令嬢でいたいから」
「それはそれは………。それなら自分の手で、自分の地位を取り戻してください」
 青年は持っていたカバンから茶色の封筒を取り出すと理沙に手渡した。
「この中に幸太郎と『とある風俗店勤務の女性』との間のやりとりを録音したテープとそれに関する調査資料があります。これをレポートの最後にある出版社の桜越って人に渡してください。そうすれば、これが記事になって幸太郎は今の地位を追われるくらいにまではなると思います」
 茶封筒は間違いなくあの時の封筒と同じものだった。
「それと、遠藤耕二から何かもらっていませんか」
「え、ええ。あの書類のコピーを」
「それは早く捨てたほうがいい。物的証拠はなるたけない方がいいですから」
「………分かったわ。捨てとく」
 青年は安心したように顔を綻ばせた。
「良かったです。津島さんが僕を信用してくれて………このままだったら八方塞がりでどのみちどうにもなりませんでしたから」
「………でも、どうしてこんな危ない橋を渡るの」
「ちょっと矛盾してるかも知れませんが、助けたい人がいるんですよね」
「…………?」
「難病らしいんで、一にも二にもお金が必要なんですよ。親からも見放されて、たった一人で死んでしまう所で出会ったんです。助けてやろうって気になっちゃって」
「…………」
「おっと。人のプライバシー詮索しないでくださいよ、これでも闇のスナイパーなんですから」
「そっちが勝手に話したんでしょ」
「………まあいいです。でも秘密ですよ、こういうのは」
 青年は唇に人差指を当てる。
 その仕種はやはり、潜在的に纏う不安定さとあいまって不気味に見える。
 理沙の背筋は青年がその仕種が似合うにあわないに関わらず凍っていた。
「あなたには興味はないわ。あるのは自分の今後だけよ」
「ははっ、あなたらしくていいです。それじゃ、さっき言ったことお願いします」
 青年はカモミールティーの残りを飲み干すと、カバンを持って立ち上がった。
「これで、あなたが利用させた側に回るわけですね」
「え?」
「この世には利用する者と利用されるものがいるんです。でも、今のあなたは僕と同じ、利用する側だ。でも幸太郎を一度出し抜いたことになるから、『させた側』になる」
 少し得意気な顔の青年に、理沙が不安げに呟く。
「本当に、あなたって何者なの?」
「僕は『利用する者』ですよ」
 青年が微笑んだ。
「………そう」
「そう。もう二度とあうこともないだろうけど、見ても声かけちゃダメですよ」
 それだけを言うと、青年は理沙の家を出た。

「さて、こっからですか」
 誰かに投げかけた言葉は、確信に満ちて少し震えていた。




[第六章・第三節] | [第七章・第一節]