「あの木の下で」
著者:雨守



第一章 『約束』

 2005年 4月10日

 春の午後の日差しは柔らかだった。
 とある田舎町の山のふもとに、小さな森がある。
 森の奥深くにある大きな木はピンクの様な白の様な、それは美しい花を咲かす。
 桜の木だ。
 周囲を囲む木々の中でもその桜は一際大きかった。
 
 桜の木のふもとに寂しそうな表情の八歳ぐらいの少年と少女がいた。
「また…会えるよね」
 少女、春香が言った。
 少年、友樹はすぐに返事を返せなかった。
「うん…、多分」
 こんな台詞を言われるのは生まれて初めての経験なので、戸惑っているのだ。 
「あのね、こういう時は『絶対』って言うの!」
 春香が怒った口調で言う。
 友樹と春香は年齢は同じだが、どちらかと言えば春香の方が少し大人っぽい。
 春香がマセているせいかも知れないが、春香の方が物知りでいつも友樹を引っ張っていくお姉さんタイプだった。 
「うん…そうだね」
 友樹は再び頼りない返事を返す。
 もともと表情も少なく引っ込むタイプの友樹だが、この時はいつも以上に言葉が見つからなかった。
 これが友樹にとって生まれて初めての『別れ』になるからだ。
「そんな顔しないでよ…」
 春香はうつむく。
 友樹と別れなくてはならないのは自分も寂しい。
 生まれてからずっと一緒だった友樹がいなくなってしまうのだから寂しくないわけがない。 
 だが春香はそれが仕方の無い現実だという事もちゃんと理解できていたのだ。
「僕…東京になんか行きたくないよ」
 友樹は震える唇を噛む。
 友樹の父親の東京への転勤が決まったのは急な話だった。
 友樹の家族は引っ越さなければならない。
 友樹にとって住む家が変わることよりも、学校が変わることよりも、春香とお別れをする事が悲しくてならなかった。
「仕方ないでしょ?おじちゃんのお仕事の都合なんだから…」
 大人びた事を言ってみせるが、春香も声が震えている。
 いくら大人っぽいとは言っても、春香は内面はまだ八歳の女の子なのだ。
「ずっと春香ちゃんとここで遊んでたいよ…」
 友樹と春香は生まれてからずっと、何をするにも一緒だった。
 友樹にとって春香は一番の友達であり、お姉さんであり、友樹自身もまだ理解できていないが「それ以上」の感情をも抱いている。
「私だって…。友樹くんが大好きだもん…」
 とうとう春香の目に大粒の涙が溢れる。
 春香は滅多に人前で泣いたりはしないのだが、『別れ』には勝てなかった。
 春香も友樹と同じだけの感情を抱いているのだ。
 それから二人はしばらくの間何も考えずにひたすら涙を流しながら、大きな桜の木を眺めていた。


 どれくらい時間が経ったのだろうか。
 何時間か…、時計の針はかなり長い時間を刻んでいたに違いない。
 だがこの森の中では「時間」と言うものは存在しない。
 止められた時の中、そこには二人だけしかいない様な気がしていた…。
 
 突然、少女が少年の手をそっと握る。
「約束しよう…」
 友樹の顔は真っ赤に染まり、心臓が暴れ出す。
 彼女をこんなに近い距離で感じるのは初めてだったからだ。
「十年後の今日、もっかいこの場所で待ち合わせ」
 春香は悲しみの消えた澄み切った笑顔で言う。
 そして強い眼差しと共に、握り締めた手にぎゅっと力を込める。
「そしたら…、私の事お嫁さんにしてね?」
 そう言って友樹の顔をまっすぐ見つめる。
 もちろん、幼い少女は深い意味など考えてはいない。
「うん…」
 友樹は一言そう答える。
 やはりそれ以上の言葉は見つからなかった。
 しかし今度は春香の小さなを手しっかりと握り返す事で答えた。
 
 そして二人は今まで過ごしてきた中で最高の笑顔を交わす。
 いつの日かまた会おうと言う強い想いと共に…。

 
『指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲―ます…』
 小さな子供にお決まりの、約束の儀式だ。
 しかしまだ幼い二人はこれさえすれば絶対に約束通りまたこの場所で会えると信じていた。

『指切った』

 最後のその言葉だけが、いつまでも二人の胸に響き続けていた…。


 翌朝、友樹の家族は東京に向けて旅立った。
 朝が早かったので春香の見送りは無かったが、その時の友樹の瞳は心なしか強く輝いて見えた。
「約束」と言う強い絆で春香と結ばれていると信じる事が、弱気な友樹を少しだけ強くしたのだ。

 その日から二人は遠く離れた場所でそれぞれの生活を送る。
 十年後の四月十日、あの桜木の下でまた会えると信じながら。

 そして、時は流れていった…。




[ 第二話 ]