「CloseGame」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



―0―

「正治と功治がもしなんかで戦うことになったら、お母さんどっち応援したらいいかわかんなくなっちゃう」
 昔、母さんがこんなこと言っていた。正月の駅伝を見てるときに、違うチームに所属してる兄弟が同じ区間で対決するというエピソードが流れていたからだ。

 功治は小さかったから「走るの嫌いだから兄ちゃんとは絶対戦わない」と言っていたのをはっきり覚えている。あまりにもバカっぽかったからだ。
 だけど、俺はその時自分がなんと言ったのか、全く思い出せない。

―1・七回表―

「増田、肩ぁ作っとけ」
「は?」
 一瞬、監督に言われたことが分からず、俺は目の前のベンチ前面にいた監督の背中に聞き返した。今日の朝に言ってたこととまるっきり正反対のことだったからだ。
 まばらに見える向こうの一塁スタンドから精一杯の歓声が聞こえてきて、俺はようやくその意味を悟った。
 七月中旬の梅雨が明けそうで明けない蒸し暑い気候。
 監督のその向こう側に見えるマウンドには、先発投手の伊佐田が呆然と、打たれた球の方向を―――バックスクリーンを高く仰いでいた。
「………はい」
「ここはしのがせるが、伊佐田が立ち直らなかったらすぐ出す」
 監督はそれきり俺には何も言わず、タイムを取って伝令をマウンドへ飛ばした。
 レギュラー九人が全員守備に散って、座る人間もまばらな自陣はまるで通夜のような静けさだった。
 常日頃から朗々としていて細かいツメに甘い監督がこれほど苦い背中をしているのも、単に予想外の展開を強いられているからに他ならない。
 それだけ、今相手に打たれたホームランは大きかったということだ。
 そんなことを考えていると、自分のグローブがどこからか飛んで来て隣に座った。
「なにぼんやりしてんだ、マー。行くぞ」
 チームメイトでいつも俺の球を受けてくれている津川が、一度こっちに釘を刺すように言ってから、グラウンドに出て行った。
 俺は出番を認識できないままグローブを一撫ですると、それでもようやく立ち上がった。

 グラウンドに出ると、蒸すような湿気が倦怠感を煽る。アンパイアのストライクの宣言が高らかに聞こえて、相手は三振に倒れた。
 一瞬、マウンドのエースと眼が合った。その視線にこもっているものを見る限りでは、ホームランを打たれたからといって俺にハイどうぞ、とマウンドを譲るつもりは無いらしい。監督がこうやって奮起を促すことを見越していたなら大したものだ。
「おいマー、どっち向いてんだ。はじめるぞ」
「へいよ」
 気の抜けた返事に、返ってきたちょっと強めの球を受け取る。立ったままミットを構える津川は釈然としない風に俺の不機嫌に顔をしかめていた。
「お前な。これ以上ないくらいの試合中だぞ、しっかりしろ」
「と言ってもなぁ、元々出番なかったわけだし」
 マウンドの土をスパイクで二度蹴ってから、六割近くの力で一度腕の振りを確かめながら振り下ろす。今までエースの伊佐田"先輩"が度々完投をしてくれるお陰で出番がないから、元々調子は悪くない。予想通り軽く乾いた音が津川のミットから聞こえた。
 数球繰り返しながら徐々に速さを上げていく。合間を切り裂くように一度、切ない金属音が高らかになって、一塁側スタンドがわっと沸いた。
 三塁側の投球練習場、右投げの俺からは今のマウンドは"見えない"。
「マー、もういいべ」
「ん」
 一旦間を置いて、津川が座る。帽子をとって汗を拭いながら、傍観者紛れに戦況を確認する。
 七回表、二死二塁。得点は四対四。
 いつのまにか同点になっていたためか、俺は無意識に溜息を吐いていた。
「どした?」
「いや、万年一回戦負けの相手にこうもてこずるとは、と思って」
「おい、監督に聞かれたら後何言われるかわかんねぇぞ」
 嗜めるような言葉で津川が慌てて俺を諭した。
「大丈夫だよ。あの監督、地獄耳だから」
「………」
「それに、これを伊佐田先輩が抑えれば俺たちが出るんだ。どっちにしても責任のツケは俺に回るだろ………逆に、勝てば何にも言われねぇよ。そういう人だ」
「マー、それお前の悪いクセだよ」
「なにが」
「チームで勝とうとしないお前が、これから投げるって言うのに油断してどうするんだよ」
 ミットを構えながらも少し呆れ顔の津川の間違いを、俺は笑顔で訂正した。
「油断なんかしてねぇよ、むしろ逆」
「あん?」
「ほれ、行くぞ」
 津川の中で不可解な状態になった問答を断ち切るように、俺はセットアップから振りかぶった。

 俺が今日ベンチに入ってからすごく不機嫌な理由が、三つある。
 一つは、先発メンバーに入れながら最初に監督はきっぱりと俺を「使わない」といったこと(それなのにこの状況になって急に使うと言ったのもフクザツな心境だがちょっとシャクだった)。
 一つは、チームが万年一回戦敗退チームの投手を毎年ベスト16に入るような打撃陣が決定的に打ち崩せずにぐずぐずやっていること。
 そして最後の一つは、その相手投手が弟の増田功治であること。


 津川のミットが小気味いい音を立てるのと、逆転を知らせる快音が重なった。




[ 第二節 ]