―0―
ウチには三回戦、という一つの目安がある。
無論優勝して甲子園にいければ言うことはないが、事実はそう甘くない。優勝するチームにはそれなりの特色や理由があって、激戦区ともなればそれだけの選手が必ず八、九人、つまりレギュラー一揃いは存在する。
大体毎年、名門にあぶれた三、四人がチームの主力を担っている実情では、三回戦を超えた県ベスト16は出来た数字といえた。
つまり、毎年ウチの成績の優劣は三回戦を超えるか否かで決定されるといっても良かった。一昨年はクジ運最悪で優勝候補相手に二回戦でボロ負けし、奮起した昨年はベスト16をもぎ取った。
そんなチームは今年も目安の三回戦で、よりにもよって一回戦敗退常連の相手に苦しんでいる。
―2・八回表―
「ストライク、バッターアウトォ!」
アンパイアが高く手を上げると、一球ごとに張り詰め替えられる場の緊張は解けて、急にゆるやかになった。
真夏の太陽が容赦なく照りつけるグラウンドに風はない。うだるような暑さに帽子を一度取って汗を拭う。
「………ふー」
オッケオッケと津川がでかい声でボールを回し、残りのナインが声をそろえた。示し合わせたかのように、人差し指と小指を立てるツーアウトの合図が次々に挙がる。
偶然ぱっと津川と目が合うと、彼は軽く笑って指で丸を作っていた。
無言でも通じるものがあるのを知ったのは、こうやってピッチャーとして試合に出てキャッチャーと話している時だ。今までの中で、俺は津川との相性が一番よかった。
内野からボールが戻ってきてプレートを足で撫でた瞬間、ぞっとするような寒気がバッターボックスから漂ってきた。
「………やっとかい」
瞬時に思い当たる節に、本心が口に出る。
『八番、ピッチャー、増田くん』
球場のどこにいても分かるくらい。そんなアナウンスだった。
七回の攻撃の起点にして、唯一今日の伊佐田から二安打している男。数字から見れば、"ただそれだけ"の男だった。
その男がさっきの伊佐田とは違う意味で、ただ俺を睨んでいる。
俺はエスパーじゃないから相手チームのバッターなんぞの意志ははっきり分からない。ただなんとなく、コイツを打たせると非常に厄介なのは分かる。
「…………」
逆転で一度落ちた士気は、八回になってようやく戻りつつある。このまま次に進むためには、どうしてもここでこの男を打ち取っておく必要があった。
深い息を一つ。バッターボックスに入った奴がくるりくるり、無造作にバットを回す。
どの打者に対しても、この瞬間が一番心臓に悪い。一球目の前に必ずある異様な間が俺は一等嫌いだった。
セットに入ると同時に、アンパイヤがプレイを宣言した。
………さ、どうしたもんだろう、津川君。
無責任に指示を仰ぐとシュパパ、と津川の指が細かく動く。
外角低め、ワンバウンド可の"強いヘタレ"カーブ。
まとめると「とりあえず様子見よう。伊佐田先輩コイツに打たれてるから」。
軽く二度頷いて、セットポジションに入る。
「………」
ああ、嫌だ、嫌だいやだ。
緊張が汗とは逆に、背筋を這い上がる。
夏の陽光が暖かいくらいに感じて、その後一気に矢のような熱気が頭から突き刺さる。
体重が右足一本にかかると、後は何万回もやってきた体の慣れに身を任せて、右腕の感覚だけに集中する。
後は空を裂くように、振りぬくだけ。
二、三瞬間が開いてスパン、と鋭く乾いた音が届いた。音が軽いのはスピードがない証拠だ。
「ストライッ」
「お」
ギリギリ入ったらしい。見ても結構際どいとこに決まってるのに。
功治は判定にも眉ね一つ寄せず、無造作に足場を慣らしはじめる。
「………かわいくねぇ」
そういえば、いつからコイツはこんなに可愛気がなくなったんだろう。
くだらないことを考え出した所に、津川からボールが返ってきた。上の空がばれたのか、なんか怖い顔をしていた。
マ・ジ・メ・ニ・ヤ・レ。
口パクでも分かった。練習試合で再三使われたからだ。
他には「ユダンキンモツ」がある。
逃げ場のないマウンドの上で、俺は津川から視線を逸らすと足元のロージンをぎゅっと握った。
一緒に交代した津川はともかく、今まで油断してたのはどこのどいつらだ。
試合開始前から、チームの雰囲気は初めて三回戦にあがってくる無名の高校を無意識的に舐めきっていた。確かに一、二回戦のスコアでは、相手もそこそこで運よく勝てたとしか思えない勝ち方をしていたから、監督もエースの伊佐田先輩のみで完投が可能と考え、試合前に俺の出番はないと軽口を叩いた。
味方の油断も、相手が功治であることも、この状況の原因ではある。
しかし、こうなることを俺は心のどこかで望んでいた。
二球目が高めに浮き、三球目を際どいところで外してボール二つ。
四球目はカーブを弾かれて、ファール。
この前の二人の打者はカーブをさっさと引っ掛けてゴロ打ってくれたので楽だったが、そうは終わらないらしい。
カウントは、ツーエンドツー。
決め球があれば迷わず放ってるところだが、あいにく俺にはそんなものはなかった。
たったの四球だが、相手の選球眼はかなりのものといえる。あからさまにタイミングを外してボールに抜けるタイプには手を出しそうにない。
直球には元々自信はない。ましてや、さっきまで十キロ以上も速度差のある伊佐田の速球を打ってたような連中にウイニングショットとして通用するとは思えない。
………どうしよう、相棒。
分かんなくなったら人に聞くのが一番いい。
津川のサインは真ん中外寄りからギリギリ隅に決まる一番強いカーブ。
一球目のカーブで構えた所と、全く同じ場所でミットがぱくっと開いた。さっきはココから予想位置まで動いたが、今度は結果的にココに入れろよというサインだ。
そんな器用なことまで到底出来ないが、今はやるしかない。津川だって百も承知でサイン出してるはずだ。
「………ん」
決意に代わってから、俺は一度しっかり頷くと背筋をただした。グローブの中で、ボールの縫い目にしっかりと指を這わせる。
スタンドから申し訳程度に聞こえる吹奏楽の太鼓が微かに鼓動と重なると、右足を軸にして、俺の体は静かにマウンドを滑り落ちていった。
一瞬の後、やたらに高く鳴った金属音と一塁側スタンドが爆発するように沸いた。
「…………」
俺はその一瞬でかっとんで行った白球を自然と追っていた。鋭く、だが高く舞い上がった球はぐんぐん伸びて、ギリギリファールゾーンの一塁側アルプスに突き刺さった。
もう少し球が速くてタイミングが合っていたら、間違いなく試合のトドメを刺されていた。
思いっきり、安堵の息が出た。何かが背中に覆いかぶさったように重くなり、俺は思わずマウンドで膝に両手をついた。
さっき、呆然とバックスクリーンを見上げていた伊佐田先輩もこんな気持ちだったんだろうか、とふと思った。入っていたら、と考えるとそのダメージは計り知れないだろう。
来年エースなんて看板を背負う事を思うと今からホント嫌になりそうだ。
「おい、大丈夫か。マー」
聞こえるはずがない津川の声に顔を上げると、いつの間にか目の前に津川がいた。慌てて監督か津川がタイムを取ったんだろう。思い出したように、急に辺りから音が戻ってきた。ざわめいてる。一塁側が俄然活気付いていたのは言うまでもない。
試合の分かれ目にいる、とその時初めて気がついた。
「なんとかな」
「"あの相手"、どうやら最初からカーブ待ちだな」
俺のグローブに球を捻じ込んで、津川が功治の方を見た。何度も家に来てる津川が功治を知らないはずがないんだが、気を遣ってくれてるらしい。
「じゃなかったら、初めてであのカーブにはタイミング合わないよ。狙われてんだ」
ミットで口の辺りにして、ヒソヒソ声で言った。
「………そういえば、振ったの全部カーブだったな」
「もしかして、昔からのクセとかで見破られてたりしないよね?」
「一球目カーブで入った時に振らなかったから、多分それはない」
ジャストミートしたらスタンドまで飛ばせる力を持ってる男が、それを見逃すはずはない。
「マー」
「ん」
「君のピッチャーのタイプは?」
冗談を返したら、自軍乱闘になりそうな眼だった。
「打たせて取る」
「じゃ次、何投げる?」
「………どうせ拒否権、ないんだろ?」
「よくお分かりで」
回りくどい問答を打ち切ると、そんじゃよろしくと残して津川はホームベースへ駆けて行った。
「………ま、やるしかないわな」
せっかくの二対一だし、どのみちこの相手にだけは負けるつもりはないのだ。
バッターボックスでは、待ちくたびれていた様子の功治が足元を慣らしながら、くるりくるり、バットを回していた。そのくせ視線が睨むようだから、攻めようと思うとやっぱり一分も隙はないように見えた。
長いタイムがあったせいか、すぐにプレイの声がかかる。
もうサインは大体分かっていたが、決まりごとのように津川が指示を飛ばす。
"ど真ん中に、弱カーブを叩き込め"
意表を突きすぎてシンプルになった、無謀な捨て身の攻撃に俺は首を縦に振った。
小学校六年生の時にプロ野球の選手がテレビでやってたボールの握りを見よう見まねでやって覚えて以来、俺にはカーブしかなくなった。
でもそれは、必殺技なんかじゃない。
投手の大半が最初に覚えるような、ありふれた変化球だ。
球場には緊張感が戻り、誰もが息を呑んでくれている。
次に放つ、ただのなんでもないカーブのために。
すっと上がった左足がそのまま体重を乗せて次瞬、スパイクのツメが土へと突き刺さる。
後ろから前へと伸びる腕の先から、球が抜けきった後。
鈍い金属音がして、詰まった当たりの球がさっと俺の足元を抜けていった。反射的に振り返った時にはもう、二塁手が華麗なグラブ裁きで一塁に。
………投げる前にお手玉をしていた。
[ 第一節 ] |
[ 第三節 ]