「三月の呪い・2」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)




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 図書室には、誰もいなかった。
 生徒がいないのはともかく、通常なら司書の先生がいるはずなのだが、それも見当たらなかった。出入り禁止者が入るので一言断っておこうかと思ったが、いないのなら仕方がない。
 中庭に面した窓が一枚開いていて、ゆらゆら、カーテンが日差しの中を揺れていた。
「久藤、入って」
 入り口のところに突っ立っていた久藤を、入るよう促す。
「ちょ、おいおいキミヤス。分かってると思うけど、俺、ここ出入り禁止なんだぜ」
 彼は今更のように学生証を見せて言った。黒いラインの他にも鮮やかな青と赤と黄色のデコレーションで、学生証は賑やかな色になっている。
「今更、そんなの知ってるわよ」
 歴代最低の図書委員長。
 まあ、そんなものは卒業してしまえば誰の記憶にもそうは残らない。歴代といっても私だって何人のいたのかも知らない。
 ただ、私はそんなのと同じ委員で同学年だったと言われるのは、多少忍びないところはある。私まで不真面目に見られてしまうのはいただけない。
「じゃあ、特例って奴? 職権乱用だなあ」
「うるさい。とっとと入る」
 へなへなした主張をへし折って捨て、代わりにイライラをぶつける。
 誰のためにこんなことしてると思ってるのか、絶対に久藤は分かっていない。二月に入って、登校義務もないところをわざわざ出向いてやったというのに。食堂でジュースでもおごってほしいくらいだ。
「相変わらず怖いなあキミヤスは。いやあ、こういう取締り部隊を任せて正解だったね。先々代はいい趣味………じゃなくていい目を持ってたね」
 私のイライラをいとも簡単に受け交わして、久藤は一枚開いていた窓の近くの席に勝手に陣取り、持っていた本を机に置いた。私はその正面に座る。
「私たちはアンタが委員長をやるのを任せて失敗だったわよ」
 本来なら二年連続で黒ラインを引かれたような奴が委員になるのさえ前代未聞だったが、委員長ならおいそれとラインは引かれるまいとみんな油断した結果がこの出入り禁止だ。以来、私は三度目の正直などという言葉を信じなくなった。二度あることは三度あるのだ。
「ま、たまにはいいだろ。こういう妙なインパクトを持った奴が居てもさ。記録にではない、記憶に残る図書委員………って奴」
「よかないわよ」
 振り回される身にもなってほしい。割と切実にそう思った。
 ちなみに記録にもばっちり残っている。黒ライン三本は立派な不名誉だ。
「なにカリカリしてんだよ。お前。志望校受かったんだろ? だったらもうちょっと穏やかにだね………」
「うるさい。まだ発表待ちの人に言われたくないわ」
「俺はカリカリしてねえよ。だってやることやっちまったしなあ。どんだけ望んでも答案書き直しはできんわけで、祈ったって変わらんし」
 椅子の背もたれに体を預けながら、久藤は天井を仰いだ。
 久藤は国公立受験が終わって発表待ちのはずだった。私は発表まで気が気でなかったというのに、この男にはそういった緊張や焦りは皆無で、それが余計にイライラを募らせる。なんでこう、自然体で居られるのか、不思議でならない。
 話題を変えることにした。そもそも、無駄話をしにきたわけじゃない。
「………延滞していた本はそれ?」
「ん。『人心掌握術88の極意』」
「また、そんな本借りて」
 そもそも高校の図書室にあること自体に疑問を感じるが、そこは目を瞑ろう。
「いや、委員長として他の委員を懐じゅ………じゃなくて、円滑な人間関係の構築を図ろうと」
「歪んだ上下関係の元に、私たちは居たわけね」
 上下というよりも、そもそも出禁を食らっていたこの男はこの場に居なかったのだけれど。
「まあいいわ。一応本は無事に戻ってきたし」
 机に置かれた本をこちらに引き寄せる。白地に黒いゴシック体でタイトルが書かれただけの表紙は、インパクトと共に脅迫的なイメージを想像させる。
 ぱらぱらとページをめくる。特に損壊はなさそうだ。
「キミヤスもぜひ」
「人心掌握してまでやりたいことは今のところないから、遠慮しとく」
 ぱたん、と本を閉じて立ち上がる。
「手続きしてくるから、待ってて」
「へーい」
「久藤、何組だっけ」
「八組」
 無人のカウンターの下にある、昭和五十三年度(二)と書かれた引き出しを開ける。暗闇の中から、篭もったホコリと共に引き出された何百枚の図書貸出カードから八組の項目をぱらぱらと手で確認しながら、該当の一枚を取り出す。
 一学年三百八十名もいると、引き出しも二つ。まったく、生徒数が多いのも考え物だ。
 慣れた感覚を引き戻しながら、別の引き出しを開けて日付のスタンプを取り出す。
 入学当時は、この機械じみた日付スタンプに憧れた。大人の持ち物のような気がしていた。
 それを押すのももう、これが最後だろう。
 日付を今日にセットして、黒インクにタンタンと叩きつける。
「あ、そうだ。キミヤス」
「………なに?」
 久藤を見ると、彼は椅子の後ろ足二本でフラフラと曲芸並みのバランスを取りながら、さらにこちらを向いた。器用すぎる。
「お前、大学東京だっけ?」
「うん、その辺だけど」
 正確には横浜近郊なので神奈川なのだが、横浜ってどこだっけと返ってきそうなので止めておいた。私も東京の南辺りということ以外は良く知らない。女は大学なんて行くものではないと父親に反対され続けた結果、自立も含めてどこか遠い所に行ってしまいたかったから、何にも考えずに意地で都会を選んだ。
「久藤だって、受かれば東京なんじゃないの?」
「いんや、俺は地元の国立」
 久藤は椅子の前足をゆっくり着地させると、こちらを振り向かずに沈黙した。
 少し意外な気がして、私は何か、彼の中に理由を探したが、何も思い浮かばなかった。
 彼は私の敵であり味方だったが、彼のことをどれだけ知っていただろう。クラスの親しい友人の方が、よっぽど事情を知っているに違いない。あれほど頼もしかった無責任な背中が、なんだか押しつぶされそうな程、小さく春の陽に揺れていた。
「東京とか、あっち行くヤツ歓送迎会まとめてやるから、来いよな」
「いつ?」
「明後日の四日に学校。あんまり遅いと間に合わなくなるヤツ出てくるから」
「分かった。行くよ」
 ほとんど使用形跡のない貸出カードにスタンプを押し付け、日付を捺印する。
 これで本を返したら、今度こそ本当に終わりだ。
「久藤、手続き終わったから本戻して」
「あいよ」
 私の指示を待っていたかのように、本を持って久藤が立ち上がる。
 ああ、終わってしまうんだな。
 ゆったりと歩く彼の姿を見ながら思う。
 また一つ。
 受験の時はあれだけ早く終わって欲しいと思って、駆け抜けてきた後に待ち受けていたのは、寂しいような、苦しいような、別れの手続きの数々だった。新しい生活が始まるまでに私の中からいくつ剥がれ落ちていくのか、削ぎ落とさなければならないのか。
 否応なく続くこの連鎖の中で、自分の中に何が残って、何が失われるのだろう―――。
「おい」
 きつく、怒ったような声で久藤の声で我に返った。
「どうしたんだよ。キミヤス」
「なにが……」
「だから、終わったって」
「………ああ」
 呆けたようにつぶやいて、貸出カードに視線を落とす。
 久藤重治。三年八組十七番。
 そうか。わたしの図書委員としての役目は、今度こそ本当に、終わったのだ。
 だから―――。
「ねえ、久藤」
 低く押し殺した言葉が、図書室に響いた。
「なんだよ」
 彼を睨むと、彼もまた私のことを察したようで、私のことを静かに見つめているだけだった。ざわり、窓から穏やかな風が、彼の全身を包んで撫でていった。
 彼と私を繋ぐものはもう、最初にして最後の一つだけだ。
 私は解放されてしまった。
 だから、今度は彼の番だ。
 彼を、普通の学生に戻してあげなくてはならない。

「私に掛かった"のろい"を、解いてよ」


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