−−−
「久藤。あの"のろい"を解いて」
念を押してもう一度口にした私の言葉に、久藤は泣いているように微笑んだ。
それは単に春の陰が作り出したやわらかい錯覚だとすぐに気付いたが、彼の顔は相変わらず悲しそうに私を見ていた。
「もう、終わったよ。私は、久藤が掛けた"のろい"を全てやりきった」
"のろい"の力で何か起こして欲しい、と言った人は、かつて数人いた。
そんなことはできないと突っぱねても、訪れる人は絶えなかった。
でも、"のろい"の力を持つそのものになりたいといった人は、誰もいなかった。
どういった結末を経ても、誰からも疎まれる損な役割。それを分かっていて、彼は呪術師の位を私から強引に簒奪した。
『俺を"のろって"、呪術師になれと言えばいい。それで俺は呪術師になれるだろ。
そうしたら、俺がお前を普通の人になれと"のろい"を掛ける。それで万事解決だ』
久藤はかつて、そう言って私に"のろい"を掛けさせ、私に"のろい"を掛けた。
『お前は"のろい"など何も知らない図書委員として三年間、己に与えられた責務を全うするがいい』と。
彼がその力と名前を持って、何をなそうとしていたのかなど、その時の私には知る由もなかった。ただ、恐ろしかった過去の記憶が差し伸べられた久藤の手を取れと、そう告げただけだ。
「私はあなたの言いつけどおり、"のろい"をやりきったよ」
黒革の手帖を取り出して、カウンターの上に置く。
夏休み前で浮き足立ち、根も葉もない噂がいたるところに飛び交っていた周囲は、信憑性の高いその事実に全て集約された。
呪術師は、久藤重治。
だが、私は、自分が救われた安堵と共に、取り返しの付かない後ろめたさを彼に持つことになった。たった一度話しただけの、素性も良く知らない同じ図書委員というだけの同級生。どんな意図があるにせよ彼を、裏切ったのだ。
だからせめて、彼に掛けられた"のろい"だけは遵守した。
上級生相手にも怯まなかった。図書委員の鑑であろうとした。
彼が呪術師として奇異の目で見られ、黒ラインとして敵対を始め、図書委員長として最低と烙印を押されても。
結果的に彼が私を守ったように、少なくとも私だけは彼をこれ以上、裏切ってはいけなかった。
「それは一体何の話だ、キミヤス」
久藤はそう言って、あの時と同じように窓のほうを向いた。
猫背で肩口まで腕をまくっていた半袖姿はない、凛々しい詰襟姿のまま。
ざあ、と窓の外の木々が揺れる。
「俺は最初にお前に会った時、こう言ったはずだ。お前は"のろい"など知らないただの図書委員だと。だからお前は俺の"のろい"のことを知らない。俺は確かにみんなが言うとおり呪術師だけど、自分の知らないものを解くことはできない」
「でも」
それでは、久藤は永遠に"のろい"をかけられたままだ。
あの時、なんで私の代わりに呪術師を名乗ったのか、それは私には分からない………フリをし続けてきた。
ただ、その答えを口に出してはいけない。憶測を告げればきっと、それは新たな呪術師を生む。
言葉のみで意図的に人を動かすことのできる、魔性の生き物。そんなものは本来、居てはいけないのだ。
「なあ、キミヤス。何だかよくわからないけど、誰かに掛けられたお前の"のろい"ってのが終わったんなら、もういいじゃねえか。これでもうお前は正真正銘、普通の人なんだろ」
先生が諭す時のように、久藤は言った。怒られてもヘラヘラしていて、どこ吹く風で飄々としている。自分が呪術師だと公言し、名乗りをあげても人気者のまま、三年間、私の相手までした。
「………よくない」
分かっていた。馴れ合っていたら私がまた疑われるから、この男はあえて図書委員で黒ラインを取ってまで敵対する道を取ったこと。
何が目的で。
何のために。
言うまでもない。いくらなんでももう、分かっている。
でも、それを私が言ってしまうのは、違う。
彼が勇気を振り絞って、私のために作ってくれた道を壊すようなことを、私は出来ない。
でも、彼はきっと何も言ってはくれないだろう。
その胸の奥を宿敵に一切見せないまま、消え去るつもりだ。
でも―――それはあまりにも。
「おい、キミヤス」
久藤が目を見開いて、私を呼んだ。
呼ばれた理由は分かっていた。卑怯だと言われるかもしれない。
それでも、堪えても溢れて、頬を伝うものをもう、自分でもどうにも出来なかった。
この感情を叫べば、私はまた久藤を"のろって"しまう。これ以上もう、彼を縛りたくない。
「でも私は、それじゃ良くないんだ。いやだよ………久藤」
ぶつかった思いの競りあがる先を、唇に求めたら、涙みたいに溢れた。
カウンターの脇を抜け、戸惑ったままの久藤に近づく。ダメだ。久藤は何にも分かっていないし気付いていない。バカだ。悔しいから鼻水でもつけてやる。
胸に飛び込んで、いつもの背筋を猫背に戻してやった。意外に厚かった胸板から、久藤の匂いがする。詰襟から、春の匂いがした。
「ちょ、おい」
抱きつかれて慌てる久藤を離すまいと、私は腕を背に回した。
胸の中で顔を伏せたまま、私は言った。
それはあの時"のろい"を掛けて助けてくれた呪術師に、一番言いたかった言葉。
そして一番遠くなってしまった彼に、届けることの出来なかった言葉。
「ありがとう、久藤」
精一杯の思いを言葉を腕に込めて抱きしめる。どれほど伝わるのか、私には分からないから。
「キミヤス………いてえよ」
小さく低く、喉から漏れたような声が上から聞こえ。
力を緩めようと思った私は、不意に背中を、優しい腕に抱かれた。
−−−
図書室を出る頃に、ちょうど四時間目の終礼が鳴った。
「あー、もう昼か。どうりで腹減るわけだよ。キミヤス、学校来たついでに学食でなんか食っていこうぜ」
「うん」
私が落ち着くまでしばらくかかり、その後、突如襲ってきた気まずさに少し黙り込んでいるうち、久藤のお腹が鳴ったので図書室を出ることにした。
減ったという腹をさする久藤と一緒に廊下を歩き出す。目が赤くなっていないか心配だったが、聞かれたら素直に久藤に泣かされたと言ってしまうことにした。ある意味、事実だし。
「なあ、キミヤ………君原」
木造の廊下をギシギシ言わせながら、久藤がこちらを見る。
「こっち見ないで」
「なんだよ、今更」
「いいから」
「………へいへい」
うんざりした溜息を一つ吐いて、久藤は続ける。
「お前、いつ行くんだ。東京」
「十八日」
「………ちくしょう」
ちらと横目で久藤を見上げると、彼は片眉を歪め、悔しげにうめいていた。
何が悔しいのか分からないが、どうせ見送りに来るつもりで他と予定が被ったとか、その程度だろう。
「何がそんなに悔しいの」
「見送りに行こうと思ったけどその日、合格発表なんだよ」
「じゃあ、そっち行きなよ」
「え、なんで」
「なんでって………」
見送りに来られたら、単純に恥ずかしい。
と言えずに答えに窮して無言でいたら、ぺちん、と音がして、久藤が手を額に当てていた。
「失敗したなあ、ちくしょう。俺も大学東京にすればよかった」
「その前に、久藤まだ受かってないでしょ」
「あんなもん、鼻ほじるより簡単だった。適当に決めたの、失敗したな」
全ての受験生を敵に回すようなセリフをさらりと吐いて、学年主席の男は両腕を頭の後ろに回して天井を見上げた。夏でも遊びに来ればいいのに、と気軽に言おうとして、その言葉の重みに気付いてやめた。
「こっちにあと四年居るけど。なるべく早く追いかけるから、待ってろよ」
ぼんやりと独り言のように、でも彼は確かに言った。
私はうなずく代わりに、意地悪く笑った。
「………それは、新しい"のろい"?」
「いや。呪術師は目的を果たしたからな。さっき死んだ」
彼は頭の中で勝手にストーリーをくみ上げ、呪術師は死んだことにされた。私があれほど悩みぬいた存在を、彼は一息で殺して見せた。とてもかなわない。
そして呪術師の久藤重治が死んだ今、かつて私の中にいた呪術師も、もう蘇ることはない。
後で倉山くんに返す黒革の手帖のように、私から剥がれて思い出の一つになってしまったその存在を、今は少しだけ懐かしく思う。
「そうだなあ………今のは」
何かに気付いたように、久藤は言った。
「………」
「"のろい"じゃなくて、"まじない"だな」
男よけの、と小さく付け加えた後、久藤は暖かな春の日差しを受けて、私だけにやわらかく微笑んで見せた。
[終]
[ 3話に戻る ]|
[ はじめから ]