「必然の偶然」
著者:白木川浩樹(とぅもろー)



 ―――そして貴彦は理解した。
「あ、おかえり」
 部屋の中はいつも通りだった。
 貴彦の好む、必要最低限のものだけで構成された、生活感に欠ける自室。
 その中で唯一、本来この部屋にないはずの例外が、バイト帰りの貴彦をねぎらうべく、穏やかな声で室内に迎え入れた。
「どうした? 自分の部屋だろう。遠慮なく入ったらどうだ?」
 ドアの敷居をまたげず、立ち尽くす貴彦。
 この先輩の行動には慣れていると思っていたが、どうやらまだまだ甘かったようだ。
 瑞希はベッドの端に腰掛け、まるで自分の家であるかのようにくつろぎ、部屋においてあった雑誌を読んでいた。
「ええっと………どうやってここに?」
「もちろん、玄関からだよ。キミの母親は一度しか会ってない私の顔を覚えていてね、ここで待っていていいと言ってくれたよ」
 貴彦が先ほど見た、母親の意味深な笑顔が脳裏によみがえる。
 わざと黙っていたということは想像に難くない。あとで文句を言ってやろう、そう貴彦は心に誓った。
「さて、まずはこれだな。ありがとう」
 瑞希がバックから取り出したのは、やはり昨日借りていったCDだった。
「どういたしまして」
 受け取ったそれを引き出しの中へとしまい、貴彦は瑞希と向き合う。
「先輩、一つ聞きたいことがあるんですけど」
「さっきも質問したから、これは二つ目だけどね。まあいいか、何?」
「どうして、わざわざ家まで持ってきたんですか?」
 ただ返すだけなら、コンビニで渡せば済む話だ。
 あの時は客で話が途切れたが、そんなもの一分も待っていれば済む話だ。貴彦の家にまで持ってくる必要はまったくない。
 貴彦はコンビニでの会話から、ある予測を立てていた。だから、これは質問というより確認と呼ぶべきものだろう。
「キミの勉強の手伝いをしようと思ったんだ。CDのお礼にね」
 ―――やっぱり。
 貴彦は心の中で呟く。
「おや、予想通りって顔だね」
「わかりますか?」
「キミは正直者だからね」
 瑞希は微笑み、貴彦は苦笑する。
 勿論、この申し出は貴彦にとって願ってもないものだった。
 瑞希は貴彦より上のレベルの成績を誇っていたし、なにより一年前に同じことを勉強しているのだ。教わるのにこれほど適任な人もそうはいない。
「どうかな。私はお礼をさせてもらえるのかい?」
 相手を窺うような、余裕ぶった物言いで瑞希は問う。
 お礼をしてもらう側だというのに、貴彦はなぜか自分のほうが立場が下になったような気分になる。
 だが、それはそう悪くはなかった。
「はい。それじゃ、お願いします」

 勉強を教わるのに貴彦の机は小さすぎたため、二人は今隣の部屋から持ってきた小型のテーブルの前に向かい合って座っていた。
「最初に言っておくと、私も数学はダメだからね」
 他の教科では抜群の成績だった瑞希だが、唯一苦手としているのが数学だった。
 貴彦も決して得意とはいえない科目なのだが、瑞希はそれを上回るほどに不得手としていた。
 だが、貴彦はそれを意に介さずに参考書を用意する。
「ああ、数学は平気です。それより英語が問題ですね。どうも性に合わないんですよね、これは」
 テーブルに参考書を広げて見せるが、瑞希の視線はテーブルではなく貴彦に注がれていた。
 まっすぐに貴彦を見つめる両の瞳には、疑問の色がはっきりと浮かんでいる。
「私の記憶では、キミも数学は苦手としていたはずだが?」
 瑞希がそう思うのも無理はない。そう言われるだけの点数を、貴彦は今まで取っていたのだから。
 だが、今の貴彦にとっては、というとはいえないまでも、決して足を引っ張るようなものではなくなっている。
 素直に認められない瑞希にために、休み前に解いた模擬テストの答案を見せることにした。
「……本当に、いい点数が取れているな」
 答案用紙の上部には、赤いペンで大きく二桁の数字が書かれている。
 今の段階で取れる点数としては、申し分のない数値だった。
 ここまでされては、もはや疑う余地はなかった。
「ひょっとしてこれは、前に言っていた強い味方のおかげ、なのかな?」
 瑞希が問う。
 二日前に貴彦が話していたことを、どうやら思い出したようだ。
「まあ、そういうことです」
 むぅ、と瑞希はうなる。
 実際に貴彦の数学の能力は、彼女の記憶しているものを確実に上回っていた。
 一体どんな魔法を使えば、ここまでのことができるというのか。
「確かにこれだけできるのなら、キミの自信に満ちた態度もうなずける」
「ホント、自分でもビックリですよ。俺ってやればできる男なんですね」
 誇らしげに貴彦は胸を張った。
「こんなことができるなんて、一体どんな人なんだ? その、キミの味方というのは」
「どんな人、か。なかなか説明が難しいですね」
 言いよどむ貴彦。だが、それでは瑞希は納得しないだろう。
 よほどその人物が気になっているのか、テーブルに身を乗り出すようにして、貴彦の言葉を聞き逃さないために耳を済ませている。
 貴彦はとりあえず、思ったことを順に口にすことにした。
「まず、不思議な人ですね」
「いきなり抽象的だな」
「ほかには………なんだろ?」
 いろいろ考えてみても、それ以上の言葉はなかなか思いつかなかった。
 その人物を形容する言葉がないのではない。言いたいことは漠然とあるのだが、それにピッタリ合うような言葉が出てこないのだ。
 埒が明かないと考えたのだろう。瑞希はもう少し限定的な質問に切り替えた。
「その人の年齢は? これならわかるだろう?」
「そうですね。年は、俺より一つ上です」
「性別は?」
「そんなのまで聞くんですか?」
 当然、と瑞希は首肯する。
 黙秘が通用する相手ではない以上、この尋問に最後まで付き合うしかないと理解し、貴彦は肩をすくめた。
「女性です。割と美人の」
 それを聞いて、瑞希は目を細めた。
「なるほど。それでキミもやる気がでた、と」
 なにやら含みのある言葉。
 おそらく瑞希の脳裏には、鼻の下を伸ばしながら勉学に励む貴彦の姿が浮かんでいるのだろう。
「そうだな、他に聞くことといえば…………」
 ピーッ、ピーッ、ピーッ。
「うん?」
 部屋に鳴り響く電子音。その発生源は、貴彦のカバンの中のようだった。
「あ、俺の携帯です」
 そう言ってカバンから取り出したのは、貴彦が高校入学のときから愛用している黒の携帯電話。
 貴彦は折りたたみ式の携帯を開き、内容を確認する。
「メールか。差出人は誰かな〜」  貴彦の目が、字面を追って左右に動く。
 そして最後まで読み終えると、貴彦は携帯を再びカバンの中に戻した。
「誰からのメール?」
 瑞希が指差す先には、たった今携帯をしまったばかりのカバンがある。
「別に、大した内容じゃないですよ」
 そう言ってから、貴彦は自分の失言に気づいた。
 適当な友人の名前でも挙げておけば、それで誤魔化せたかもしれないのに、これでは瑞希に関係のあるものだと言っているようなものだ。
 当然、この目ざとい先輩がそれを見逃すはずもない。
「ねぇ、タカ」
「嫌です」
「まだ、何も言っていないんだが」
「プライバシーの侵害ですよ?」
「だから、私はまだ何も言っていないよ」
 カバンを背中に隠した貴彦は、座ったままジリジリと後退する。
 二人の間に緊張が走った。
 先に動いたほうがやられる。そんな映画のような間の抜けた考えを貴彦は想像してしまった。
「…………」
「…………」
 長く、静かな争い。
 この不毛な戦いを終わらせたのは、根負けした瑞希だった。
「……ふぅ。わかったよ」
 途端に部屋の中の空気が弛緩する。
「少し詮索しすぎたね。そろそろ真面目に勉強しよう」
 その言葉で、貴彦はそもそもどうしてこんな状況になったのかを思い出した。
 改めて、テーブルの上に参考書や問題集を広げる。
 その後はごく普通に英語を教えていた瑞希だったが、時折何か別のことを考えていることに、貴彦は気づいていた。
 

−4−

「さあ、今日も頑張ろうか」
「そうですね」
 今日は貴彦はバイトがないので、昼前からこうして勉強を始めていた。
 とは言ってもまだ五月。それほど真剣にやる集中力はなく、雑談の合間に問題を解くようなものだった。
「じゃあ、先輩は明後日帰るんですか」
「ああ、ちょうど連休も終わりだしね。次に来るのは夏になるかな」
「まだまだ先の話ですねぇ」
「ああ。先だね……」
 梅雨ですらまだ一ヶ月以上先のこの時期に、夏なんて季節は遙か彼方のものだ。
 暑い季節を迎える学生にとって、避けて通れないテストという名の関門もある。
 そんな積み重ねられた事実から見れば、今のこの時間がどれだけ貴重なものか。
 些細だからこそ、大切だと思えるもの。
「……なぁ。タカに聞きたいことがあるんだが」
 どんなに盛り上がっている話にも、切れ目というのは必ず存在する。
 瑞希が質問をはさんだのは、ちょうどそんなときだった。
「はい?」
 指先でクルクルとシャープペンシルを遊びながら、貴彦は耳を傾ける。
「キミは……私のことを、どう思っている?」
 貴彦の手から、シャープペンシルが零れ落ちた。
 余程の鈍感でない限り、今の言葉が意味することは簡単に読み取れる。
 そして、貴彦は鈍感な人間ではない。
「えっと……」
「私は、キミに好意を持っている。もちろん、深い意味でだ」
 淡々と胸中を語る瑞希は、知らないものが見たら冗談だと思うほどに普段と変わらない。
「だから、他の女にキミを取られたくない。今回こっちに帰ってきたのも、それが目的なんだ」
 あふれる言葉は止まることなく、静かに流れ続ける。
「あのコンビニで会ったのだって、絵里に聞いてキミがあそこで働いてるのを知ってたから……」
 それはまるで懺悔にも似た、彼女なりの精一杯の告白だった。
 対する貴彦は、無言のまま立ち上がって、机の引き出しから何かを取り出した。
「先輩、紹介します」
 手に持っているものを、瑞希に差し出す。
 それは木製の、小さな写真立てで、中には一枚の写真が収まっている。
「これが俺の大切な、強い味方です」
 その写真は、ピントが全然合っていない、いかにも素人が撮ったとわかるものだった。
 だが、瑞希には見覚えのある、懐かしい写真。
「まだ、持ってたんだ……」
 貴彦が写真部に入って、最初に撮影したのが、山城瑞希その人だったのだ。
 日に焼けて変わってしまった色が、時の流れを物語っている。
「この人と同じ大学に行きたいからこそ、俺は必死になれたんです」
 照れくさいのか、貴彦の視線は明後日のほうへと向けられている。
 写真に視線を落としたままだった瑞希が、ふっと微笑む。
「そうだったんだ」
「はい、そうだったんです」
 二人は視線を交差させ、笑った。
 理由はどちらも同じ、ただ嬉しかったから。


−5−

 翌日の午後。駅前の喫茶店に、貴彦と瑞希はいた。
 店内は照明が少し薄暗く、静かに流れるクラシックと相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 たまには休息も必要だろうと、瑞希が以前好んで利用していたこの店に、貴彦を連れてきたのだ。
「しかし、絵里は意地が悪い」
 窓際の席で、貴彦の正面に座っていた瑞希は、突然そんなことを言い出した。
 カップを手に取り、コーヒーを一口飲んで、瑞希は言葉を続けた。
「キミに意中の女性がいると聞いていたが、それが私だということはわざと黙っていたらしい」
 昨日の夜、瑞希と電話をしているときに、絵里は笑いながらそう言ったらしい。
 理由はいたって簡単。そのほうが瑞希を焚き付けやすいからだ。
 そしてその思惑通り、焦りを感じていた瑞希は貴彦にその想いを告げた。
「正直、面白くはないな」
「俺は嬉しいですよ。おかげでこうしていられるわけですから」
「嬉しいのは私も同じだよ。だけど、だからこそ面白くないと思うんだ」
 彼女にしては珍しい、拗ねているような声色。
 悪いとは思いつつも、貴彦は口元が綻ぶのを止められなかった。
「まあ、こんなことは本人に言うべきだな。我ながらいい友人を持ったよ、まったく」
 はぁ、と瑞希の口からため息が一つ、こぼれた。
 そして、二人のカップが空になったころ、瑞希が口を開いた。
「……キミには、謝らないといけないな」
 突然のことに、貴彦は何を言われたかに気づくのが一瞬遅れた。
「キミの事についてを勝手に他人から聞き出したんだ。結果がどうあれ、それは謝罪すべきことだ」
 微妙に目を伏せているのは、申し訳なさからくる無意識のものだろうか。
 頭を下げようとする瑞希を、貴彦は慌てて制止した。
「あ、謝らないでくださいよ。別に俺は気にしてませんから」
「キミはいい人だな。でも、これは私のけじめなんだ。だから、謝りたい」
 その言い方をされては、貴彦も無理に止めるのは難しい。
 だが、素直に謝られたらきまりが悪いのも事実だった。
「それじゃあ、先に俺の話を聞いてもらえますか?」
「話?」
「はい。謝るかどうかは、それを聞いてから決めてください」
 そう言って貴彦はコーヒーのおかわりを頼んだ。
 ほどなく、二人のカップが、深い琥珀色の液体で満たされる。
「それで、話って?」
 コーヒーに砂糖を入れながら、貴彦は話を始めた。
「今回のことです。先輩は岡先輩から俺のバイト先を聞いたって言いましたよね」
「ああ。偶然キミのことが話題に出たときに、チャンスだと思ってそれとなく聞き出したんだ」
「それって、俺が頼んだんですよ。自然な流れで、そういう会話をしてほしいって」
「えっ?」
 その予想外の言葉に、瑞希の動きが止まる。
「ひょっとしたらそれをきっかけに先輩に近づけるかなー、って思ってたんですけど、想像以上の結果になりましたね」
 呆然とする瑞希をよそに、貴彦は言葉を紡ぐ。
「ただ、もう連休に入ってるってのを忘れてたんで、先輩を見たときは驚きましたけどね」
 話は以上です、と貴彦は締めくくった。
 真っ白になっていた瑞希の頭に、段々と話の意味がしみこんでいく。
 そして完全に理解したとき、瑞希は怒り半分、呆れをもう半分に含ませた目で、貴彦をにらんだ。
「ようするに、絵里とキミの筋書き通り、というわけか」
「そんなわけで、謝るとしたら俺のほうってわけです」
 ごめんなさい、とテーブルに手を着いて、貴彦は頭を下げる。
 他に客がいないおかげで、その姿は瑞希以外に見られることは無かった。
 一分近くそうした後、貴彦は顔を上げる。
 だが、瑞希は憮然とした表情のままだった。
「……やっぱり、面白くないな」
 当然といえば当然の答え。ただ、本気で怒っているわけではないようだった。
 おそらく照れ隠しなのだろう。瑞希の頬が赤らんでいるのを、貴彦は目ざとく確認していた。
「それじゃあ、何か一つ、先輩の言うことを聞くってのはどうですか?」
 それで全てチャラにしようと、貴彦はそんな提案を出した。
 その言葉に興味を惹かれたようで、ふむ、と瑞希は考え込む。
 貴彦のコーヒーカップが再び空になるまで、その思案は続いていた。
「よし、決めた」
 そう言うなり、瑞希は伝票を持って席を立った。
「タカ、出るよ」
「え? は、はい」
 慌ててその後を追う貴彦。
 瑞希は清算を済ませると、そのまま店の外へと出た。
 五月の空は晴れ渡り、暖かな光が全身に降り注ぐ。
「それで、結局俺は何をすればいいんですか?」
 瑞希に続いて店から出てきた貴彦に、彼女は笑いながら言った。
「しばらく会えなくなるから、今日はキミの奢りでデートをしよう」
 貴彦の手を引き、瑞希は歩き出す。
 強引な人だなと思いつつも、まんざらではないと思っている自分に、貴彦は苦笑するしかなかった。

「あ、それともう一つあるんだった」
 瑞希が長い髪を翻し、貴彦に振り向く。
「私のことを、『先輩』じゃなくて名前で呼ぶこと」
「言うこと聞くのは一つだけですよ」
 当然、本気で言ってるわけではない。ただ、瑞希がどんな反応をするのか見たかったのだ。
 だが、そんな貴彦の意地の悪い言葉も意に介さず、瑞希は余裕の表情のまま言ってのけた。
「わかってるさ。だから、これは『お願い』だよ。キミの彼女としてのね」
 返す言葉のない貴彦と対照的に、瑞希は楽しそうに笑う。
 貴彦にとって最高の味方であるこの女性は、どうやら最強の敵でもあるようだった。




[終]

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