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それから少し経った頃。鯉墨幸太郎は喫茶『HIDEKI』にいた。
幸太郎は時間があると良くここに来る。ここの雰囲気が気に入っているのだ。
そして、今彼は困っていた。
目の前には靖子が座っているのだ。その大きな目で幸太郎をじっと見つめている。
幸太郎が一人で休息を取っていると、偶然彼女もここへやってきたのだ。
「偶然って怖いわね」
ふいに靖子が口を開いた。
「そうだね。さすがに驚いたよ」
確かに靖子を何度かここに連れてきたことがある。だが、まさかこんな事があるとは思っていなかった。
先程から二人の間には気まずい空気が流れていた。
「昨日、耕二君に会ったよ」
幸太郎の方から話し掛けてみた。靖子の表情は変わらず、じっと幸太郎を見ている。
「なかなか賢い人だった」
そう、とだけ靖子は答えた。
「けど本当にいいのかな、こんなことで」
靖子がやろうとしていることは、彼を不幸にするかもしれない。
「出来る事なら、こんな風にはなりたくなかった」
自分自身に言い聞かせるように、靖子が言った。
「一体、何でこうなっちゃたのかな」
その問いかけに対する答えを、幸太郎は持っていない。
いや、持ってはいるがそれを口にしないだけかもしれない。
「私そろそろ行くわ。またね、幸太郎さん」
靖子はテーブルの上に自分の分の紅茶代を置き、立ち上がった。
「そうだ、一つ聞いてもいい?」
幸太郎を見下ろしながら靖子は言った。
「私は、あなたを信じていいのよね?」
おびえた子供のような目で幸太郎を見つめている。安心させるために、できるだけ優しい声でそれに答えた。
「ああ、何も心配要らないよ」
それを聞いた途端、靖子の顔に安堵の色が広がった。そしてそのまま帰っていった。
ふう、参ったな。
一人になった幸太郎は大きくため息をついた。
昨日耕二に言ったように、今自分は理沙と結婚しようと思っている。だが、別に靖子を嫌いになったわけではない。
むしろ愛しているといってもいいくらいだ。
自分は政治家だ。スキャンダルの元になるようなことに近づくわけにはいかない。
しかし、それと同時に一人の男でもある。自分の思うままに愛する人と一緒になりたいと思うことも事実だ。
こんな時は政治家にならなければ良かったと、考える事がある。普通の暮らしをしているサラリーマンなら、こんなに悩まないのに。
だが、政治家になっていなかったら靖子に会う事もなかったはずだ。
そんなジレンマに頭を悩ませている幸太郎の所に、誰かが近づいてきた。
「何こんな所で頭抱えてるの。幸太郎さん」
そこにいたのは理沙だった。
先程まで靖子が座っていた席に、理沙が座った。
注文を聞きに来たウェイタ−に、コーヒーを頼むと幸太郎に向き直った。
「さっきね、遠藤耕二に会ってきたの」
突然の事で幸太郎は言葉を失った。
何故理沙は彼の事を知っているのだろうか?
「手切れ金を渡してきたから、もうあの女に付きまとわれることは無いわ。私たち、やっと安心して結婚できるのよ」
理沙がそれを言い終わったころに、ウェイターがコーヒーを運んできた。
そのコーヒーに砂糖とミルクを多めにいれ、理沙はそれを実に美味そうに飲んだ。
「やっぱり、ここのコーヒーはおいしいわ。インスタントとは大違い」
半分ほど一気に飲むと理沙がそう言った。
「理沙さん。さっきの話だけど、手切れ金って?」
幸太郎がそれを聞くと、理沙はニヤリと笑った。
「お父様が、あの女を追い払うために用意してくれたの。思ったよりがめつい相手だったけどね。まあ二人の将来を思えば、仕方の無い事だけれど」
その笑い方をされると、幸太郎は少し不愉快になる。靖子はそんな風には笑わない、ついそんな事を考えてしまう。
それにしても、理沙の父はどうしても娘を自分と結婚させたいようだ。そのためなら手段は選ばない、ということらしい。
「それよりも、式はどんなのにしようか」
今度は少し子供っぽいような笑い方になった。
「あ、ああ」
しかし、幸太郎は上の空だった。
自分は一体どうすればいいのだろうか。このまま、周りが望むような人生を送るのだろうか。
それとも、たとえ周りを不幸にしても自分は幸福になるべきなのだろうか。
もし、幸太郎がそれを望めばそれも可能だろう。その道を選べば、もう引き返す事は出来ないが。
本当に…僕が望むものは…。
「それでね、新婚旅行は…」
理沙に笑いかけながら、幸太郎はここにはいない女性の事を考えていた。
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