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ピピピッ、ピピピッ…
時計のアラーム音が部屋中に響いていた。
パシッ!乾いた音が時計を黙らせ、布団に入っていた誠一は一呼吸置いて布団から起き上がった。
「ふぁああ~」
瞼を擦りながらトイレへと向かった。
「景汰たち、ちゃんと片付けて帰ったんだな。きれいに片付いてる」
姿が無く床が片付いているのを見て、珍しく手間がかからなくてホッとしていた。
いつものようにトイレから出てくると決まって食パンをトースターへと放りこんだ。
「ある意味、いい誕生日になったのかもな…」
着替えながら昨日のことを思い返していた。一人ではなく賑やかだったひと時だった。
チーン!威勢の良いラブコールが誠一を呼んだ!
その音にハッとなってトーストを手に取りゆっくりとかじり始めた。
「今日はとりあえず研究室に…試験期間、教授のお手伝いか」
むなしく独り言を呟きながらトーストをかじる。
朝食を食べ終え、テレビをつけ着替えを始めた。
テレビが人を相手にしない調子で話を進めていく。
『―の天気は晴れ、最近暑い天気が続いてます熱中症に気をつけましょう』
他愛も無い台詞、面白みも無い情報。聞き飽きた。
プツン!すぐさま電源を切る。そして空に近い鞄を片手に家を出ることにした。
「はぁー」
どこか昨日の余韻があるのかもしれない。気だるさが身にまとわりつく。それは強い日差しのせいか。
重い足を大学へと向ける。いつも見かける人の流れ、そして人。いつもバス停で新聞を見ながらドリンク剤をちびちび飲んでいるサラリーマン、何が忙しいのか携帯をずっといじりながら学校に向かう女子高生。禿げた初老の男性いつもベンチで座っている。そしていつもの駅員。
いつも行動を自分も行う。こんな日々に何があるのだろうか。
答えの出ないままいつも考える。
プシュー…
電車が扉を開く。大学最寄の駅、いつもと変えることの無い日々。
「変わらないのは、俺のせいか―」
一人呟くがやはり答え無くただ大学へ到着した。
研究室についてみたが鍵がかかっていた。
「先生、来てないのか?おかしいな」
この研究室の教授は人一倍早起きで、早々に来ると学生が来る頃には机の上に本の束が積んであり、読書にふけっていた。大学では工学部の変わり者教授として有名だった。
しかし今日は来ていない。昨日は教授は用事とかで遅かったらしいけど、今日は聞いてない。
「食堂で時間をつぶすか」
渋々昨日と同じ道どりで食堂へと向かう。
食堂にはおばちゃんたちが昼のピークに向けて忙しげに準備を進めている。それを横目に自販機でコーヒーを買い、椅子に座り込んだ。
「予想外だったな、これじゃぁ何しに来たか…」
「暇してるの?」
後ろから女性の声が聞こえてきた。おそらく誠一に向けてのことだろう。
「はっ?」
誠一はただ無防備に振り向いた。それが失敗だった。頬に突き刺さる感触。
「ははは!うわ単純!!」
女の指が案の定誠一の頬に刺さっていた。
「で、いつまでそうしてるんだ?」
誠一が無愛想に答える。
「ひどいなぁー久しぶりに会ったのにその態度…傷ついちゃうぞ!」
バンッ!
女は指を引っ込めたかと思うと言葉とは裏腹に軽く頭をどついた。
「…相変わらず勝手な奴だ」
頭を擦りながらだが決して感情は高ぶらない。
彼女の名前は柳澪、高校時代の同級生。当時は別に話をすることも無くお互い顔を知っている程度のはずだった。この一方的な会話は現在の同じ大学に入り、澪が妙な仲間意識を持ったことが原因だった。
「どうしていつもそんな無愛想なのかなーこんな美人が相手してるんだぞ!少しは喜べ」
再び頬に指を突き刺す。先ほどよりも力がこもっている。澪の言葉は嘘ではない、その容姿は綺麗にまとまり背は高くスタイルがよく実際雑誌に取り上げられたことがある。大学内でも有名でありファンクラブなんかも存在するらしいが、誠一にはどうでも良かった。
「なんとも…」
缶コーヒーをすすりなおした。
「ひっどーい…ねぇ、研究は何してるの?」
澪は言葉ほど傷ついていないのが誠一にも分かる。彼女自身誠一と話せばこうなることは分かりきっていた。それを気にせずに絡んでくるのは彼女の性格がなせるものだろうか。
「温度変化による機械の処理速度の変化について」
到底文型には関係の無い話を持ち上げる。
「何それ?楽しいの?で終わりそう?」
澪は首をかしげながら向かいの席に座って向かい合う形になった。
「…まだだ、当分終わらない。こんな話をしたいのか?」
誠一は澪の顔を見た。
「ん?いやーそれがさ、明日から試験期間に入るじゃん。それで数学があるんだけど良く分からないなーなんて…エヘヘ」
澪はわざとらしい笑みを浮かべている。本来四年目になると研究か論文だけで済むはずなのだが。
「単位落としたか…」
「そうなのよ~ここで会ったのも何かの縁じゃない?ねぇ教えてよ~」
澪はいかにもこびた態度で誠一にお願いしている。
「却下」
聞くはずも無い。
「ううう、乙女の純情を弄んでおいて」
意味が理解できないことを言って今度はうそ泣きを始めるが、それは誰の目にも分かる。
「勝手に泣いてろよ、俺は…あれ?今日って何日だ?」
誠一はあることに気がついた。
「なによ」
澪は不機嫌そうに返事をした。
「お前、明日から試験が始まるって言ったよな?今日は23日だろ?今日から試験期間じゃないのか」
誠一は朝の自分の予定の復唱を思い出していた。
「え、何言ってるの?22日だよ、試験期間は明日から。疲れてるの?」
クスクスと笑いながら誠一の顔を覗き込んだ。
「俺の誕生日は7月22日だ」
誠一は昨日のことを思い出す。
「なに、祝って欲しいの?それならそうと―」
澪がどこか嬉しそうに答える。
「いや違う、俺はたしかに確認していた。昨日だ、昨日は22日だった。じゃぁ今日は―」
だんだんと声のボリュームは小さくなり、独り言を呟きながらいろいろ考えていた。それを不安げに澪は見ている。
「どうしたの?体調悪いの?」
誠一のおでこにそっと触れる。
ガタンッ!
触れた瞬間誠一は立ち上がった。
「ご、ごめん。そんな嫌がるなんて」
澪が動揺して誤るが誠一には届いていない。
「新聞だ、図書館に新聞があるはずだ。今日のが!」
誠一は明らかに動揺していた。今日が昨日ならば自分は、昨日は自分は何をしていたのか。もはや混乱していた。
「尾下電気の説明会は22日のはずだ21じゃない」
すぐさま図書館に向かった。
「ちょっと!」
澪は状況が読めずにその場であっけらかんとしていた。そして一人になっても暫く呆然としていた。
図書館、大学の構内にある最も古い建物。誠一は早足で新聞を掲示している所へと向かった。
「今日の日付…」
新聞の表紙を見る。日付は7月22日。
「おばちゃん、これって今日の?」
傍にいた図書の管理をしている人に声を掛ける。
「んー、そうだよ。日付を見てごらんよ。22日になってるでしょ?」
おばちゃんが誠一の新聞の日付を指差して答える。
「そ、そうですね…」
納得は出来ないが誠一はとりあえずうなづいた。おばちゃんは不思議そうに首をかしげながら自分の作業に戻っていく。
「じゃぁ俺は昨日は何をしていたんだ?」
新聞をたたみながら、考える。
「もし今日が22日なら、先生は昼過ぎにやってくる。そして俺は説明会に出席している。景汰はいつもの重役出勤」
誠一は図書館を後にしてどこへ行くのか、ただ構内をふらふらしていた。
「だとすると午後まで研究室には入れない」
誠一は動揺しながらも冷静だった。納得はできないが、もし今日が昨日ならばと思い出していた。
「見つけた!」
正面から大声で叫ぶ女がいた。食堂でわかれた澪である。
「ねぇ、急にどうしたの?」
「別に…」
無愛想に答える。
「…なぁ」
誠一が一呼吸おいて声を掛けなおした。
「なに?」
短い会話が続く。
「やっぱいい」
誠一は今の自分の状況を話そうとして悩んだが結局やめた。
「何よ!もったいぶらないで教えてよ」
澪が気になるといった感じで誠一のシャツを引っ張る。その仕種は可愛らしくファンから見たら誠一は確実に攻撃対象になるだろう。
「数学、明日か?」
自分が午前中暇になったのを思い出す。
「そうだよ、だから助けが欲しいんだよ」
澪が素直に答える。
「午前中なら少しは教えてやれる」
「本当!じゃぁ準備するから八〇一講堂に来て!」
澪は嬉しそうに答えるとそそくさと走り去っていった。もはや気が変わった理由やさっきまでの会話を完全に忘れていた。
「単純な奴」
口にはそう言っているが何処か安心するような、落ち着くような感情にかられていた。
「とりあえず、行くか」
ちょっと考えて再び歩き始めた。
「何かの夢…なのか、それとも…」
答え無き疑問。時が来れば解決されると誠一は考えた。甘い考えをしていた。
誠一は八〇一講堂の前に来た。空いた鞄を片手に入り口に立つ。
「何突っ立ってるの?早く入りなよ」
正面の扉が開くとその目の前には澪が待ちわびたといった感じで出てきた。
「ああ」
強引に引っ張られ、体制をくずしながら講堂の中へと入っていった。
一番前の席に明らかに教科書等が広げられ、準備万端といった様子で澪は席に着いた。
「それで、どこを教えればいいんだ?」
誠一は隣の席に着いて教科書を手に取った。が、目は辺りの様子を見ていた。人は後ろの席に同様に勉強している学生が二人いるだけだった。
「ん、試験範囲全部!」
無茶苦茶だ、それは澪自身も分かっているのだろう。本心は勉強ではない。だが誠一には理解できない。
「少しは自分で勉強しろ」
そう言いたいのはもっともだった。
「じゃあ、ここの微分方程式の解き方は?」
苦肉の策とも見える質問。澪は別に苦手なわけではない、ただ時間をかせぎたかった。少しだけでも長くいたい。
「それは―」
そんな思惑を知る由も無くただ、まじめに誠一は教えることにした。
二時間は過ぎただろうか。
「ふぁあ~」
大きなあくびが講堂に響く。静かな空間がよりそれを強調する。
「大きなあくびだな。ちゃんと聞いてるのか?」
誠一がやる気の無い澪を見て聞く。
「ちゃんと聞いてるよ~」
澪はいかにも眠そうな眼で誠一を見つめている。
「聞いてたのか?」
あからさまに誠一を見ていて話を聞いてるようにはみえない。
「まぁいい、そろそろ終わりにしよう。思ったよりも出来るし、最初から必要なかったみたいだな」
誠一は教科書をたたみ、自分の鞄に手を伸ばした。
「え、ちょっと待ってよ。お昼おごるから、待ってよ!」
澪は目を覚ましたようにはっきりと答える。
「別にいい、研究室に行きたい」
誠一は疲れていた。別に大したことはやっていないが、どうしてか精神的に疲労していた。
「いいじゃん少しぐらいなら!」
強く袖をつかむ。
「……」
身動きを封じられて誠一はただ黙る。誠一の顔はどこか迷惑気だ。
「ねっ!」
無邪気そうな顔をして誘う。その仕種はもはや計算を超えている。
「…分かったよ」
誠一ももはやこの手の流れには適わないのを認めた。
「決まり!!じゃ食堂に行きましょ」
そう言うと澪はあっという間に教科書類を片付け、引っ張るようにして講堂をあとにした。
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