−3−
………かち。
誠一はマウスとキーボードを叩く手を止め、両方の指を組んで、前に伸ばした。ペキペキペキ、と間接が小気味いい音を立てて鳴る。
「うぅー……………はぁ」
時計を見ると、四時四十五分を少し回った所。昨日までの『模擬練習』で一時間ちょっと短縮したことになる。
卒論の文章は内容を一字一句覚えているわけではないのだが、これで同じ内容を打つのは四度目だ。
確か、穴を掘って、掘った穴をまた掘り返した土で埋める、という作業を延々と繰り返すと精神に異常をきたす、とか言う拷問か何かがあった気がする。それに似ている。
いい加減、徒労に思えて嫌になってくるが、そこはタイムアタックだと思うことにした。早く終わった分だけ、次の行動に移ることができる。こうなった以上、少なからず受けられる利点だ。
「………」
ただ今は、論文が終わってしまったら後は待つだけの誠一にはやることがない。
あの異常なメッセージは多分、自分の論文の内容に比例して出てくるものではないだろう。出るとしたら、六時まで待たなければならない。
続きをやることも考えたが、『明日』がまた似たような状態になるのなら、それも徒労だ。そこまでして論文を詰めるやる気は、今はない。
ひとまず、出来たところまでを保存し、ついでに媒体にコピーする。
コピー中のパソコン画面を見ながら、椅子にもたれかかる。『いつでも折れる用意は出来てまっせ!』と言わんばかりにギィィ、と末期的な音を立てて背もたれが鳴く。
やることがなくなってしまうと、何か、手持ち無沙汰だ。
「飲み物でも、買ってくるかな」
そういえばこの時間、一番最初の日も飲み物のコーヒーが途中でなくなり、少しイライラしていた。かといって卒論のキリも悪く、中途半端なところで抜けたくないと思っていたら、結局景汰を背後に迎えることになったのだ。
コピー完了後、媒体をパソコンから引き抜いて、誠一はパソコンの電源を落とした。
研究室は、研究室全体の大部屋と、個人使用の小さなブースの仕切りがいくつかあり、そこが研究生独自に割当られたスペースとなっている。大学でも変人と名高い教授だが、研究自体は世界レベルで評価されているらしく、他の研究室に比べて、部屋自体がそれなりに広い。
「客は滅多にいないが…………」
広い割に寂しい研究室なのは、その辺が理由だろう。今は研究生の姿もない。研究室に入るのは3年次からだが、下級生は試験勉強で忙しいだろうし、同期の面々は卒論を早々に書き上げ、多分今頃、食堂辺りで気の合う仲間と学生生活最後のバカンスの予定でも立てているのだろう。
わずかに人の気配がするのは、多分教授のブースだろう。かすかに、何か作業をしている音が聞こえる。変人たる所以なのか、もっと広く使えばいいものを、教授は研究生と同じだけのスペースで作業している。
曰く、『大体、実験てもっと広い場所借りてやるから、そんな広い部屋、必要じゃないしね』とのことだ。研究スペースが欲しい他の研究室が聞いたら暴動が起きかねない。
特に用事もないので、声をかけるのは辞めた。ブースは、スポーツ選手で言うロッカーみたいなもので、研究生同士では一切、手を出さないのが暗黙の了解だ。
「………ん?」
大部屋の、白い座卓を通り抜けようとしたところで、テーブルにA4サイズの紙が一枚置いてあるのに気づいた。一目見て、ポスターだと気づく。
『来たれ! 若さあふれる君を待つ! MRI研究会』
ポスターは、ずらっと十五人くらいが並び、全員が右手の人差し指を高々と上げて、同じポーズをとっていた。構成はまあ………評価するのは控えよう。
よく見たら、確かに佐倉も端のほうに映っているから、多分これが同好会………じゃなくて研究会のメンバーなのだろう。佐倉は髪が金色になっている。昨日見たときは茶色だったのだから、最近撮ったものじゃないのだろう。吉田が居ないのは研究会に参加する前だったか、多分この集団とこのポーズをとるのが嫌だったからに違いない。
そして、チラシの真ん中には、見慣れたバカ面が人差し指を高々と上げていた。
「………ここも汚染されてきているのか」
もしかしたら、既に研究会のメンバーがここにいるのかもしれない。
誠一はポスターを丁寧に四つ折りにして中身が分からないようにすると、『シュレッダー行き』と書かれた場所に置いて、研究室を後にした。
−−−
がこん、と、オレンジジュースが自動販売機から吐き出された。取り出して、誠一は顔をしかめた
「………ハズレだ」
大学七不思議で、学食前の自販機は重力加速度とは別に不可思議なチカラが働いているようで、ごくたまに自販機が悪意で取出口に叩きつけたかのように、缶の底か頭の辺りがベコリと凹んだものが出土する。景汰が前に引き当てた時に『ハズレ』と呼んでいたので、誠一もそれに倣っている。
「しかも大ハズレかよ………」
ハズレの中でも、飲み口のところがジャストミートすると、形状によってはまず飲めない。そしてそれを、大ハズレ、もしくは大凶と呼ぶ。
中身を予想するに、相当シェイクされているだろう。というか、飲み口が凹んでいるのに、プルタブのところが開かずに、よく中身が零れなかったものだ。
「………」
喉が渇いているだけに、余計に悔しい。
ごん、と食堂のテーブルにオレンジジュースを置き、どっかり座る。食堂はかきいれ時を過ぎて、いくつかのテーブルに、仲良しグループが輪になって色々やっているようだ。微弱だが、クーラーが利いているので離れがたい誘惑がある。
ちなみに研究室は、研究棟と呼ばれる研究室群の建物の契約電力がギリギリなので、各研究室で示し合わせて、非常時を除いて冷房暖房設備はあってもつけられないことになっている。誠一の研究室もクーラーはあるが、一年と少し在籍しているもののリモコンは一度見たことがない。教授がどこかにやったに違いない。
「あ、こんなとこにいた」
いきなり後ろから声を掛けられるが、声で分かったので振り向かない。
「澪か」
「何よその言い方は。ほら、学園のアイドル、麗しの柳澪さんがやってきたんだよ?」
わざとらしい振る舞いに、誠一はハッ、と鼻で一度笑った。
「学園のアイドルねぇ………」
「何よその顔。まったく、おとなしく卒研してるかと思ったら研究室にいないんだもん。教授さんに聞いてもわかんないって言うし」
誠一の前に荒々しく陣取りながら、澪はバッグの中からタオルを取り出して汗を拭き出した。
「ふー。やっぱりここは涼しいや」
「昼飯がアレだったから余計にな」
「でもおいしかったでしょ?」
「まあな」
「あ、そうだ。それより、色々聞いてきたよ」
バッグから少し大きめの手帳を取り出して、ペラペラとめくりだす。
「へぇ………なんだ、真面目に調査してたのか」
「暑いなら、水でもぶっかけてあげましょうか、鳳くん?」
笑顔が、笑顔になってない。ミスった。
「遠慮します。失礼いたしました」
「一言多いんだよ、鳳は」
「じゃあ、お詫びにコレを進呈しよう」
先ほど自販機で買ったオレンジジュースをずずい、と前に差し出す。
「あれ、なに。コレ開いてな………あぁ」
飲み口のところと視線が合って、澪は納得したように言ってから、缶を持ち上げ、いろいろな角度からじろじろ見た。
「他の容器に移せば大丈夫じゃない?」
「確かに、漏れてはいないようだな」
「よし、私もなんか買ってこよー」
「いやいや、これやるよ」
「いらない」
飲み口の凹んだオレンジジュースを誠一の前に戻して、澪は足早に自販機に駆け寄ると、なぜかどんよりした顔で帰ってきた。
「なんか、今日は機嫌悪いみたいだよ………」
ごん、とテーブルに叩きつけられたサイダー缶は、飲み口のところが危うげに、凹んでいた。
−−−
「で、調査結果を聞こうか」
食堂のセルフサービスの水を入れるプラスチック製のコップに、オレンジジュースを半分ずつ注いで、誠一は先を促した。澪が買ったサイダーは、色々危ないので保留した。
「吉田さん、呼ばなくていいの?」
「また後で聞くことになるから、いいだろ」
「二度手間な気もするけど、まあいいか………」
諦めたように言って、澪は手帳に視線を落とす。
「えーとね、まず私たちと同じ、って人はいなかったよ」
「どうして分かるんだ?」
「心理テスト、って言っていくつか質問して、カマかけた」
「………恐ろしい」
もしかして、自分も知らないうちにテストされていたりするのだろうか。
誠一がそんなことを考えていたら、澪が心の中を見透かしたように、にやりと笑った。
「そうだよ。恐ろしい女だよ〜、私は」
「分かった。これからは距離を置いて接することにしよう。なんとかは危うきに近寄らず、だっけ」
「ちょっ、それはなし!」
身を乗り出して抗議してくる澪を、両掌で押し返すジェスチャーをしてなだめる。
「分かった分かった。お前が危険な女だということは十分に理解した。話が脱線したから、話を戻そう」
「むぅ………」
釈然としない唸り声を上げて、目の前の危険は再び手帳に目を落とす。
「で、さらに質問した人に大学とか周辺で、なんか面白い、変な、おかしな話はなかった? って質問したんだけど」
ぺらり、と軽い紙をめくる音がする。
「半月前、バイト先の先輩でこの大学の人が、閉店処理してた矢先にいきなり倒れて救急車を呼ぶ騒ぎに」
「確かに奇妙だな。原因は?」
「なんか首の頚椎を損傷して………」
「………M研か」
「多分………」
メルヘンなのは、頭の中だけにして欲しい。
というか、なんでブレイクダンスが流行ってるんだ、あの団体。今度景汰にでも聞いてみよう。
「次。一ヶ月前だけど、なんかテニスサークルからラケットごとカゴが盗み出されて、どこかの棟から落とされて、一人怪我しそうになったって」
「それは事件だな」
「大学も相当騒いだし私もそういう事件があったの知ってたけど、結局誰がやったんだかはわかんないみたい。怪我しそうになった子がそのテニスサークルの子だったから、テニスサークルに恨みのある人物の犯行じゃないか、って」
「危ない奴もいたもんだな」
「ちょっと前過ぎだし、今回の手がかりになるかは怪しいかなーって思ったんだけど、調査結果だから一応報告しておくよ」
確かに、そこまで直接的なやり口でどうにかしようとする犯人が、仮に誠一や澪に恨みを持っていてこんなことをするとは思えない。今回のはどういうからくりがあるにせよ、まわりくどすぎる。
「次、三日ほど前に、814教室の前で変な声を聞いた学生が数人」
「814? って言うと………この前お前に、数学教えた教室の上か」
誠一が言うと、澪がむっとした顔になる。
「私は教わってないよ」
「え? あ、そうか………」
あれは、二周目の時の出来事だ。今目の前に座っている澪は三周目以降の記憶しか持っていないから、覚えているはずがない。
「悪い、お前は知らないんだよな」
「なに、前の私とは、そんなことしてたわけ?」
じろりと睨まれて、誠一はあわてて視線を反らす。あれはむしろ、澪によってなかば強制的に巻き込まれたクチなのだが、今何か言うと余計なことまで言ってしまいそうだ。
澪を含めて、人間は相手のどんな言葉に反応するか分からない。それが怖い。
「ああ………まあ」
「いいなぁ………」
「は?」
「あ、ううん、なんでもない」
今度は焦った顔になって、澪は手帳で顔を伏せた。ホントに百面相だ。
「それで、時間は?」
「それが、その時間、聞いてる人によってマチマチなんだよね」
「マチマチ?」
「午前中だ、って言う人もいたし、お昼時だって言う人も、夕方だって言う人もいた」
「どんな声なんだ?」
「なんかその………艶っぽいというか」
「艶っぽい?」
反復すると、澪が視線を外に反らした。
「その………もしかしたら、大学内でその、イケナイコトをしてたのかなーって」
「あぁ………そういうことなら今回とは関係なさそうだな」
ただでさえわけの分からない状況なのだ。要らない情報は切って捨てる。誰と誰がくっつこうが離れようが、今の誠一には関係ない。
「他にはないのか?」
「これはちょっと微妙で眉唾だけど………鳳の居る工学部研究棟の噂、知ってる?」
「噂?」
オレンジジュースを一口飲んでから、澪がごほん、と一度咳払いをして、前置きする。
「ほら、工学部の研究棟って、なんでか冷暖房使えないじゃん?」
「ああ、あれは大学側が電力会社と契約している電力量が低いからだろ」
工学部はただでさえ電気を使う機材が多い。昔からの伝統だ。
「ちっちっち、違うんだよ、それが」
澪の得意げな顔に、ちょっとだけ腹が立つ。
「違うって、何が?」
「工学部は、前々からその研究用電力については予算を組んだり、大学側と折衝して、全部屋でそれなりの冷暖房を使ったところで少し余るくらいの電力量を契約してるハズなんだって」
「じゃあなんで足りなくなるんだ?」
「そこが謎なんでしょ。で、話が面白いのここから」
ペンでとんとん、と手帳を叩きながら、澪は続ける。
「八年前に居た先輩達が、どうやらエコをテーマにして、工学部の研究棟に潜む無駄を調べようとしたことがあるみたいなんだけど、失敗してるんだよね」
「失敗?」
確かに、工学部は予算の取り合いが各研究室ごとに激しい所が有るから、そんな調査をされて、実質的な値が出てしまったら新たな火種になりかねない。
協力的なところは少ないだろう。
「うん、調査中に、何かに色々妨害されたみたい。でも卒論テーマだから調査も根気よく続けられた。そして、妨害にめげず調査が終わった時、彼は愕然とする」
澪の語り口が怪談じみてきた。はじめに眉唾、と言ってたのはこういう筋書きを用意していたからだろう。
澪は誠一の反応がないのを見て、再び口を開いた。
「調査結果は、当時の各研究室が大体使用している合計量を試算しても、到底ギリギリに及ばなかったんだって」
「それじゃ何だ、研究棟の消費電力がギリギリだって話が嘘だってことか?」
「それか、研究棟には何か、秘密の研究室があってだね………」
「バカバカしい」
話に付き合いきれなくなり、誠一は両手を後ろに組んで、椅子にもたれかかった。
「前置きしたでしょ、眉唾だって」
「それにしても話が荒唐無稽すぎる。秘密の研究室なんてありえない」
「でも、説明つかないんだよ? 気になるじゃん」
「陰謀論ね………」
疑って掛かればキリがないし、それに付き合っている暇もないし興味もない。どうしてもその陰謀を解き明かすなら、一日じゃ無理だ。
「それで終わりか?」
「うん、まあ………一段落したから、そっちに何か進展はないかなと思ってみたんだけど」
「残念ながら、卒論の今日の分が今までよりも早く終わったことくらいだな」
「メッセージは何時に出るんだっけ?」
「六時頃だな………といっても、正確な時間は分からないが」
澪に言われて、今度は正確な時間を計っておこうと誠一は思った。時間を聞かれて、ふいに学食に備え付けの時計を見ると、なんだかんだで五時半をいくらか回っていた。
気が付けば、もう夕暮れが終わりに近づいている。空が濃く黒の混ざったオレンジになっていた。
「なあ」
「ん? なに?」
オレンジジュースを飲み干した澪が、サイダーに手を伸ばしたところで、手を止めた。
「お前は昨日、何してたんだ、今頃」
「昨日って………7月21日? それとも、前の7月22日?」
澪がほのかに笑う。こういうやりとりには今日一日で大分慣れたようだ。
「言い方が悪かった。前の22日だな」
「んー………何してたかな」
視線を宙に泳がせながら、澪はサイダー缶を開けた。
あまりに悲惨な缶の形状だから中身が噴き出すかと思ったが、時間が経っているせいか、開ける音に比べて泡は少なかった。
「五時ねぇ………ご飯食べたのは六時近かったから………多分、電車で移動中だったかな。電車で四つ行った縄島駅に面白いお店があるって情報があって、そこに食べにいったんだけど………料理はいまいちだったけど、あのサドンデスってお酒はおいしかったなぁ………」
味を思い出しているのか、澪の口元がだらしなくにやける。
誠一も酒は飲むが、"突然死"なんて危ない名前の付いた酒を酌み交わす気はない。
「楽しみが一つ、減っちゃったなぁ」
そう言って、澪は机に突っ伏した。
「なんで?」
「だって、私、このまま元に戻ったら、一緒にあのお店に行った人たちと、お酒を飲んでないことになるんだよ?」
「味を記憶していれば十分だと思うが?」
「それじゃ面白くない。誰とも共有できない思い出持ってたって面白くな………」
澪の動きが止まった。サイダーを注いだコップが澪のひじにぶつかりそうだったので、コップをこちらに引き寄せる。
「………どうした?」
「ごめん」
顔を伏せたまま、澪は言った。
こちらの方が「周回数」が多いことに対しての、今の発言のことだろう。
「別にいい」
「なんで………こんなことになっちゃったんだろうね」
声のトーンが沈んで、顔を上げた澪は少し頼りなさげな表情になっていた。
「鳳は一人の時、怖くなかったの?」
「別に………怖いとは思わなかったな」
繰り返される一日がいつもと同じなら、日常って奴は「いつもと同じ」ことだ。そういう定義じゃなかっただろうか。時間の流れがないだけで、これは厳密な日常って奴と、そう変わらない気がする。
ましてや、寂しい毎日だと自覚しているから余計にそう思う。いつも同じでも変わらない。もしかしたら、尾下電機の説明会やテストがなかったら、一日くらい平気でやり直していたような気がする。
「私は今日………怖かったよ」
誠一側に寄せたコップを引き寄せてから、澪は両手の指を祈るように組んだ。
『四周目』が始まって、あの取り乱しようだ。確かに錯乱に近かっただろう。誠一や、吉田が居なかったら、もっとひどいことになっていたかもしれない。
「大丈夫だ。俺も吉田さんも、居ただろう?」
「うん………」
「その点を考えれば、俺が一番最初、と言うのは良かったのかもしれないな」
「うん」
軽いため息混じりに冗談を言うと、澪が軽く笑った。
「よし、それじゃそろそろいったん研究室へ………」
戻ろう、と言おうとした瞬間、誠一の携帯が鳴った。
誠一の携帯を鳴らせることのできる人物は、限られている。なぜなら、電話番号の交換など必要最低限しかしていないから、相手が知らない。
通話相手を知らせるディスプレイには、『司馬景汰』と表示されている。
「………景汰?」
これから会う相手だから、意外だった。あまりに今日の流れを変えてしまったから、もしかしたら、この後現われず、いきなり夜の宴会の電話が来たのかも知れない。
とりあえず通話ボタンを押して耳に当てると、景汰の声よりも先に、通話先の後ろで鳴る、変な音が気になった。甲高い音が、一音だけずっと続いている。
まるで、ドラマで見た心停止の音のようだった。気持ちのいいものではない。
『おう、誠一か?』
「ああ………なんだ?」
『今、お前の研究室にいるんだけど、お前今どこにいるんだ?』
「研究室って………なんでお前、そこにいるんだよ?」
時計を見る。まだ五時四十分だ。
やはり予定と違って、少し繰り上がっている。景汰が現われたのは、過去の三周とも、六時少し前だった。十分以上待つ気がないと彼自身が言っていたから、五時五十分に来たとしても、景汰がの登場時間まで十分近くもある。
『なんでって………どうせ今日も寂しく卒研やってるだろうお前の様子を見に来たんだけど、見事にいないからさ………それよりお前のパソコン、今、心停止みたいな音で鳴いてるぞ。湖槻教授もいないし、俺下手にいじれないから、伝えとこうと思って』
メッセージが出るのはさらに先だ。どちらも来るのが早すぎる。
「今から行く! 景汰、ついてはお願いがある」
あまりに大声を出したので、学食の遠い席に陣取っていたグループが、何事かとこちらを見ていた。立ち上がって視線を反らし、学食の出口の方を向いて話す。
『なんでい、改まって』
「多分、これから俺のパソコンに変なメッセージが出ると思う。それを書き写すか覚えてくれ」
『急だな………えっと………ああ、出てる出てる………どれどれ』
「そのまま読んでくれ」
『It's no use crying over spilt milk………Take a road closed.
system condtion check - result
section1.OK - continuation,
section2.No Connection,
section3.NG - Request Failed,
section4.NG - Request Failed,
section5.OK - continuation,
section6.OK - continuation,
section7.OK - continuation』
「英語、書き写せるか?」
『大した意味じゃねえぞ………最初は、覆水盆に返らず、閉じた道を行け、かな?』
「え………英語できたのか、景汰」
『軽くバカにしてるな、お前………前の彼女が別れる時に、短い訳で「Spilt Milk」って言ってたから、調べたんで覚えてたんだよ』
景汰がさらりと自分の地雷を踏みつけた瞬間、電話口の向こうから鳴っていた甲高い音が病んだ。
『おわ、電源落ちた』
「そういう仕様なんだ。ありがとう、今から向かうんでちょっと待っててくれ」
『分かった。素敵なお土産を期待して待つ』
「そんなものはない」
誠一は会話を切った。
「何か、あったんだね?」
声に振り向いて見ると、澪は既に立ち上がって小脇にバッグを挟み、真剣なまなざしで睨んでいた。先ほどまで散らかっていたものは全て片付けられ………飲み掛けのジュースもキレイになくなっていた。
「吉田さんにも連絡しといたから、すぐ来ると思うよ」
まったく、用意のいいことだ。やることがない。
この非常時に、自然と口の端が緩んでいることに気づいた誠一は、ほんの少しだけ気持ちが楽になったような気がした。
「何してるの、早く行こう?」
「………ああ」
先行する澪に急かされるまま、誠一は食堂を後にした。
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