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研究室に戻ると、大部屋の白い円卓に景汰が座っていた。
「よう、戻ったか誠一………って、おい。どうしたんだお前」
「は? どうしたって………何が?」
景汰は失礼にも澪を指差し、目を見開いた。
「お前………お前が女連れなんて一体何が………ってまさかその人ミスキャンの柳さん………わ、わからない。認められないっ………何があったのか誰か説明してくれ………」
「それは今説明してる暇はない。後で話す」
誠一は大げさにため息をついて、立ち上がった景汰の脇を抜け、自分のブースに入った。
殺風景な部屋の窓側、パソコンの電源は落ちて、のっぺりと黒い液晶が誠一の後ろから差込む薄い蛍光灯の明かりを鈍く反射しているだけだ。
「へぇ、こうなってんだ。鳳のブース。なんか殺風景だね。置物すらない」
「あー、コイツに色彩とか季節感を求めちゃダメだよ。家にも元々モノ置きたがらない奴だし」
後ろで言いたい放題言っている二人に、誠一は少し表情を固くして振り返る。
「教授は帰ってないのか?」
「俺が来た時は誰も居なかったぜ?」
「………そうか」
教授も、行動が変わってきている。過去三日間は卒研作業を終える時間は微弱ながら食い違っていたが、飲み物を買いに行く時には少なくとも居たはずだ。
「そういや、パソコン付けなくて大丈夫かよ? ウイルスとか入ってんじゃねぇの?」
「ウイルスだとまずいから、LANケーブル類を抜いてからだ」
実際の所、過去の周回と同じケースならウイルス感染などありえないが、文章も発生現象も微妙に違うので念を押すことにした。
しかし、単純に考えても今日はパソコンの電源を落として出たのだ、電源が落ちたパソコンにウイルスが感染するなど、聞いたことがない。
「景汰、来たのはいつ頃だ?」
「えーと、細かくは覚えてねえけど、十五分前くらいかな。来たらいきなりなんか鳴ってるから、最初、爆発でもすんのかと思ったよ」
確かに、警告音がずっと鳴りっぱなしだったら怖いだろう。
「でも、前に工学部連中の有志がPCの分解と再構築に失敗した時に鳴らしてた音に似てたから、パソコンだろうって思って中見たら案の定。で、教授も居ないから、お前に電話した」
誠一はあごに手をやって、一度唸った。何かしら起こるという事象自体は変わらない。
ただ、様々なことが、確実に変わっている。
このままで………いいのか?
瞬間、ぞわりと冷たい手で背中を撫でられたような気がした。
「………なんだってんだ」
「ホントに、一体なんだってんだろうな。お前、隠れてエロいホームページでも見てたんじゃねえの?」
「え、そうなの?」
「この研究室のパソコンは学内ネットワーク専用だ。外部アクセスできない」
景汰の試みは、新しく入ってきた研究室の誰かが今年も検証済みで、教授に「机上調査も良いけど、若いんだから実地が出来るように頑張りなさい」と変な励まし方をされていた。ちなみに外部アクセスできないようになっているのは暗黙のルールで教えないから毎年誰かがやるらしい。
「………他に、見ていて変わったことは?」
「そう言われてもなぁ………とっさのことだったし、別に?」
「あ、はいはい、質問」
澪が手を上げ、二人が了承する前に切り出した。
「変なメッセージが書かれてた、って聞いたけど?」
「あぁ、それならここに。つっても、とっさだったから合ってるかどうかは分からん」
どこかで見覚えのある四つ折のポスターサイズの紙の裏に、汚い英語の羅列が一行ほど書いてあった。澪が拾い上げて、眺める。
「えっと………覆水盆に帰らず………閉ざされた、道を、行け………?」
「大体、言っていた通りだな」
「その熟語、前に略語で言われたことがあって、気になって調べんたんだよ。後のは、高校までの英語力」
どうなったら相手にそんな言葉を使わせることができるのか、そのシチュエーションが気になったがあえて黙ることにした。
「んー、あとに続いて書いてあったセクション何たら、ってのはパソコンっぽい感じだけど、その文章なんか変だよな。覆水盆に帰らずなんてあんまりいい意味の熟語使わなくたって、「壊れてますよ」で事足りそうなもんだし。パソコン自体じゃなくて、何かのプログラムが実行された結果なんじゃねえの?」
「そうだな。その後のメッセージといい、実務的じゃない」
だとしたら、このメッセージは一体何を示唆しているのだろう。
自分が巻き込まれる前の日の一回目、澪や吉田が巻き込まれる前の二回目とも違う。
覆水は盆に返らない………もう、元に戻ることはできないということだろうか。しかし、後半の閉ざされた道を行けという指示には、もう絶望に向かって進むことしか出来ないという意味と、まだ希望があるから今は進め、と言う意味にも取れる。
誰もが意味を考えて黙った時、表の廊下から、何かがパタパタ音を立てて近づいてくるのが聞こえた。
「お、遅れてすいませんっ」
やってきて開口一番、謝罪を告げたのは吉田だった。どこから走ってきたのか、肩で息をしながら部屋に入ってくる。
「別に、急いでこなくても良かったんだが………」
「え、そうなんですか? 柳さんから至急ってメールを頂いたもので………」
澪に視線を反らすと、彼女は見事なくらいの笑顔で首の後ろをかいていた。
「いやー………なんか深刻そうな事態になりそうだったから、つい………」
「………なんだぁ、何か、あったんじゃないかと、思って………つかれたー」
床にぺたんと座り込んだ吉田に、景汰が手を差し伸べる。
「なんだか良く分からんが、お疲れさん?」
「あれ? 会長、なんでこんなところに?」
「それは俺のセリフでもあるんだが………」
吉田は景汰の手をとって立ち上がり、いつの間にか引かれていた椅子に座った。景汰はこういうところはソツがない。そして、景汰は何かに気付いて、誠一の方を向いた。
「ってか、鳳先生。そろそろちょっとこの状況を説明いただけないものかね………これが噂のモテ期到来って奴なのか?」
「違う」
澪と吉田さんがあらぬ誤解を受けないためにも、そこは強く否定しておこう。
「なんだ………その、卒業研究に欲しい本が借りられててな、吉田さんが借りてたものだから、少し見せてもらおうと思って………」
「お前が他人に頼みに? 怪しいな………」
露骨にいやらしい顔をして、景汰が眉根を寄せる。
「か、会長、ホントなんですよ? ほら、この………」
肩にかけていたカバンを漁りながら、吉田が必死に取り繕う。
「『楽しいマジック大全』!」
そしてその健気なフォローは、自殺点を生み出した。
全てが一瞬凍りつき、景汰は額を………ではなく、口元を抑えて俺を見た。
「……ぶっ………そう、そうか、そうだったな、誠一。くふっ、お前の研究には、くふふ、ユーモラスなマジックが必要だったよな?」
「あ、ちがっ、ちょ、これじゃないんです!」
「………ああ。そうだな初歩的なトランプマジックが………必要なんだ」
ぽんぽんと肩を叩かれて誤解される屈辱を受けながら、よく見ると、澪も顔を背けて震えていた。あのやろう。
「えと、あの………わたし」
「景汰。とりあえず、そういうことにしといてくれ」
自分で言っていて、そういうことがどういうことなのか良く分かっていなかったが、そこは景汰の想像に任せよう。
今防がなくてはならないのは、これ以上自殺点を叩き込まれる事だ。
「なるほど………誠一がついに女性に興味を持つ年頃に………お母さん悲しいわっ」
こっちはこっちで厄介なことになった。やっぱりダメだった。
「とりあえず、今は事情があって話せない。キリが良くなったところで話す」
「分かった………分かったが、ウチの団員に危ない真似させんじゃねえぞ」
「それは分かっているし、頼んでいるのも簡単なことだから、大丈夫だ」
「ならいい。続いてよっちゃん、ちょっとこっちに来たまえ」
「はい?」
景汰に手招きをされたよっちゃん、もとい吉田が、自分から少し離れて耳打ち話を始めた。
「………鳳は意外と晩生に見えて、我が強いからな、どうにでもできると思った相手には容赦なく喰らい付くだろうから、オシが弱い感じで誘うところまではグッドだが、最後はビシッと主導権と手綱を握ってだな………」
「何の話をしている」
悪い予感がして、背後まで近づいて正解だった。この野郎、やっぱり勘違いしたままだ。
「それは………来週行なわれる渓流釣り大会の極意をだな………」
「今隠れて話す内容じゃないだろう。まったく………」
誠一は何気なく時計を見て、あることに気づいた。
「そういえば、景汰」
「あん?」
「時間、大丈夫か。彼女を待たせてるんじゃ」
「あ、いけね! 助かった、サンキュー」
誠一と同じく時計を見るや、白円卓に乗っかっていたバッグを提げ、景汰はバタバタ足音を立てながら研究室を出て行った。
「………なんか、もてあそばれてる感じだね」
静けさを取り戻した室内で、澪がため息混じりに言った。
「もてあそばれてる、って、景汰にか?」
「それもそうだけど………この事件の首謀者?」
「一体誰なんでしょうね」
宛名のない手紙の差出人を探すかのように、のんきな声で吉田が言った。
「それが分かったら、もう懲らしめに行けてるんだけどねー」
確かに、それもそうだ。
「それよりも。三人揃ったし、どうする?」
澪が誠一と吉田の顔を見ると、誠一と吉田も自然とそれぞれの顔を見て反応を伺った。
「そうだな」
誰も言い出さないので、とりあえず誠一は言った。
ココに居残る理由も最早ない。
「とりあえず晩飯がてら、ここを出よう」
[第二章・第三節] |