著者:雨守&蓮夜崎凪音(にゃぎー)
「 第二章 」





−0−

 それは、窓の外。
 自分が立っている場所よりも遥かに下、階下で何かをぶちまけたようなひどい音がした。
 混ざる彼の声と、戦慄に似た空気が流れているのが分かる。
 とはいっても、階下のテニスコート前にはこの時間、誰もいないことは確認済みだから、目撃者はおろか、彼のことを知る人も少ない。

 窓の手摺の下に背を預けて、壁の冷たさとは別にやってきた寒気を感じる。
 震える両手で、祈るように握り締めた携帯の送信ボタンを押す。

 即座に流れていく液晶の画面。

 私は送信が完了するまでそれを、ただ息を呑むように見つめていた。
「…………はー」
 完了すると同時に、体の力が抜けて、手と携帯を床に投げ出した。
 怒り狂った竜崎幸一や氷室早紀が部屋を確かめて向かってこないとも限らなかったが、その可能性は薄いと踏んでいた。もし来ても、勉強でもしていたとそ知らぬ顔をすればいい。
 後は出て行く際に注意さえすれば問題はない。
「…………」
 まだ震えの止まらない両掌を、持ち上げて見つめる。
「…………」
 確認するように、ゆっくりと携帯を開いて文面を見る。
 刻まれて残る履歴は、今やったことをしっかりと裏付けていた。
『これはまだ、始まりに過ぎない』
 そう、これは自分をも縛る言葉。
 やってしまったのだ。もう後戻りは出来ない。

 でも。

 送信履歴の残る携帯を握り締めて、私は、乾いた声を押し殺すように笑っていた。
 それは後悔の念よりも、なによりも先立つ感情。
 そして、たった一つ、自分を支えてくれる憎悪。
 この後、何食わぬ顔でサークルの方へ行かなければならないから、私は荒い息を弾ませるように笑いながら立ち上がった。
 勉強と偽るための道具をまとめて鞄へ放り込み、その鞄を肩にかけて歩き出す。

 二階にしたのは、致死率が低いからだ。
 彼にはまだ、死んでもらっては困る。

 頭のなかで言い訳みたいに反復しながら、私は教室の外を伺った。
 幸い三限が始まっていることも幸いしてか、辺りには人はおろか、物音一つさえしない。
 逆に、見つかってしまうと顔を覚えられる危惧もあったが、それはそれだ。
「…………」
 今はただ、彼を殺しかけた事実より、彼を弄べている事実だけが私を愉快にさせる。
 麻薬のように浸透するあがらいがたい衝動。
 いつまで続くか分からないこの悦びだけに口を歪め、私は午後の教室を注意深く後にした。

−1−

「ねぇ、幸一、ちょっと待ってよ!」
 早紀が腕をつかんだと同時に、勢いよく振り払う動作でようやく幸一がその足を止めた。振り向いた顔は、明らかに先ほどの怒りを鬱積したままだ。
 三限の授業中でまばらではあったが、天気のいいキャンパスを歩いていく周囲の人間が何事かと、自分達のやり取りを流れる視線の端に留めているのが二人にも分かった。
「………なんだよ」
 怒気の篭った声に早紀は一瞬ひるんだが、そのまま引き下がっていられる状況ではない。
「ちょっと、落ち着きなってば」
「これが落ち着いてられる状況か?お前だって一歩間違えれば死んでたかもしれないんだぞ?分かってるのか、早紀」
 今の幸一の表情には、余裕はない。
 恐怖と怒りがない交ぜになったような感情は、同じ経験をした早紀にも伝わるし、幾分かは分かる。
 だから、今の幸一を止めることができるのも自分だけだと、早紀はそう確信していた。
「でも、部室に行ってどうするつもり?犯人が誰か一人ひとり問い詰めるわけ?」
「………」
「名乗り出るわけないでしょ、だから落ち着けって言ってるの」
 らしくない言葉で、いつも自分が言われてるような言葉を繰り返す。
「このまま怒鳴り込んだら、きっと犯人の思うつぼだよ」
「………くそっ!」
 傍にあった自販機に強く拳を当てて、幸一が押し黙る。
 あまりの音に体ごと怯んだ早紀は、目を丸くして顔を伏せた幸一を見やる。
「だ、大丈夫?」
「少し………時間くれ」
 幸一は言ったっきり早紀には背中を向けたまま、深く息を吐く。
 どんな顔をしているか想像はできたが、敢えて早紀は黙ってそれを見届けた。
 幸一は、良いと言うほどではないが、決して頭は悪くない。
 事態が把握できるから、納得できない状況でも正論を突きつければ整理するだけの頭は持っている。
 黙って待っている間、自分達を揶揄するような声と視線が辺りから予想以上に突き刺さっているのに気づいて、静かに怒りをこめる。もしかしたら、サークル関係者じゃなくて、あの中で笑っているのがいるかも知れないと疑ってしまうと、その視線を合わせて散らせることは容易だった。
 周りがどう思ってしまおうが、今は関係ない。
 今、狙われているのは幸一なのだと、守れるのは自分だけだと、言い聞かせる。
「………」
 時間の経過と共に一段落した自販機前で、顔を伏せていた男がようやくその頭を上げた。
「………落ち着いた。悪かった」
 まだ語調は荒いが、少し投げやりに落ち着いた態度に早紀はどっと息を吐いた。
「で、どうするの?」
「一応、危険だけどサークルの方に顔出しておこう。今日は休んで見学に回る」
「まぁ………こんな状況じゃ練習どころじゃないしね。仕方ないか」
 目的が決まると同時に、自然と二人はサークル部室のある方へ歩き出す。
 部室の方は二棟裏のコートから少し離れている。
 主に運動系の部活やサークルが根城としている棟で、コートからの位置的には二棟をまたいだ形になる部室棟二階の端だ。大学自体の規模が小さいため、あまり団体数も少ないためか、一部屋が丸ごと使えている。
「今日はお前も休みだぞ」
「え?」
 釘を刺されるように、まったく予想していなかったことに早紀が振り返る。
 早紀を見て、幸一が静かに肩を落とした。
「軽症とはいえ怪我なんだ。名誉の負傷だから今日は動くなよ」
「え、大げさだよ。転んだだけだよ?」
「いいから。試合近いんだろ、お前」
 投げやりな言葉だったが、そこに違和感を感じる。
 いつも自分に対して放たれる邪魔そうな雰囲気はないのが、逆に怖い。
「………どうしたの?」
 さすがに不審に思った早紀が、問い返す。
「なにが?」
「なんか、優しいじゃん?」
「いつもだ………とは言わない」
「じゃあ、この際お言葉に甘えちゃおうっと、むぎゅー」
 わけのわからないバカな語尾を放って、早紀が幸一の腕に絡まった。
「お、おい」
 対して、幸一は出し渋るように何かを言いかけたが、腕の辺りに感じた柔らかい感触について、明確に答えを返せなかった。




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