−2−
縦浜市立山並高等学校・園芸部。
古くから歴史があるのが演劇部のため、一文字違いで間違われると言う運命に乗っ取った悲惨な部活である。創部は三年前と異常に浅く、同好会からスタートしているのだが、昨年になりようやく顧問がついて正式に部として認められたため、啓は卒業した先輩やら上級生の苦労は知らない。
啓もフレッシュマンと呼ばれる日々もとうに終わり、今では数名しかいない園芸部の部員としての責務を黙々とこなす日々である。
今は、春と言うにはまだ早い二月中旬で日は未だに六時前には落ちている。
「早く日照時間長くなんないかねぇ?」
という、いつも通り同学年の甲田真姫が沈みかける五時半付近の夕日に向かってオバン臭いセリフを吐いていた。
後何分かで、完全に夜が来る。
一応、ライトがつく校庭と違って、部室は中庭をさらに奥の林を進んでいったところにある。かなりうさんくさい学校の一角が園芸部の活動場所なので、自前で光源を調達しない限りは辺りはかなり高い木々に囲まれて真っ暗だ。
ということで部費で買った園芸部必須のライトだったが、うさんくさい学校の一角が異様に広いためか、それでも遙か遠くに点のようにあった。
「いつも思うけどよ、あれって明かりになってねぇよな」
いつのまにか、啓の近くに3年の都葉純二がそこにいた。
無論、敷地と敷地の間の通路の上に、である。
数時間前に現れたシート男とは違い、さすがに人としてのマナーを守っている。
「そうですね」
「でもなぁ、もうすぐオレも卒業かぁと思うとねェ、なんだかアレが妙に恋しくなっちまってんだよなあ」
都葉は薄暗がりの夕闇でも分かるくらいに、うっすらと目を細めた。
彼はもう進学が決まっているが、部活のためだけに学校へ来ていると自負していた。ヒヤシンスを愛し続け、入部当時からヒヤシンス一筋と言う恐ろしい先輩だった。
「もう一年、ここにいますか?」
「バカ言うな。せっかく農大に受かったんだからちゃんと4年間行ってくるさ」
明らかに、都葉は嬉しそうに笑った。
「ところで先輩、先輩のヒヤシンスって後継で誰か育てるんですか?」
「バカ言え。オレの最愛の子供をお前達に任せておけるかよ」
「なにやってんスか、そんなとこで」
会話をぶちぎるような声を上げ、夕日に叫び終わった真姫がやってきた。学校内でも一、二を争って背が小さく、一七○センチある啓や一八○をゆうに超えている都葉から見ると、まるで子供のような小ささだ。
振る舞いも同じ高校一年生と言うよりは、近所のガキと大差ないが、その口調から見られる大人びた雰囲気は、どうしても彼女を一人前の女性として扱わせる風で、かなりアンバランスな人物と言えた。
背の小ささに関しては彼女自身がそれで小学生の時に「チビ、チビ」といじめられた経験が多々あるとかで随分と気にしているので、あまり口に出したりして言わないのが部活内での暗黙のルール、というか当然のマナーである。
背格好が誰にも真似できないので、こちらとしては随分感謝していた。
「土起こしてるだけ。ほら、新入生が来る前にまたなんか植えるらしいから」
「ああ、もうそんな季節か」
あっけらかんとした声で、彼女が微笑んでいるのが分かる。
悪魔の進平とは違って、なんの表裏もない明るい笑いが啓の脳裏にちらりと浮かぶ。
「まっちゃんは来年、何を育てるんだ?」
「まっちゃんはやめてくださいって。気軽に真姫でいいっスよ、都葉先輩」
そっちの方が気軽に呼べたりしないのは気のせいだろうか………?
啓は、ぼんやりと浮かんだその考えを抱えたまま、夕日の消えた方向を眺めた。
手に持った土掘り用スコップがやけに重かった。
「ヒヤシンスなんかどうだ?」
「先輩、そんなこと言うとマジで育てますよ、ヒヤシンス」
どうやら真姫は眉をひそめたようだ。
「おお、ここにも理解者がまた一人。いつか世界中をヒヤシンスだらけにするのがオレの壮大な夢なんだ!」
はっきりいってその壮大な夢はヒヤシンス好き以外はハタ迷惑の一言だろう。
言ってしまったのを後悔したのか、真姫は苦笑いでやりすごした。
「そろそろ終わりだよなァ、駒ちゃん」
「日も沈んだし、土起こしなんかこれ以上やっても意味ないだろうからな」
とどめに一撃を加えて、駒ちゃんこと啓は誇らしげに言った。
「あれ、そういえば部長は?」
「部長なら今日の後半は華道部の方。なんでも次の作品と対話するとか」
「部長が掛け持ちしてていいのか?」
「そう言って真向から反対しない部活は大概平気」
啓の問いに、真姫が平然と答える。
「なるほど」
「さて、それじゃそろそろ引き上げますか」
よっこらしょっとばかりに、都葉が立ち上がった。
それとほぼ同時に、真姫が首に巻いていた汗拭き用のタオルで顔を拭きながら、部室のほうへ歩いていった。
女子は先に着替えに入るので、男子は外で手を洗ってのんびりと待つのが日の浅い園芸部の伝統である。とは言っても、園芸部には女子は真姫ともう一人しかいないが。
「そういや、あの娘は大丈夫なのか?」
手洗い場に着く前に、突如都葉が切り出した。
「あの娘って………ああ、睦葉ですか」
「そうそう、二学期から学校にも顔出してないって聞いてるぞ」
啓は呆れに近い溜め息を一つついて、空を見上げた。
「アイツの保護者じゃないからオレはなんにも言えませんけど。確かにきてませんよ、アイツ」
「何があったんだろうなぁ、まだ青春を謳歌できる年頃………」
「先輩」
咎めるような啓の声で、都葉は放ちかけた言葉を遮った。
「すまん」
「同情されるくらいで、平気で死ぬような奴ですから」
吐き捨てるように、啓は皮肉ぶって言った。
その言葉には、明らかに「何か」に対する侮蔑がいくらか交じっている。
「もう一度、園芸部で笑ってる姿を見たかったなぁ」
都葉の声は、春先の強い風にさらわれた。
そんななんでもない願いさえ、叶うわけがない。
風の中で、啓は頭から麦わら帽子を取り、それを強くつかんだ。
「ま、オレは人のことを心配している余裕はないんだがね」
「どういうことですか?」
「色々と準備が忙しいのさ。ほら、東京行くだろ。間借りもしなきゃいけないし、できるだけ物資は大いに越したことはないからな。バイトも密かにちゃくちゃくとこなしてるんだぜ」
水道の前まで来て二人とも軍手を外し、蛇口をひねる。
まだ二月の水は、氷のように冷たく、思わず啓は顔をしかめた。
「ちべてえよな、ここの水は」
「だから水なんですよ」
「お湯がいいよな、こういう時くらいは」
無い物ねだりということくらいは分かっているが、それでも望んでしまうのは人の性だ。思わず、うなずいてしまう。
「そうですよねェ〜」
「でも、園芸部の予算でも無理だよなぁ」
「給湯器ですか?」
「もしくは電動ポット!」
「魔法瓶がせいぜい二個位ってのが関の山ですよ。それに電動ポットから出てくるお茶なみのお湯じゃ手洗えませんって」
「あ、そっか」
「現実は厳しいですね」
二人とも、半オクターブ程離れて白い溜め息が出た。
と、その時部室のドアが開き、制服姿の真姫がひょっこりと顔を出した。
「お待たせしました。駒ちゃん、先輩」
「おう」
「相変わらず早いな。お前」
「えへへ………いやぁ、いくら厚着してるからって外でずっと待ってもらうのはなんか女心に罪悪感を感じるんですよ。ほら、さっさと着替えた着替えた」
なんだかんだ言って真姫はイイ奴だ。
促されるまま、啓は彼女と入れ違いに部屋に入った。
「そんじゃ、また明日〜♪」
「おう」
「じゃあな、甲田」
ドアが閉まって、舞台が暗転し終えた時のような静けさが室内に篭もる。
男子の着替えは早い。3分もかからずに、二人ともさっさと作業着を鞄に突っ込み、制服に着替えていた。
「戸締まりしていきますから、先に出てて下さい」
「お、悪いね一年生。それじゃ、お先に」
そう言って、都葉はさっさと部室を出ていった。
凛とした空気と啓だけが、その場に取り残される。
自分も出ようとして、ふとパイプ椅子の上に何か乗っているのに気がついた。
「…………?」
誰のものか検討もつかない、見たこともないスケッチブックだった。その黄ばんだページには、まったく見たこともない黄色の花が見事に描き出されている。菜の花に似ているが、細かい点において微妙に違うようだ。
この部のものにおそらく間違いはないだろうが、誰にこんな芸術的センスがあったのか、まったく検討がつかない。
逆に考えてみれば、これが菜の花だと言い切る奴かも知れない。
(X+手先の器用さ)×創造性=新種の植物の素晴らしい絵
Xに各部員の芸術感性を代入しても導き出される答えはたかが知れている。むしろカッコの中がマイナスになっても決しておかしくないはずだ。
「あ、ちょっと待てよ………」
一人呟きながら、考えがある点に至った。
華道部を兼任している部長なら、芸術性の欠片くらいは持っているかも知れない。
あれ…………?
でも、植物に詳しい部長が見もしない新種を書いたりするだろうか?
自問自答して、再び考えは堂堂回りの輪の中に戻ってきた。
紙の質は悪くないが、古い。少なくとも二、三年はこのページを開けっ放しにしていた感じを受ける。黄ばんでいるのに、次にめくったタンポポの可愛らしい下書きの紙は黄ばんではいなかった。
念のため、正面を折り返して見るものの名前はない。
「…………」
ますます謎だったが、いつまでも考えているわけにはいかない。
おそらく、自分の知らない先輩のものだろう。
一応そう勝手に結論づければ、後で都葉達先輩に聞けば分かる。
そう思って啓はスケッチブックを元の状態に戻しておくと、そのまま身仕度を済ませて外へ出、鍵を掛けて昇降口に向かった。
今まで厚着をしていた分、吹いてくる風は冷たい。
春先が一番カゼに注意しなければならないと言う誰かの話も頷けるような気がした。
最近学校内でインフルエンザが流行ったばかりだったので、まだ気は抜けない。
紺色のマフラーに首を埋めると、小走りに林を抜け、中庭を抜けて昇降口直結の渡り廊下へ出る。
「啓」
渡り廊下から職員室へ向かおうとして、啓は聞き慣れた声に困惑した。
いるはずがないその声に、啓は即座に振り向いた。
「良かったぁ。先生に聞いたら視聴覚室にいるっていうんだもん。いないから探しちゃったよ」
少し息を乱しながら、それでも嬉しそうに啓を見る顔を、彼は困惑したままで見つめ返した。
「………むつ……は?」
「ん、どしたの?」
怪訝そうに、今度は睦葉が啓を見返した。
「お前、風邪こじらして今日は家で寝てるはずじゃないのか?」
「あれ、私そんなこと言ったっけ?今日遠足のレポート提出だから絶対休まないって決めてたのに」
遠足は、高校進学直後に行なったものだ。
と言うことは、目の前にいる彼女は…………。
いつものようによく目を凝らすと、彼女は蛍光灯に透けて後ろが見通せた。
「睦葉」
「ん?」
「ちょっと先に行っててくれないか。これを片づけたらレポート提出に行くから」
「うん。それじゃ、先に部室行ってるね!」
快活な声を残しながら睦葉は中庭へ、闇の中へと消えた。
「……………」
啓はそれをなかったかのような出来事として捕えると、そのまま職員室に向かった。
アレと始めてであったのは、三学期になってからだった。
初めは戸惑ったが、彼女はどうも自分の過去にリンクさせて現れるらしい。思考能力もちゃんと持ち合わせているので、後から行くと言えば大概先に行っていてくれる。
彼女が見ている夢の一端が学校に現れているのか、それとも長い間彼女が校内にいないため、寂しさから自分の見ている夢幻に取り込まれているだけなのか、それは分からない。ただ一つ言えることは、彼女は今もこうしてこの学校内を徘徊し、それがおそらくは自分以外の人間には見えていないことだ。
いつも、真実と照らし合わせて彼女が本当か幻どうか確認してから応対をするのは、もはや啓の習慣として成り立ってしまっていた。
そんな不思議な習慣が身に付いてからと言うもの、どうも彼女が自宅にいると言う感覚が、薄れてきていた。
見つけた罪悪感に詫びるような気持ちで、啓は学校下の緩やかな坂を適度にブレーキングしながら降りていった。
[第一章・第一節] |
[第一章・第三節]