第二章 それぞれの思い
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外から雨音が聞こえてくる。
梅雨の時期なだけに、朝からずっと降りっぱなしだ。
老人の朝は早い。五時に起きてからこうしてお茶を飲んでいたが、気がついたらもう七時になっていた。
そろそろ、朝ご飯を作らないと。
八重はテレビを消して、台所へ向かった。
「あら、おはよう」
台所には若い女性が立っていた。
黒髪が振り向いた拍子にふわりと舞い上がる。
自分に良く似た人物がそこにはいた。それもそのはず、目の前にいるのは自分の実の娘の朱美なのだ。
「おはよう、朱美。まだまだ雨が続くねぇ」
すると急に朱美の顔が暗くなった気がした。挨拶をしただけなのに、一体どうしたのだろう。
「そうね、お母さん。洗濯物が乾かなくて困るわ」
持ち前の明るい笑顔で答えてくれた。さっきのはおそらく見間違いだったのだろう。
食事の準備は朱美に任せ、自分はテーブルのいすに腰掛けた。
「靖ちゃんも外で遊べなくて、残念でしょう」
孫の靖子は今年小学四年生になった。近所の耕二君といつも一緒に遊んでいるのだが、この雨のなかで遊んだ日には、泥だるまが二人も出来上がってしまうだろう。
「そういえば忠雄さんはもう仕事に行ったのかい?」
義理の息子になる一家の大黒柱の役目を果たしている。
「え、ええ。最近忙しいらしくて」
朱美はテーブルの上に朝食を並べた。ご飯に味噌汁、焼き魚に玉子焼きと実に日本人らしい献立だ。
「私はちょっと洗濯してくるから、先に食べてて」
そう言って台所から出ていった。
朱美には悪いがせっかくなので冷めてしまう前にいただくことにした。
「いただきます」
手を合わせてからまず、味噌汁を一口。
「うん、おいしい」
最近ますます朱美の料理の味が自分に近づいてきた。昔はろくに包丁を扱う事すら出来なかったのに。
昔?そういえばさっきの朱美はずいぶん若く見えたような気が…。
…………
気のせいだろう。自分に似て朱美はとても若々しい。きっとそれだけの事だ。
靖子も小さい頃の朱美そっくりなので、大きくなったら先程の朱美のように美人になるだろう。
「おっと、いけない。ご飯が冷めちゃう」
もう難しい事を考えるような年じゃないのかねぇ。
そんな事を考えながら、八重は朝食をとっていた。
扉の陰に隠れながら、『朱美』は八重の様子を見ていた。
おばあちゃん、どんどんひどくなっている。
八重が自分と母である朱美を間違えるようになってから、もう一年近くなる。
以前は一週間に一度程度だったのが、今では二日に一度は『朱美』と呼ばれていた。
祖母が自分を『朱美』と呼ぶとき、いつも十二年前、まだ家族全員幸せに過ごしていた時と勘違いしているのだ。
おそらく、その頃が祖母にとって一番幸せだったのだろう。
息子がいなくなり、娘もこの世を去ってしまった現実から逃げるためか、それとも高齢が原因なのかは靖子にはわからない。
ただそれでも、祖母がほんのひと時でも幸せになるのならそれでもいい、そう思うようになってきた。
生まれた時からずっとそばにいてくれた、大好きな祖母の為なのだから…。
近くにある窓から見た景色は、まるで靖子の心中表しているようであった。
「お洗濯は終わったかい?」
朝食を食べ終わったころに、孫娘が台所に戻ってきた。
「乾燥機があるってホント便利。さて、私も食べようかな」
自分の分を用意して、テーブルをはさんで向かいに座った。
靖子の顔をよく見てみると目が赤いのが分かった。
「靖ちゃん、目が赤いけどどうかしたの?」
すると、とても驚いたような顔をして、八重を見た。
「え?な、なんでもないよ。ちょっと掻いただけだから大丈夫だよ。お婆ちゃん」
否定する靖子は嘘をついているように見えた。でも、その目を見る限り悪い嘘ではないように思える。
「そう、ならいいけど」
本人が言いたくないのなら、あまり追求するのも良くないだろう。
「ところで靖ちゃん。この前の話なんだけどね」
靖子がこの話をしたがらないのは知っているが、これは大切な話だ。
「今朝もずっと考えていたんだけど、やっぱり老人ホームに入ろうと…」
「いやよ、そんなの」
靖子は食事の手を止めて、祖母の言葉を遮った。
「もうすぐ幸太郎さんと一緒になるんだから、年寄りがいても邪魔なだけだろう。コレが一番いいんだよ」
それに理由がもう一つある。
「このごろすぐに頭がボーっとするんだ。もう年だからね」
わかっていた事だが、いざ自分がこうなると恐ろしくもあり、悲しくもある。
「靖ちゃんにはこれ以上負担をかけるわけにもいかないよ。最近ロクに眠ってないだろう?」
夜はお店の仕事があり、昼はコンビニがある。それに自分の介護まで加わってしまったら靖子は倒れてしまうだろう。
大好きな家族だからこそ、みっともない姿は見せたくない。
「この前ちょっと遠い所だけど、いい所を見つけたんだ。海の近くでね、今ならすぐに入れるらしいよ」
「靖子はずっとうつむいていた。肩が小さく震えている。
残酷な話をしているのかもしれない。けれど、自分がいなくなっても靖子には支えてくれる人がいる。
なら、心配することは無い。後は笑顔で見送るだけだ。
「幸せになってね。靖ちゃん」
注意していなければ見過ごしてしまいそうなほどだったが、確かに靖子は頷いた。
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