「CloseGame」
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



−0−

 思えば、あの夏からだ。
 ごちゃ混ぜになった思いが、全てはじけ飛んでどうでもよくなったのは。
 マウンドを人に譲ることを、さして悔しいとは思わなくなったのは。
 中学最後の夏。先発で力投を続けた功治に代わって抑えに出た俺に与えられたのは、大会一のスラッガーに運ばれた生涯唯一の逆転場外ホームランだった。

 そうだ………あれ以来だ。
 こんなに後ろめたい思いがするマウンドは。
 それでも、投手という看板を背負って戦わなければならないマウンドは―――。

−3・八回裏−

 真上と隣からあがった歓声に、半分意識が飛びかけていた俺はベンチの奥で我に返った。
 まだ出番が来てないと言うことは間違いなく攻撃中なんだろうな、と漠然と思う。
 一応私立校なので、一塁側に比べればブラスバンドとか入っていて上の応援席はやかましい雰囲気に満ちていた。
 試合は止まっていて、マウンドでは内野が集まって円を作っている。
「おい増田。こんな時に寝てんな」
「寝てませんよ」
 不機嫌そうな声のした方を見ると、肩のアイシングを終えた伊佐田先輩がコップ片手に隣に座っていた。
「増田の目、細すぎていつも開いてんだか開いてないんだか分からんのじゃ」
「先輩の眼が悪いんじゃないスか」
「相変わらずクチがへらねえな、おめえは」
 伊佐田先輩はうざったいのをどうにかするようにコップの中身を飲み干した。俺は聞こえない程度に軽く溜息をついてやった。
 八回裏、一死、二・三塁。
 外野に転がれば一打同点。運がよければ、逆転できる。
 こういう場合一点許しても一人アウトにするのがセオリーだが、ここまでの戦力差を考えれば同点を許したら勢いは完全にこっちだ。
 ここで打たれて、堰が切れたように大量失点して試合が決まる例も少なくない。
 なんにしても、ピッチャーの踏ん張り次第だ。
「増田、相手ピッチャーだけど………」
「よく投げますね」
「………苗字同じだけど、兄貴かなんかか?」
「………今は敵ですよ」
 グラウンドには微弱ながらぬるい風が吹き始めていた。
 マウンドの上では、小さい頃から見てきた顔が汗を拭っている。さっき対決した時よりはいくらか顔がこわばっているように見えた。
 その絵は、自分が同じ場所に納まっているよりも、ずっと様になって見える。
 弱小の野球部をたった一本の腕で支えて、上位私立校相手に奮闘するエース。
 あの夏も、俺さえいなければこんな姿で立っていたんだろう。それでたとえ負けても、功治にとってはもっと納得いく負け方だったかもしれない。
 円陣が散って、内野がそれぞれの守備位置に付いた。
 その時にはもう、功治の顔は元に戻っていた。
 ざわめきがスタンドに伝染しきらないうちに、不意打ち気味の一球目がキャッチャーミットに突き刺さる。ワンストライク。
 腕の振りはしなやかに鋭く、球は駆け落ちるように続けてストライクゾーンに決まる。ツーストライク。

 ………今、きっついだろうな、功治。

 三球目はひっぱたかれ、鈍い音を立ててこっちのベンチを襲撃した。こっちの何人かがバッターに野次を飛ばす。
「タイミング合ってねーぞー!」
「俺たちを殺す気かー!」
「よく見てけー!」
 何でも言えばいいってもんじゃないと思うが………。
 呆れ眼でベンチを眺めていると、伊佐田先輩と目が合った。
「なんだよ」
「なんでもありません」
「そうかよ」
「………」
 四球目を叩いた快音の行方を、球場のほぼ全ての眼が追っていた。伸び上がった瞬間に高すぎる、と思った。あれでは落ちない。
 案の定、球種を定めきれずにふらふらっとあがった打球はレフトの二、三歩後ろで、グラブの中に納まった。
 同時に二、三塁ランナーが次の塁へ走り出す。
 レフトの返球は、何百回も繰り返してきただろう慣れた動きで一瞬だった。流れるような動きから放たれた球は矢のようだった。
「あ」
 伊佐田先輩が濁点の付いたような声で状況を説明する。
 補給動作から投げるまで、一瞬も迷わずに放たれたその球は、三塁に駆け込んできた二塁ランナーを一撃の下に刺し殺していた。
「アウトォッ!」
 三塁塁審は拳を上げて、高く叫んだ。
 一点は入ったが、ダブルプレー。チェンジ。
「あー………」
 誰もが下がり調子の同じ音で頭を垂れた。監督も目頭を抑えたまま黙り込んでいる。
「同点止まり、かい」
 隣に居た伊佐田先輩も深い息をついて、背もたれに寄り掛かる。
「おい、増田」
 傍らに置いたグラブを手に立ち上がった俺を、伊佐田先輩が呼び止めた。
「はい?」
「こんなところで、終わってくれるなよ」
「………先輩、こんなとこでプレッシャーなんかかけないでくださいよ」
「ちゃうわ」
「は?」
「本気出さずに負けてくれるなよって、いっとんじゃい」
「いつもカッカしない程度には本気なんですけどね」
「…………もういい、行けや、アホゥ」
 最後の方は邪魔そうに手で追い払われた俺は釈然としないまま、返ってきた二塁ランナーを怒鳴り散らす監督の横をすり抜けて、マウンドへと向かった。




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