「ああ、いつのまに」
著者:そば



《中》

 たとえ、今いきなり空からロードローラーが降ってきたとしても、あの夜程驚きはしないだろう。今だって、あのときの1/10くらいはドキドキしている。それだって自分の心音が隣の小久保さんに聞こえそうで、顔を突っ伏して何とかやり過ごしてるのだ。窓から入る梅雨入り前の風だって、僕の頬を冷ましてはくれない。
「おはよう。ヒィー君♪………ん?里中君大丈夫?」
 小久保さんの声がする。
「お、おはよう。」
「顔赤いよ?熱でもある?」
「あ、あ、ああ風邪気味みたい。」
「大丈夫?週の初めから大変だね。お大事にね?」
「ああ、ありがとう。」
 人と話すのだってこんなにうろたえてしまうのに、ドキドキの原因とあってしまったらどうなってしまうんだろう。くそ!なんで俺がこんなに悩まなくちゃいけないんだ。
「お悩みですか?」
「そうなんだよ。なんで俺がこんなに悩まなきゃ………わぁぁ!」
 目の前にいたのは敦志だった。
「何だよいきなり!?」
「別に………ただ悩んでそうだったから。」
「そんな風に見えるか?」
「もろ分かり。何かあった?」
 そんなこと、いくら敦志でもこんな朝の教室じゃ言いづらい。
「実は………」
 と、教室の後ろのドアがガラガラ開いて反射的に背筋がピーンと緊張する。右を向くと今日1番会いたくない人が視界に入った。
「おはよう。」
 うちの高校の夏服は茜色のスカートにと、半そでに緑の校章のワンポイントつきの白いワイシャツの構成で、意外とシンプルだ。髪は相変わらずツヤツヤしたショートカット。今日は流石にあのピアスはしていない。
「遅かったな。」
 敦志の呼びかけに、まぁね、と笑った美喜は、敦志の影に座っている僕に、首をかしげてのぞき込み、今まで見た顔の中でも1、2を争うような優しい顔で、おはよ、と言った。
「お、おう。」
 なんとか話すものの、僕は彼女の顔が見られなくなってしまった。心臓がバクバク、胸から出たり入ったりする。出たところで心臓を手で捕まえてしまいたくなった。理由なんてないはずなのに恥ずかしくて、穴があったら入りたかったし、なかったら自分で掘ってでも入りたかった。いつもの教室なのに、いることに耐えられなくなってしまいそうだ。
「仁史!お前顔真っ赤だぞ!」
「今日熱あんだ。やっぱ帰るわ。」
 僕はできるだけ美喜を見ないように敦志に話し、手早く荷物をまとめ、教室から逃げ出した。
 美喜からどう思われるかなんて、気遣う余裕なんてなかった。
 誰もいない家に戻ると、僕は階段を駆け上がり部屋のベッドに倒れこんだ。なんで僕がこんなに悩まなくっちゃいけないんだ。

 金曜の夜、飲み会の後、解散する時になっても美喜の酔いはあまり醒めず、仕方なく3人して2次会のカラオケを断り、カラオケに行こうとする美喜をあきらめさせ、僕と敦志で肩を貸して3人で帰ることになった。
「スキスキスー♪スキスキスー♪」
 カラオケにいけないから帰り道で歌おうなどと、美喜はめずらしく上機嫌だった。有名な歌らしいが、「好き」なのか「キス」なのかどっちかわからない歌詞だ。
「おい、誰のおかげで門限以内に帰れると思ってんだよ!」
「今日は親いないから門限ないもんねぇー♪」
「敦志、ここでこれ置いて帰ろーぜ。」
「まぁまぁ。もう家じゃんか。」と敦志。敦志は人と人の付き合いが上手くて、その場のメンバーによって自分の立場を変えて役割をこなすのが得意だ。その場によって、盛り上げたり、仲裁に入ったりという感じに。とにかく、敦志がいつも間に入ってくれているから、僕ら3人は何とかやっていけている。
「そうそう、もう家だよ。」と、美喜。
「お前が言うんじゃない。ほんとに置いてくぞ。」
「こんな夜更けにこんなカワユイ生娘がこんなところにいたらどうなるかわかったもんじゃないでしょ?」
「はいはい、そうでございますね。」
「あら、そんな態度で言いのかしら?今日は親いないって言ったでしょ。送ってくれたらサービスしてあげようと思ったのに………サービスサービスぅ?」
 こんな上機嫌な美喜は久しぶりだ。
 美喜の家の玄関に美喜を座らせると、敦志は真っ先に靴を脱いだ。
「美喜、サービスはいいからトイレ借りるぞ。」
「敦志までいじめるぅ。」
 敦志は顔だけ笑って振り返った後、突き当りを右に曲がった。
 人のいい敦志のことだ。途中でいきたいのを美喜に気を遣って我慢していたんだろう。
 玄関の段差に美喜と二人で並んで座っているとフローリングの冷たさがおしりから響いてくる。思わず体の力が抜けて、フーと息をついた。
 と、美喜が僕にもたれてきた。びっくりして横を向くと美喜は眠っているようだ。右肩から腕にかけてこそばゆい。
「おい、美喜。」
「………。」
「おい!」
「なーにぃ?」
「なんだよこれ。」
「んー?サービスぅ。」
「なんだそれ!?」
 仕方なく美喜をまっすぐ座らせて、自分は玄関に立とうと思った時だ。美喜がすっと立ったかと思うといきなり僕に抱きついてきたのだ。思いがけず壁に押し付けられる。
「おい、美喜!」
「好きぃ。仁史ぃ。」
「えっ?」
 僕は動けなくなってしまった。驚きというよりも、まだ起こっている事態を理解できていない。
「好きなのぉ………。」
「………。」 
「………。」
 美喜の上目遣いの目が僕をつかんで離してくれない。酔っているせいか、美喜の目は大きく見開いていつもより潤んでいる。美喜が何を言ったか分かった頃には、僕の顔はすっかり赤くなっていた。とりあえず、それが酒を飲んだからじゃないのは確かだ。
 20秒くらいだったと思う。酔いのせいにしたり、茶化したりすることないまま沈黙が流れた。自分の心音が速くなっていくのがよく聞こえる。敦志のトイレを流す音がしなければ、本当に心臓麻痺で倒れるんじゃないかと思ったくらいだ。  
 その音に敏感に反応した僕は両手で美喜の肩を押し返した。
「ふ〜、スッキリした。美喜、洗面所も借りるよ。」
「あ、敦志!俺先帰るから。」
 思わず声が上ずってしまう。それだけでも、すごく恥ずかしい。
「仁史………。」
 帰り際に美喜の声が聞こえたような気がしたが、それに答えてやれるほど余裕はなかった。
 だってそうだろ。いきなり幼なじみに「好き」といわれても、まずそれが冗談にしか取れない。冗談を僕はなんて返せばいいんだよ!
 自分の部屋に戻りベットにダイブした後に頭に浮かんだのは、カリオストロの城のラストで、ルパンがクラリスのお願いを突っ返すシーンだった。でも、自分が映画のキャラクターのように思えてそれに酔っている自分がものすごく嫌だった。
 その夜はそのまま眠れなかった。
 落ち着いて考えれば、酔った勢いで冗談言ったんだと分かる。大体、美喜が僕を好きだったとして、だからなんだっていうんだ。彼女は「傍若無人」な幼なじみなだけで、これ以上親密になる必要なんかないんじゃないのか?
 ただ、帰り際に美喜が見せた、酔いが一気に醒めたような、息が詰まったような表情が引っかかっていた。

 時計を見ると12時半を少し回ったところだった。迷わず敦志に電話をする。
「敦志?」
「どうした?プリントなら後で届けてやるよ。」
「ああ、サンキュウ。………ちょっと相談したいこともあんだけど。」
「ちょうどよかった。俺も話がある。」
「じゃあ終わったら頼むわ。」
「ああ。」
 敦志の声が暗かった気もするけど、気にしないで少し休もう。熱があるのはまんざら嘘でもなさそうだ。
 どんな事だって美喜のことは敦志に相談するに限るんだ。今回だって………。




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