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強い風が、一度立て付けの悪い窓を叩いた。
「………靖子?」
「え?」
目の前の幸太郎が、きょとんとした顔でこちらを見つめている。
何も知らない、素朴な瞳を見つめ返す度に罪悪感を感じるようになったのは、いつからだろうか。
「大丈夫?」
「大丈夫………ちょっと、ぼんやりしちゃったみたい」
できる限り笑って、軽い調子で返してみるものの、椅子に座る幸太郎の顔には鏡を写したように、自分が抱く不安の色が浮かんでいた。
どうしても、顔から不安が抜け切らないようだった。
しばらく前に起きたばかりだから、どうしても体が汗ばんでしまってしょうがない。部屋の中に溜まっている空気もそうだが、むわっとしているのも気持ち悪かった。
「何か、飲もうか」
靖子は髪を一度払うと、スプリングをきかせてソファーから跳ねるように立ち上がる。頭がふらついたが、幸太郎に悟られたら何を言われるか分からない。
「靖子、まだ寝てたほうが」
案の定、幸太郎は不安顔だ。
「これくらい平気。大げさだって」
幸太郎を振り払うようにそういって、靖子は冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の空気は冷たいくらいだったが、今の部屋の状態からだとかなり気持ちが良かった。
思わず、大きく息を吐いてしまう。
「何飲むの? 幸太郎さん。ビール出そうか?」
「いや。これからまた事務所戻るから…………」
「あ………ごめんね。忙しい時に」
働きすぎの過労で体調を崩したのは一度や二度じゃなかった。
今までなら自宅の電話は八重が出るはずだったが、もうここに祖母はいない。三日前に荷物をまとめて、それこそ他人行儀な別れ方でこの家を去っていった。
長年この家に住み続けた割に、孫に対するその仕打ちはあまりにも酷だった。
たった一人、この家に取り残された。
だれもかれもが、靖子を避けるようにして離れて行く。
目の前の、この人も…………?
自分がひたかくしにしている真実を告げても、彼は同じままでいてくれるだろうか。
同じように自分を抱いてくれるだろうか。
一人で抱え込んだこの痛みを、分かち合ってくれるだろうか。
「やーすこっ」
いつのまにか、近づいてきていた幸太郎の長い腕が、靖子を包み込んだ。
「…………」
冷蔵庫の戸が、静かに音を立てて閉まった。
「幸………」
「今が一番大切な時期なんだから、もういい加減バイトの掛け持ちなんて、やめてくれ」
幸太郎の声が、真剣であればあるほど重く鋭いガラスの欠けらになる。それは、胸の奥で次々と突き刺さる。
叫び出したい衝動を、かろうじて抑えた。
「…………」
「僕がなんとかするから、ね?」
「…………」
普通の恋人達なら当惑してしまうような甘い声も、今の靖子にとっては苦痛だった。
青年から渡された書類の使い道は、靖子には大方検討が着いている。
どう転んでもあの資料は津島理沙をおとしめるためにしか、使えない。
「もう、苦しい思いすることないから」
理沙をおとしめて、幸せを手に入れようとする、自分の姿が醜く思えてしょうがない。 この虚偽の証のような顔が、いつのまにか素顔にすり替ったのはいつだろう。
できることなら。
いいや、今なら…………。
誰かが、囁く。
『それができるんだよ』
「靖子………」
靖子は両手を幸太郎の背中に回した。
「…………うん」
小さかったが靖子はこの時、頷いた。
それと同時に、初めて誰かの約束を破った時のような罪悪感をも、靖子は確かに感じていた。
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