第一章:合鍵同盟
著者:蓮夜崎凪音(にゃぎー)



    −4−

「よっ」
 花壇の枠になっている煉瓦から反対側の煉瓦を低空で飛び越えて、窓枠の下へ。
 身軽な猫を思わせるようにするりともぐりこんだ武志は、窓枠の端からそっと中を覗いた。
 まず目に飛び込んだ白いカーテン、続いて薬品棚、一つだけあるやけにでかい机と椅子。
 そして。
「………あれ?」
 いると思っていた坂巻麻里がおらず、保健室にそれらしい影が見当たらない。
 代わりに入り口のところにある長椅子に、五限に出ているはずの哀れな子羊がだるそうに身体を預けてぐったりしていた。チャイムが鳴っていないから、まだ五限は終わっていないはずだ。
「……?」
 武志は少し首を傾げたが、窓を二度ほど叩いて達矢をこちらに気付かせた。達矢は少し驚いたように窓枠まで来ると、窓を静かに開ける。
「よ、元気かね、達矢君」
「よ、じゃないだろ武志。ひどいじゃないか、一人だけ逃げるなんて」
「かといってあのまま二人捕まるのもアホらしいだろ」
「うーん………」
 少し険しい顔で、達矢が真剣に悩みだす。
「っていうかお前なんでここにいるんだよ」
「え?」
「もう五時間目始まってるだろ」
「あ、ああ、そうか……武志は知らなかったと思うけど、科学の磯崎先生今日いないんだって。で、自習」
「あ、なんだ」
 それじゃそこまで必死になって逃げる必要はなかった、ということじゃないか。
 昼休みの激闘が今更ながらにアホのように思えてきて、武志は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「なら、こんなところになおさら用はないだろ。こっから逃げようぜ。っていうかお前なんで坂巻いないのに出ていかないんだよ」
「それがさ、六時間目でないとエライコトになるらしいんだよね」
 窓枠に両手をついて、もっともらしい溜息をつく達矢。
「エライコト?」
「よくは知らないけど、坂巻先生のやることだからさ……なんかありそうなんだよね」
 なんとなくだがニュアンスで達矢の不安がわかるような気がする。
「今もとりあえず自習というコトで真面目にプリント片付けさせられたところだし」
「なるほどな」
 達矢がぐったりしていた理由が分かった。ただのオーバーヒートだ。
「だから、武志も知らないうちに弱味つかまれていたりすると後々大変だよ?」
「………そうだなぁ」
 意外と校内で人気があり、情報網を持っていそうな坂巻は侮れない。テニスボールを白昼堂々校内で生徒にぶん投げるというかなり凶悪な性格も一端だが、要所要所での詰めが細かいのも『奴』だ。
「でも武志こそ、こんな敵陣のどまん前に来るなんて珍しいじゃないか」
「いや、本当はその坂巻に用事があったんだけどな……」
「え?」
 間の抜けた声で聞き返した達矢に、武志はふらりと一歩後ろへ引いた。
「なんでもない。それじゃ、ばれないうちに行くわ」
「あっ、た、武志っ」
「なんだよ、ここまで来たら六時間目なんて受けるわけねー………」

 とん。

 振り向いたその額に、なにか細く尖ったものが当たった。
「?」
「ほほぅ、そりゃとんだ困ったチャンだね、ボクー?」
 視線の先、ひどく状況に不釣合いな微笑を浮かべる人物が一人。
 聞いたら忘れることの出来ない声。
「あ………」
「ふっふふー」
 満足げな笑い声だけが静かに、辺りへと。
「つ・か・ま・え・た」
 艶っぽい言葉尻に、鳥肌が立つ。
 ………怖い。
 マジで怖い。
「………お、俺はほら、た、達矢の様子見に来ただけだからさ、いや、倒れてたから心配だったし……ほら、友達としてさ、うん」
「それはいいことだね」
 目の前に立ちはだかる保健医は笑顔のままそういうと、武志の肩に手を置いた。
「でもね」
 その瞬間。

 めきょっ。

 肩がありえない音を立て、武志はその激痛で即座に意識を失った。

    −−−

「………」
 頭上で、高く高くチャイムが鳴っているのが聞こえた。
 そして、視界が横倒しになっている。頬に当たるごつごつした、だけど慣れている感触。
 机だ。
「………あれ?」
 視界の先で頬杖をついていた達矢が偶然こっちに気がついて、軽く笑った。
「お、ギリギリでお目覚め」
 軽く整えるように息をついて、武志は半身を起こした。
「っつ……」
 肩に違和感が走る。強いて言うならいったん外れたのを再びくっつけたような違和感、不安定で落ち着かないといえば正しいだろうか。
「あ、ヘタに動かさない方がいいって、坂巻が言ってたよ」
「あのやろう……人の肩こんなにしやがって」
「利き腕じゃないだけ感謝しなさいって言ってたけど?」
 もう一度机に頬杖をつきながら、少し慌てながら教室に入ってくる国語の天谷を見て、意味深な笑みを浮かべる。
「………そういう問題じゃないだろ」
 いきなり無抵抗の人間の肩を砕くなってんだ。
「一応、テーピングしてあるみたいだから、安静にしておいた方がいいって。以上、坂巻からの伝言」
「ったく………明日の体育どうすんだっての」
 軽くテーピングのある箇所を確認して、今頃保健室で茶でも飲んでいることであろう保健教諭を思い、武志は毒づいた。
「それに、ちゃっかり六限出る羽目になってるしな」
「まぁまぁ、どうせやることないんだから、たまには出席しても罰は当たらんでしょ」
 弱みを握られているからかどうだかは知らないが、達矢は今回穏健派閥に回ったようだ。
「ほれ、どうせ教科書、持ってないんだろ?」
「持ってる」
 そそくさと机を近づけてくる達矢にうんざりした顔で、武志は昼から教室に置きっぱなしだったカバンから、古典の教科書を出した。
「………なんで出ないつもりの授業の教科書持ってんだ」
「そのセリフはお前に返す。ほら、始まるぜ」
 促すように黒板を見やると、午前中と同じような緑色の黒板と、見慣れた景色。

 はぁ……。

 人知れず、溜息が出る。
 退屈な六十分がゆるゆるとカウントダウンを刻み始めた。

   −−−

「なぁ、武志」
「ん……」
 半分寝ていたところで、武志は身体を動かさず、声だけを達矢に向けた。
 授業は本日のメインである「ぬ」の活用に入っているらしく、黒板にはやたらカラフルな四角でかこまれた「ぬ」がたくさんあった。
 書き写す気にもなれずに、武志のノートは欄外に小さく「め、ぬ、ろ、る」と謎の言葉を残して終わっている。
「大丈夫か?」
「眠いだけ、気にするな」
 本当はぐっすり寝てしまいたかったのだが、身体を倒すと左肩が痛むせいでどうしても寝られずにいた。
「なんだよ」
「お前、帰りヒマ?」
「……なんで?」
 武志は、その答えを知っていたが、あえて聞いた。
「ほら、ギターの金もうちょっとで溜まりそうだから、見に行こうかと思って」
「………あのなぁ」
「ん?」
 うんざりした顔で、一度達矢の嬉しそうな断りの間を入れる。
「週五回も俺を誘って、飽きないかね、君は」
 ちなみに、土日を論外とすると学校ある日はほぼ毎日という計算だった。
「飽きないねぇ………どっちにしようかまだ決めてないんだよねぇ」
 ほぉ……。
 幸せそうな溜息の横で、武志は肩の痛みを抑えて机に突っ伏す格好になった。
「パス」
「えー?」
「当たり前だろう。付き合ってられるかっての」
 一日二日なら、楽器屋の中で色々珍しいものをあさることは出来るが、四日連続で見てるだけの冷やかしというのは用がないだけで心苦しい。
 しかも本屋ならともかく楽器店だ。それほど人がいない。
「えー。付き合えよぅ。この前クレープ奢ったろうよ」
「この前はこの前」
「えー。ひどいよー」
 口を尖らせて抗議する達矢。
 その瞬間だった。

「佐々木くーん、問題といてくれるの?先生さっきからそんなにアピールされて、嬉しいわー」

「………」
 横目で口を開けている人間を見るのは、なんか魚を見ているようで面白い。
「まぁ、がんばれ、「ぬ」だぞ」
「いや、がんばら、ぬ」
「否定の助動詞」
「正解」
「………本当かよ」
「しらねぇ」
 諦めたのか、参考書片手に達矢が前へ歩き出した。
 武志はその背中に適当にエールを送ると、痛みを押して、眠気に従って顔を伏せた。