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「んじゃ、武志」
「おーう、とっとと帰れ」
武志はきっぱり言い放って、いつも別れる一棟の階段の手すりに手をかけた。
「ひでぇな、まったく」
「まぁな」
「……それじゃ、また来週」
軽く手を上げて、達矢が校舎の中へ消えてゆく。
「………」
いつもと違って完全に消えるまで見送ってから、武志は手すりから手を離し、いつもむかう部活棟とは反対側の方角へ、歩き出した。達矢には用事があるからと先に帰ってもらうことにした。
別に達矢に後ろめたい気持ちがあるわけじゃない。
話してもよかったが、話してなんになるかといわれればそれまでだ。
足が自然と二年生の教室と、特別教科室がある二棟へ赴いた。
もしかしたら、まだ頑張っているかもしれない。
別に、会ってなにをしようとかそういうことは考えてなかったが、武志の体は自然と、五時間目に滑り込んだあの場所へと動いていた。
特別教室群だけに声楽部や書道部、美術部がいるかと思いきや、四階はえらく静かだった。試しに階段から廊下を見てみたが、人が一人もいやしない。
閑散と静まり返った校舎は、窓の下を見る限りの人影の多さとは対照的で、ひどく得体の知れないものを想像させる。
「………」
まだ、『何か』が出るには早い。
幸いにも人がいないことだし、さっさと登ってしまうに限る。
立ち入り禁止とかかれていないにも関わらず、ここから先の階段は無言で何かを押しとどめるような圧迫感がある。
踏み出した一段目から、今までいた場所との違和感を感じてしまう。
踊り場の窓は閉めきったまま、昼のように午後の光を受けいれて明るいのに、ここだけが閑散としきっていて、やはり別世界のようだった。
踊り場まで来て、階上を見上げる。
「………」
いない。
扉に差し込まれた針金も、それを握り締める少女の姿も。
昼にあった出来事がまるで嘘のように、そこから忽然と消えていた。
しかし、一つだけ昼間と決定的に違っていた。
武志は残りの階段を登りきると、少しだけ光が差し込んでいた扉の隙間に両手をかけて、思い切り引っ張った。
ぎがっ、ががっがががっ!
「くっ」
すげぇ音。
片目をつぶって、一人ごちながら。
それでも、半分くらい開いたところで武志は扉を開くのをやめた。
「………」
呆然と、扉の向こう側に開いた空を見上げる。
穏やかに見えた春の空が、さっき見たものと全く違ってみえる。
遙かに、蒼の密度が違う。
「………まさか、そっちから会いに来るなんて意外や意外」
その、空の手前から声がした。
覗き込んだ扉の向こう側、すぐ右手。
「や」
さっきの女子が、パンを片手にこちらに手を上げた。
「……開けたのか」
「ま、ね。結構簡単だったんだ、ドアノブのほう。だから、錠前ついてたんだと思う」
食べていたパンの残りを強引に押し込んで、女子は手を叩いた。
「ほれひひてほほふほほってほへはへ」
「頼むから、食べてからしゃべれ。なに言ってんだかわからない」
「は、ほーぉ?」
彼女は横においてあった自販機の紙パックジュースで口の中のものを流し込んだ。
「ん、っぐっ」
消化してゆくさまは豪快、というよりは強引。
見た目が一見大人しめに見えたが、昼のやりとりを聞くようでは豪快な方の性格が当然かもしれなかった。
「………」
「ふぅ……さ、これで平気?私の言ってること、分かる?」
そう言って、その女子は改めて武志を見上げた後、すぐさま顔をしかめた。
「そんなカッコで疲れない?座れば?」
「え、あ、ああ……」
確かに、中腰で顔だけ屋上に出している状態はきつい。
武志は態勢を整えると、入り口の段差に腰掛けた。
そのとき、ふっと女子が吹き出したのが聞こえた。
「な、なんだよ」
「意外と、なれない人相手だと大人しいんだと思って」
「………」
「ねぇ?」
そういって、にやりと笑う。
「そういえば、名前なんていうの?」
「……秋山」
「あぁ」
たったのそれだけで、納得したように、少女が手を打った。
「………?」
「あなたがあの有名な、秋山武志……へーぇ」
「なんで知ってるんだ」
「午後だけサボる奇妙な二年生。秋山、佐々木のツートップと言われればサッカー部より有名だよ?」
少女はそばにあった鍵針金を手に取ると、その型を眺めながら笑った。針金のほうに差していたほうらしい。
なんだか、さっきと明らかに態度が違うだけに何かしゃくにさわる。武志にはいきなり余裕をかまされているように見えた。
「………うっせぇ」
短く強く吐いて、開かなかった方のドアに背を預ける。
心地よい風にも、なにか素直に気持ちよくなれない。
「さて」
切り出すような口調で、少女が立ち上がった。
「邪魔者も来たし、帰りましょうかね」
「………邪魔者ってなんだよ」
立ち上がった少女を睨み上げるようにして、武志は言った。
その代わりに、少女が溜息を返して武志を見下ろした。
「その通りの意味。せっかく開かずの屋上を開けたのに、開放初日から邪魔が入るとは思ってもみなかったわ」
言われてみれば武志はただの袋小路への通りすがりだっただけで、言い返す言葉がない。
「………」
「冗談だよ」
見上げた武志に、彼女がほんのり微笑んでいた。許すというよりは、残念という感情の方が色濃いような気がした。
「偶然って言葉もあるし、こうなっちゃった以上しょうがないし」
「………」
「君にも使うことを許すよ」
「……は?」
いきなり話が飛んだ。
「だから、屋上。はい、これ合鍵ね」
躊躇するまもなく、武志の下に鍵針金が音を立てた。形状の違う、おそらくドアノブに使用したものだろう。
「言っておくけど、君を信用したわけじゃないから。口止め料の代わり。黙っててくれるなら、あげる」
「え、でも、これ……」
鈍く光る、規則的にへし曲がった金属を拾い上げる。
「数のこと言ってるなら心配無用。あのくらい簡単ならすぐに作れるし」
………なんて奴だ。
「本当に、いいのか?」
「ま、秋山くんクラスがサボるなら、最適だと思わない?先生だって、こんなところ初めから度外視してるんだから」
そういって、彼女は笑った。
「……確かに」
「ということで、それはあげる。先生とか他の人には、見つからないように。私だってここ、使うつもりなんだから」
「あ、そうだ」
ここにきた当初の話を忘れていた。
「ん?」
「なんでアンタ、こんなところ………」
「開けようとしたか?」
先手を打って、少女が言葉をつないだ。
「………おう」
「私も、サボりたかったから」
「………えらく単純な理由だな」
「それをいうなら、秋山君だってそうでしょうよ。なんか理由があるなら別だけど」
それをいわれると立つ瀬がない。
少女が、見透かしたようににやりと笑う。
「それじゃ、私、今日は帰るね」
「え、お、おい」
「ん?」
「邪魔なら、退くぜ?」
別に、何をしに来たというわけじゃない。帰りがてら気になって顔を出してみただけのレベルだ。ここに留まる理由もない。
「んーん、今日は、もし開いてもすぐ帰る気だったし。用事あるんだ」
「………それにしてはパンとかのんびり食ってたけど」
「それは、ついでよ、ついで。昼に購買で買ったものが間違ってたから。口直し」
「間違ってたって……アンタも?」
「アンタもって、秋山くんも?」
「………ああ」
少し吹き出して、彼女が屋上の入り口に手をかける。
武志は視線だけ、近くにいる彼女を追った。
「それじゃ、またね」
武志が何かを返す前に、その姿がふわり、校舎の中へ消えてゆく。
背姿を追ったが、別段武志は何も声をかけられず、ただ階段を下りてゆく彼女を見つめているだけだった。
………なんだったんだ、いったい?
残された屋上で一人、武志は答えるわけがない針金に向かって、そう問いかけた。